「神は妄想である」書評(1

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

メリケンの不寛容な無神論者についての議論の補足として、ドーキンス「神は妄想である」の批判をいたしますにゃ*1


まず言っておかなくてはならにゃーことは、僕は創造科学という代表的な疑似科学のビリーバーとだいぶ遊ばせていただきましたにゃ。その過程でしばしばドーキンスの著書を引用させてもらったし、その考え方を参考にさせてもらっているところは大にゃんね。「利己的な遺伝子」「ブラインドウォッチメイカー」はある程度読み込んだといっていいと思いますにゃ。進化生物学の啓蒙者としてのドーキンスは高く評価しておりますにゃ。
しかし
最近の宗教批判者としてのドーキンスはまるで評価できにゃーね。「悪魔に仕える牧師」も読んだ時には嫌な読後感があったけど、「神は妄想である」を読むにいたって、これは白痴的駄本ではにゃーかと確信いたしましたにゃ。
以下に「神は妄想である」を白痴的駄本と考える根拠を挙げていきますにゃ。

  • 批判対象に関する無知と侮蔑

知りもしにゃー対象を批判するのは一般的にいって危険なことだにゃ。シロウトの文句なんざ、たいていは無知ゆえの誤解でしかにゃー。専門的な意見のまえにすごすごと撤退するのは理性的なほうで、自分の間違いを認めず、傷を広げることになることが多いよにゃ。
特に、「進化論はまちがっている」系のお歴々が現代生物学をまともに理解していることはあまりにゃー。ドーキンス自身も、その手の無知な手合をさんざん餌食にしているわけですにゃ。批判するのであれば、その対象についてそれなりに知らなければならにゃーよね。それは批判の前提のはずだにゃ。
さて、ドーキンスは批判対象をひととおりにでも調べたのか?


(引用者注;以下の記述は聖人のうけもつ分野や天使の位階についての記述に続くもの)私がカトリックの神話学から受ける印象として、悪趣味な俗悪さというものが必ずどこかにともなうが、主として感じるのは、カトリックの人々がそうした細部をつくりあげる際のあっけらかんとした無頓着さである。まさに厚顔無恥なでっちあげ方なのだ。P57


カトリックにおける天使のヒエラルキーは、他の多神教の体系、例えばギリシア神話ヒンドゥー教多神教ヒエラルキーに匹敵する体系をもっていますにゃ。これはいってみれば一神教のはずのカトリックの中にある多神教的構造にゃんな。
で、多神教的なヒエラルキーというものを「厚顔無恥なでっちあげ」と断じてしまうのはだいぶハズカチイ。神々のヒエラルキーは一面では歴史を反映したものであり、また一面では神話的構造のあらわれでもありますにゃ。こういうものをでっち上げ呼ばわりするだけでイロイロとお里が知れますにゃ。


ウェヌス(ヴィーナス)はアフロディーテのもう一つの名にすぎなかったのか。それとも別の愛の女神だったのか? 槌を持つトールはオーディンの顕現なのか。それとも別の神だったのか。誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。こちらを無視するのかという非難を浴びたくはないから、多神教に目を向けてきただけで、このことでもう何も言うつもりはない。以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。P58


無知に開き直っているようですにゃ。
各民族が征服とか同化とかいった事件を経てごっちゃになっていくと同時に、神々も置き換わったり混淆したりしてごっちゃになっていきますにゃ。歴史と神話の絡みというのは非常に面白いトピックですにゃ。また、人間のイメージにはある程度類型的なパターンがあり、そこに神々がごっちゃになっていく原因があるともいえて、神話に見られる人類の基本的イメージというのも知的な好奇心をおぼえるお話だと僕は思うんだけどにゃ。こういった神話や宗教についての関心はドーキンスにはまったくにゃーようだ。
「誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。」


例えばオオゴキブリ類の系統解析についてシロウトが「誰が気にするものか」と発言すること自体はいいだろうと僕は思う。しかし、オオゴキブリの系統解析について「誰が気にするものか」と発言する者が進化論を否定する書籍を刊行していたらどうなんでしょうにゃ? こういう人物は自分が否定する分野について無知であるのみならず、無知であることに開きなおるという意味で知的な不誠実を非難されるに足るでしょうにゃ。
僕個人はオオゴキブリの系統解析に興味はにゃーのですが、まあ突っ込めばきっと面白いんだろうなとはわかりますにゃ。もちろん、自分に興味があるかどうかと、その分野の学術的価値とが連動するわけではにゃーということはわかっていますしにゃ。
オオゴキブリ類の系統解析も、神々の「系統解析」もどちらも極めて知的な営為であることは間違いのにゃーところでしょう。もちろん、オオゴキブリ類の系統解析を「誰が気にするものか」などと発言するボンクラが進化生物学を批判するのは相当にハズカチイということがわかる常識人なら、神々の「系統解析」を「誰が気にするものか」などとのたまう我らがドーキンス大先生のやっていることがどういうことかはわかるはずなんだけどにゃ。


サー・ジェームズ・フレーザーの「金枝篇」からパスカル・ボワイエの「解明された宗教」あるいはスコット・アトランの「われら神々を信ず」まで、人類学的な情報に満ちた著作が、迷信や儀礼にまつわる奇想天外な諸現象の存在した証拠をあざやかに提示している。そうした本を読めば、人間のあまりの騙されやすさに驚嘆することだろう。P58〜59


はあ? 「騙されやすさ」?
ボワイエやアトランについては邦訳も出てにゃーようでわかんにゃーのだが、フレーザーの書いたことについて言えば、それを「人間のあまりの騙されやすさ」などと論評するのはどうしようもなく馬鹿全開だにゃ。
呪術研究で主導的な役割を果たしたデュルケム学派の創始者デュルケムによれば、「外在性」「強制作用」「一般性」の基準を満たしたものは「客観的現実」だそうですにゃ。フレーザーの書いたことは、この基準に照らせばまさに「客観的現実」そのものなんだにゃ。フレーザー読んでレポート出せ、と教養課程で社会学の先生に言われて、「人間のあまりの騙されやすさ」なんて書いたら赤点だよ、ドーキンスくん。
で、人類学的な知見を披露するのに、モースもストロースもギアツも出てこにゃーところも泣けるにゃ。言っとくけどこのあたりのヒトタチが最もスタンダードな大立者にゃんがね。このあたりのヒトタチの言い分はどうねじ曲げてもドーキンスには都合がよくにゃーだろう。
ドーキンスは、人類学のスタンダードなところを知らずに発言しているか、あるいは都合のワリイところを意図的に無視していると考えられますにゃ。


さて、まだまだ突っ込めるところはあるけれど、もういい加減こんなところでいいでしょうにゃ。
ドーキンス大先生は「神は妄想である」で

私は神というものを、すべての神を、これまでどこでいつ発案された、あるいはこれから発案されるどんなものであれ、超自然的なものすべてを攻撃しているのである

と大風呂敷を広げていらっしゃいますにゃ。
しかし、「神というもの、すべての神」「超自然的なもの」について研究されてきた成果について、ドーキンスはまるで無知であるどころか、無知に居直り、あるいは都合の悪い研究成果を無視している可能性もあるわけですにゃ。
超越的なものを研究する際の概念や方法論をまったく理解していにゃーか、あるいは知らにゃーふりをしている。

  • 何も知らない馬鹿が、何も知らないゆえに、自分が何も知らないことをさらけ出す。

相対性理論は間違っている系、あるいは進化論は間違っている系のあまたの白痴本で多くの馬鹿が恥をさらしたそのスタート地点にドーキンスがいる、ということをまず確認いたしましたにゃ。
この項、つづく

  • 追記 5月27日

検索の利便性を高めるため、冒頭にアマゾンのリンクを張りましたにゃ。

*1:掲示板での議論をベースにしている