科学はやはり宗教だった?(追記アリ

タイトルには煽り成分が含まれております。


アボリジニの画家
「DNAの分析から、人類の起源はアフリカというが、私は信じない。
 アボリジニの歴史が偽りで、ただの神話だというのなら、信じなくても構わない。
 しかし私たちは違う。アフリカ起源説など信じない。
 私たちはここで生まれた。」


遺伝学者
「とても複雑で難解ですが、私が話した起源説はあくまでDNAの歴史なのです。
 ヨーロッパ人のルーツをさぐる研究です。
 それが私たちのソングラインです。
 科学が、私たちに唯一残された歴史を解明するための手段なのです。
 ソングラインです。
 欧米人には科学しか残されていません。
 あなたたちには必要ないものです。」


アボリジニの画家(うなずいて
「私たちは知っている。
 天地創造も生まれたわけも。」


ジャーニー・オブ・マン:人類の軌跡より


遺伝子マーカーを用いて人類の系統樹を作成することを試みている集団遺伝学者スペンサー・ウェルズ博士をあつかったこの番組をみて、もっとも記憶に残った会話をテキストにおこしましたにゃ。ソングラインとは、http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4839700788によれば「アボリジニの先祖の足跡を辿るルート・マップであり、天地創造の神話であり、法の道であり、情報としての財産でもある」とのこと。
アボリジニの世界へようこそなども参照のこと。
ソングラインという神話のあり方は本当に面白いんだけど、ここでは突っ込んでいられにゃーですね。


さて、
この会話が印象深かったのは、「アフリカ起源説など信じない。私たちはここで生まれた」「天地創造も生まれたわけも知っている」とアボリジニの画家が言いきるのに対し、遺伝子マーカーを使った人類の系統樹の研究のことをアボリジニに対して「あなたたちには必要のないもの」とウェルズ博士がいっているところにありますにゃ。追っているのはあくまでDNAの歴史であり、あなたがたアボリジニのソングラインを否定するのではないのだ、わたしたちのソングラインを追っているのだ、といっているのですにゃ。


もちろん、アボリジニに対して
「科学こそが事実であり、おまえらの神話など間違っている」
などということは許されることではにゃー。
だからといって、この遺伝学者がたんに方便で科学と神話の等価性をいったのだとも思えにゃーのだ。
集団遺伝学の手法で人類の系統樹をつくることには価値があると僕は思う。しかし、その価値を僕自身がアボリジニの画家にどうやって説明するかを考えてみると、「科学こそが我々のソングライン」という説明が最善に思えるのですにゃ。
読者諸賢ならアボリジニにどう説明するかにゃ?

古井由吉「始まりの言葉」より

始まりの言葉 (双書時代のカルテ)

始まりの言葉 (双書時代のカルテ)


二十世紀はこれまでの世紀のうちで、もっとも多くの人命を救った世紀であると同時に、戦乱や強制収容所や虐殺により、過剰集中や過剰流動や超大量生産により、生活習慣の改変や環境の破壊により、もっとも多くの人命を奪った世紀だと言える。その時々の安寧も、死屍累々の上に築かれたものである。さらに、近代は人を死から救いに救ったあげく、最後には荒涼たる死へ押しやる。


近代そのものはしかし、「不死」の相貌を帯びている。そればかりか、その相貌とまともに向かい合った人間をそのつど、あたかも不死のような感覚の中に凝固させる。ゴルゴンの首ならば人を石と化して了えるが、近代に睨まれた人間はその凝固の中で行動し続ける。


P36


生み育て慈しむ地母神が、同時に破壊神であることは神話にはよくあることですにゃ。ゴルゴンは零落した地母神であるといえるでしょうにゃ。
生み育て、救い、そして命を食らうものであるという意味で、近代というのは確かに神のごときものであり、不死性をもったものといえるのかもしれにゃー。
そして一方、
近代とはいわば自転車操業であり、走り続けなければ、成長を続けなければ止まって倒れてしまうものであり、確かに「凝固の中で行動し続ける」ことになるわけですにゃ。


「先進近代社会」では魂を信じるものは多数派とはいえずとも、魂を信じ後世をおそれる人間の方が、全世界を見渡せばたぶん多数派であろうということと、魂には不死性が当然ながらともなうことを古井は指摘し、以下のように続けますにゃ。


不死の観念は、人の意識の中心から断念排除されると、「事」のほうへ、さまざまな事物や営為の中へ入り込む。人間の有限性を自明のこととして踏まえながら、不死にひとしいものを、現世の道徳性の貫徹に求めた賢人たちが往古にはいたと聞く。その道徳性の解体して行く時代にあって、行動に不死を求めた人間たちが、集団の熱狂と融合に不死を求めた人間たちがあった。しかしその行動の、その熱狂の果てに、巨人化した近代の素面に睨まれて、多くの人間が命を奪われ、生き残った者たちは蹌踉として逃れ出て来た。以後、現実主義についたというのが、先進近代社会の大勢ではないかと思われる。しかし現実主義は支配権を握ると、熱狂者よりはるかに、過激になった。その現実主義の支配のもとで、不死の観念はどこへ潜り込んだのか。


広い意味での科学技術の中へではないか。あるいは科学技術についての近代人一般の観念の中へ、と言ったほうが正確だろう。


P38


ここでいわれている「抑圧されるとどこかへ入り込む不死の観念」というのはまるでフロイトのいうリビドーみたいにゃんね。
フロイトのリビドー理論が、物理学のエネルギー保存則をモデルにしたものであることは知られておりますにゃ。そして、エネルギー保存則というのはヒッジョーに納得のしやすい仮説ですよにゃ。「相対性理論は間違っている」「進化論は間違っている」とかいうお方は珍しくもなんともにゃーが、「エネルギー保存則は間違っているのだあああ」というのは相当に珍しいのではにゃーかな? 僕自身も、相対性理論量子力学は感覚的にピンとこにゃーけど、ニュートン力学とかエネルギー保存則あたりまでならすっきりと腑に落ちますにゃ。
で、
ひっくりかえして考えてみるに、このエネルギー保存則の発見と受容というもの自体が、僕たちの認識のある種の嗜好に、「不死性」を求める僕たちの嗜好に負っているのではにゃーかとも思えますにゃ。つまり、「不死なるもの」があるのだという素朴な感覚によって、リビドーとかエネルギーとかいうものが実在として捉えられているのではにゃーかと。


そして、ナチスにしろスターリンにしろ、理想社会の建設というのは、これもやはり不死性を求めたものだといいえるかもしれにゃー。特にナチスの人種主義・血統主義というのは、一体化したアーリア民族の血統とその支配に不死性を見出すものであるとはいえるでしょうにゃ。


もちろん、ナチスもキョーサンシュギもご覧の有り様だったわけですにゃ。ここで古井が「現実主義は支配権を握ると、熱狂者よりはるかに、過激になった」といっているのは興味深いにゃー。うずうずくるけど、この「現実主義」についてはここでは突っ込んでいられにゃーです。
ここで突っ込むのは、不死の観念が「広い意味での科学技術」に入り込んだという見解ですにゃ。


ここで強調しておかなければならにゃーのだが、古井は自然科学というものを誤解しているわけではにゃー。引用部の直後に「ここにも矛盾はある。科学は究極不滅の原理である存在への探究を断念したところから、近代へと離陸したはずなのだ。」
と続き、科学が限定された領域内において成り立っていることをその後もちゃんと述べていますにゃ。「すべては有限で相対的なものと考えられる。不死どころではない」とまで。
しかし古井は続けますにゃ。


にもかかわらず、それぞれ有限なはずの追求が、その限定の更新のはてしなさ、展開の無限性により、不死のごとき相貌を帯びるに至っているのではないか。


この「不死」と一個の人間の生死との、折り合いのことである。


P39


いうまでもなく、神話における「火の鳥」は不死性の顕れのもっともたるものですにゃ。自らを焼き、そして焔の中から生き返る存在こそまことの不死を感じさせますにゃ。輪廻というのも不死性であり、仏教ではこの不死性こそが牢獄だったわけですよにゃ。
科学理論とは結局のところすべて仮説であり、より説明能力の高い理論にとってかわれる可能性を常にもっていますにゃ。そして、多くの科学仮説はより妥当なものに席をゆずってきたわけにゃんね。あるいは相対主義的にいろいろな仮説が入れ替わっただけとみなすとしても、古井のいう「それぞれ有限なはずの追求が、その限定の更新のはてしなさ、展開の無限性」というのはあてはまるわけですにゃ。
そしてそれは不死の相貌を帯びると。


例えば、科学者にとっての不死性とは何か? 教科書に載ることなんでにゃーのかな?
教科書という神話的な書物に名を残す英雄となることが、科学者にとって最大の栄誉なのではにゃーだろうか? カネをもって贅沢三昧もいいけど、教科書に載るほうがよっぽどスリリングで楽しいよね、というのが多くの科学者のマインドであると思いますにゃ。


もちろん、科学者共同性に属するまともな科学者は、科学内部の方法論は神話・宗教の論理とはまるで異なることを理解していますにゃ。科学と神話・宗教に優劣があるということではなく、その内部での論理は異なるということですにゃ。
しかし
社会からどのように見られているか・どのような役割が期待されているか、という点において、科学と神話・宗教はそんなに違うものなんだろか?
不死の相貌を帯びたものであり、僕たちがいまここにあることを説明するものであり、そこから生きるための糧をひきだすもの、ということならば、それはまさに「ソングライン」なのではにゃーのか?
だからこそ、教科書は聖書のごとき神話的書物であり、アボリジニの子どもが生きるためにソングラインを学ぶように、僕たちの社会で子どもは科学を学ぶのではにゃーのか?

抽象的に考えるのは誰か

古井は続けて、ヘーゲルのエッセイにおける問いと答え

  • 問「抽象的に考えるのは誰か」
  • 答「それは民衆である」

を参照しつつ、論を展開しますにゃ。


民衆は抽象的に考える。じつは抽象的に考えざるを得ないのだ。生活および生業に対処するには、あくまで現実感覚を以てする。本来、すぐれて現実主義者ではある。しかし生活の外辺から打ち寄せるさまざまな見解にたいしては、これを吟味する閑はすくなく、おおよそに、その時その時の通り相場にしたがって、受け取っておくよりほかにない。相場にしたがって、買いもすれば売りもする。ところがこの通り相場、あるいは通念こそ、抽象性の極地であるのだ。「抽象的」な理論家はその「抽象的」な見解を表すにあたり、そこに至るまでの抽象の過程を述べることになる。過程の論述が見解の内容の大半を占めることもある。これにひきかえ通念は、それにはその前提も過程もあるはずだが、世に通るときは自明のごとき、結論そのものになっている。煽動者や世論誘導者によって起こされる場合には、発想されたその少数者の当初から、すでに仔細や経緯について問答無用の、「一般的」な観念となっている。AだからAなのだという断言は、抽象性からもっとも免れているようでいて、抽象性の最もたるものだと言われる。


民衆はこれらの一般的な観念を、それが世に隆盛であり、こちらをこれを検討する余裕がなく、まして反論する度胸もない時には一応、これを受けおく。ということは、事象が変われば、捨てもする腹である。すべて生活の現実感覚へひそかに照らしてのことである。時々の観念の流行には押し流されても、生活の必然は滅多なことで変わるものではなく、また容赦もしてくれない、というこれも自明と感じられる経験上の確信である。


P41〜42


民衆は抽象的に考えるしかなく、その時々の「通り相場=通念」という抽象の極地において「売り買い」を行うということですにゃ。このあたりの指摘は、歴史修正主義をふくむニセ科学疑似科学批判のことを多少なりとも知るものなら、思い当たる記述なのではにゃーのか?
で、ついでにいうと、ネットなんかではこの「通り相場=通念」が島宇宙化しちゃっており、事象が変わらないので捨てることもにゃーという困った状態ですにゃ。代替医療なんかにおいては「生活の現実感覚」があてにならにゃーし・・・


で、今ここを読んでいるヒトタチは、古井のいう「通り相場=通念の売り買い」というレトリックを、ニセ科学の問題として読んでいるだろうし、もちろんその読み「も」OKなんだけどにゃ。しかし、通念の売り買いなんてものは科学的な知識にかぎった話ではなく、「悪いことをすると地獄に落ちる」とかいう倫理的なものであってもまったくかまわにゃーわけだ。
問題は、個々の事実を吟味する閑のにゃーほとんどの生活者にとっては、科学も宗教も抽象的な通念で処理するしかにゃーものだということですにゃ。

ニセ科学批判を批判する視座

ニセ科学批判・批判、というのはその多くはどうしようもにゃー。僕が直接見聞した限りでも、ほぼ駄目なものが多数ですにゃ。
しかし
「科学なんて宗教だよーん」といいたがるニセ科学批判・批判というものを、最大限好意的に解釈すると以下のようにいえるかもしれにゃーと思われますにゃ。

  • 自然科学は現代社会において社会的に宗教の役割を果たしている
  • 心理的にも宗教の代替物になっていることが多い
  • ニセ科学批判は異端狩りのようなものとなり、過剰に攻撃的だ
  • ニセ科学批判者は、科学の論理は宗教の論理とは異なるという「内部」における論理の違いと、科学が宗教の機能的な代替物であるという「外部」の事情を都合のいいように使い分けてはいないか?

こういう話だったら、馬鹿にして切り捨てられる話ではにゃーな。上記に当てはまる実例として、ドーキンスをあげておきますにゃ。


もちろん、健康や生命をおびやかし、てめえのカネ儲けのタネにするニセ科学は攻撃してよいものだとは考えますにゃ。教育や医療の現場にはいってくるニセ科学も害毒でしかにゃーしね。
ただ、科学を神話・宗教と切り離してベツモノとみなしてしまうのは、ちょっちまずい局面もあるのではにゃーかと思うのですにゃ。まあ、このあたりは以前からいっていたことなのだけど、ちょうどそのあたりにひっかかるテレビ番組と書籍を読んだので、取り上げてみましたにゃー。古井由吉の文章は僕にとっては示唆に富むものであり、みにゃさまにも参考になるのではにゃーかと思い、けっこう長々引用しましたにゃ。写したけどこのエントリには収録しきれなかった引用部分は、古井由吉の文章 - Oh, sad-eyed lady, should I wait ?にほうりこんでおきましたにゃー。

今日の結論と放言

  • 科学は社会的・心理的には神話あるいは宗教の代替物となりえる
  • 科学が自分にとってどんな存在か。ウェルズ博士のように「科学しか残されていない」というものなのかどうか、胸に手をあてて考えてみてもよいのでは?(それでもやっぱり真っ黒なものは叩いていいと思うけどさ
  • 神話あるいは宗教とその代替物は、たぶん社会を維持するのに必要なもの
  • 皮肉なことに、現代の自由主義社会で、神話・宗教の代替物になりえるのは科学しかないのでは?


関連エントリを以下においておきますにゃ。
書き換え可能な神話としての自然科学 - 地下生活者の手遊び
疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊び
体験によらない知識の重要さについて言っておく - 地下生活者の手遊び
クラインの壺の内側と外側 - 地下生活者の手遊び

追記 26日10時25分頃

ニセ科学は宗教である」
という言明を、以上のロジックから分析しなおしてみると、以下のようになるかと。
「科学には社会的・心理的に宗教の代替物という側面もある。生活者は具体的な検証の手段も閑もないので、「通り相場を売り買い」するしかなく、その意味でも科学と宗教の区別はつけられない。そして、ニセ科学は科学のもつ宗教の代替物という側面を利用し、寄生する。」
つまり

  • ニセ科学が宗教なのではなく、科学にもともと宗教の代替物という側面がある。そこにニセ科学は寄生する

言い換えれば
事実/価値の二元法に従えば、科学は事実を扱うモノであるというのが科学の内的な論理なのだが、その科学的営為そのものは社会において価値を持ち、指導的な地位をもつので、その価値性・指導性を利用すべく寄生するのがニセ科学ということですにゃ。
ニセ科学批判者は【宗教の代替物としての科学】という側面を意識した方がよいと僕は考えますにゃー。