中途半端な相対主義批判

文化相対主義に対する批判

ドーキンスの「神は妄想である」を批判した際*1、その文化相対主義批判に対しては応答する必要があると明言したんだけど、まだやっていませんでしたにゃ。
文化相対主義とはどういうもので、それに対してどういう批判があるかについては、

などをご参照のこと。ドーキンスの文化相対主義批判も、ウィキペディアにある


文化相対主義には普遍的人道などの観点から見て不備があり、固有文化の価値を楯に取った抑圧(幼児割礼やイスラム圏における人権侵害など)が防げないとの批判がある。

あたりをふまえたものでしたにゃ。


文化相対主義ってのは、西欧文化を基準として、西欧にちかい文化・社会を「進化したもの」とみなす「進化論的」な自民族中心主義に対する反動としてでてきたものですにゃ。もちろん、この文化進化論というのは自然科学における進化論とは無関係な概念というか、自然科学における進化論概念の明白な誤用なんだけどにゃ。
ドーキンスがここにでてきているのは皮肉というかなんというか。


ドーキンスなどの文化相対主義批判に対する、再反論については、ウィキペディアにあるように「文化相対主義と倫理相対主義の混同」だとか、リンク先で池田光穂がいうように


ここでもう一度、このページの私回答の冒頭にある文化相対主義の説明を読んでください。


そこには「他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。」と説明してあります。


君の言うように「文化」(全体)を認めるとか認めないというふうには書いていません。書かれてあるのは「他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認」するつまり認める態度だと言っています。ということは「絶対いけない」と感じ、さらにそれを「認める」こともできるということです。ただし、これは普通は容易ならざる道です。つまり、これは「意図」しておこなうという意味です。だから「倫理的態度」という言葉で説明しているのです。

と反論するのもよいと思いますにゃ。人類学者クリフォード・ギアツをひっぱりだすのもいいでしょうにゃ。


ただし、ここではもっといい加減なかたち、肥だめにひきずりこむようなかたちで「文化相対主義」を擁護してみますにゃ。

国家は文化の「単位」になりえない


中国の人権侵害はよく問題となりますにゃ。自国内の人権問題について中国政府は内政不干渉をたてにとり、また、東アジア的価値観をもってくることもありますにゃ。この「東アジア的価値」ってのは、「東アジアにはこういう価値観があるんだから、欧米流の人権価値をもってくるな」という文化相対主義的な主張にゃんね。


ここで僕が指摘したいのは、中国は50有余の少数民族を抱えた多民族国家だという事実ですにゃ。中国政府のいう「東アジア的価値」というのは、各々の少数民族の価値観すべてに適合するのでしょうかにゃ?
あるいは、いわゆる漢民族においても、「諸子百家」といわれるほど多様な思想があるのに、それらを「東アジア的価値」とひとくくりにできるものなのでしょうかにゃ?


どっちも無理だと思うんだよにゃー。
中国政府のやっていることって、

  • 人権という「普遍価値」に対して、相対主義をつかって反論
  • その内側に抱える現実的な多様性に対して、相対主義を認めない

という、いわば相対主義ダブスタであると考えますにゃ。


こういうダブスタは他にも見られますにゃ
例えば、イスラムという宗教は内部に非常に大きな多様性を抱えたもののはずなんだけれど、いわゆるイスラム原理主義の連中はその多様性を否定してかかるわけだにゃ。「外部」のキリスト教的・西欧的価値に対して、イスラム固有の価値を主張するくせに、イスラム内部の多様性・寛容性や教義解釈の柔軟性を認めずに硬直化し一元化した教義をおしつけるわけですにゃ。


日本というのは、文化的には比較的均一だということにはなっているんだけど、北海道から沖縄まで、裏日本と表日本、関東と関西など、対立するところはいくらでも見いだせますにゃ。正月に食べる雑煮の餅の形状から味付け、具材にいたるまで多種多様。常民もいれば非常民もいるし、町人文化と農民の文化も異なるにゃ。
無論、日本文化としての一定の枠のようなものはあるのだろうけれど、「これが現代日本の文化です」と特定地方の特定階層の文化を押しつけられたらたまったものではにゃー。
それに、多少細分化したとしても同じことだにゃ。例えば関西の都市文化とまで絞ったとしても、大阪と神戸と京都ではそれぞれいろいろと違うんだろ? 僕の住むところでは、各町内会ごとに祭りのシャギリがちょっとずつ違い、その違いを伝承につとめているにゃ。
極端な話、各家庭にそれぞれの文化があるとまでいえるわけですにゃ。そして、各家庭においては、世代文化、ジェンダー文化などの多様性が発現してしまう。


また、網野善彦が「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」などの著書で明らかにしたように、日本の思想の伝統にも自由とか公共圏とかいったものを求める志向があったことも忘れてはならにゃーでしょう。アマルティア・センにも人権思想はアジアにおいても普遍な価値となりえるという旨の発言がありますにゃ。


文化的多様性というものは、あらゆる集団の中にかならず抱え込まれていってしまうものですにゃー。そして、どんな集団においても個人主義なり自由への志向というものがなくなることはにゃー。各家庭に各文化、が極論であるとしても、少なくとも国家などという暴力装置・徴税装置・戦争装置風情が文化の単位となるなんてことはお話にならにゃーってのはガチだろ。権力が文化相対主義をもちだすと、ほぼ必ずそれはブーメランになってしまうのだと思うのですにゃ。


というわけで、ドーキンスあたりの文化相対主義批判に反論するにあたって、こう言ってみる。

  • 文化相対主義はわるくない。文化相対主義が中途半端でダブスタになっているのがダメなのよ
  • 権力が自己正当化のために文化相対主義をもちだしても、それはブーメランにしかならない

最後に

  • 人間とは社会的関係の総体(アンサンブル)である

マルクスは喝破しているにゃ。
伝統とか文化とかいう様々な紐帯の結節点として個人があるのだと僕も思う。いろんなところから色とりどりで細かったり太かったり切れそうだったり丈夫だったりするヒモが張り巡らされていて、それらがからまったコブが僕たちひとりひとりなのではにゃーだろうか。ヒモなしで僕たちは存在できにゃーし、ヒモを断ち切っていったら誰とも関係のむすべなり、アトミズム的個人主義に陥ってしまいますにゃ。
一本一本のヒモを大事にしようね、というのがまともな伝統主義であり保守主義だと僕は思うんだよにゃ。国家だとか民族だとかいうヒモが僕というコブにからまっているのを認めるのはアタリマエにゃんが、それらは一部にすぎにゃー。国家とか民族を大事にするのはいいけど、それ以外のヒモを切り捨てるのは反伝統でありエセ保守だと考えますにゃ。


文化相対主義ってのは、僕たちをつくっているヒモの一本一本が祖先や先人たちから託されてきた大切なものであるように、他民族とか他宗教のヒトたちを形作っているヒモの一本一本も大切にしようね、というアタリマエのことだと僕は認識していますにゃ。
民族国家だけが唯一のヒモだあ、とか、神様だけしかヒモと認めない、とかいう国家原理主義や宗教原理主義は文化相対主義の敵なのですにゃ。
ニンゲン存在は多元的・多面的であることを前提にしていかにゃーとね。