ロクでもないけどこれしかない


スターリンを退けた場所では - 地を這う難破船


ボコボコにされとるから猫かぶり文体にもどすか、にゃははははは。


tikani_nemuru_Mさんが理念型において「ある種のポルノ」と問題を措定するとき、それが「エロだから」ゾーニングされていることと、問題が表現の差別性にあるならゾーニングなどされるべきでなく公共圏において読み解かれなければならないこと――つまり現実の問題と理念型の問題を、ごっちゃにしてしまわれている。


この指摘は正しい。
というか、当初のエントリにおいては公共圏構築後にはじめて通用しうる主張と、公共圏を構築するための煽りと、現状認識が恣意的にごっちゃになってますにゃ。で、全体的にダメな話になっとるということにゃんね。


1


国家の最高指導者が、何でも知っていて、やさしく、最高に人間的な人物であるとき、「なんでも単純」な政治体制があらわれます。これがスターリニズムであって、スターリニズムとは、何でも知っていてやさしく最高に人間的な指導者に全権をたくした、まさに人類の理想とする政治体制のことです。

と前回エントリで書きましたにゃ。


では、ハナタレ小学生が替え歌もどきをつくるようにこれを反転してみますにゃ。

  • 権力が何も知らず、無慈悲で、人間味がまるでないとき、「なんでも複雑」な政治体制があらわれる。これが自由主義であって、自由主義とは何も知らず無慈悲で人間味のない権力には、なるべく多くを託してはならないという、まさに人類にとって理想からほど遠い政治体制のことだ。

となりますにゃー。
これは自由主義についてそうとうに核心をついた記述になるんじゃにゃーのかな。


少なくとも、スターリニズムにおいては、権力とは「何でも知っていてやさしくて人間的」ということになっていますにゃ。
だから、
スターリニズムを反転した自由主義」においては、権力とは「何も知らず無慈悲で非人間的」ということでいいのではにゃーだろうか。
レトリックでも何でもなく、これが自由主義における権力像として正しいものだと思うのですにゃ。


これは、古典的な自由主義の原則です。個人の傷付く心の問題は、自由の問題でも人権の問題でもない。貴方の傷付く心の問題は貴方が手当てすべき問題であり、この利権で動く国家の、それも法的規制において、傷付く心の手当てを要求するなど、自由の価値を毀損する論外の行為である、と。


自由な社会のセキュリティホール - 地を這う難破船

2


どんな主義・主張であれ、自らの正当性を社会に対して申し述べる機会があるべきである。


「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。


ある種の政治的主張の正当性を僕は理解することができにゃー。理解できにゃー小説・マンガ・ゲーム・お笑いもありますにゃ。
これが性における嗜好/指向となると、さらにわかんにゃーことだらけとなりますよにゃ。僕にいえるのは、
「まあお互いにヘンタイなんだから、お互い様で仕方ないよね」
くらいなものですにゃ。


他者の欲望を理解することにおいては、権力どころか、僕たちひとりひとりはまったく無能ではにゃーだろうか。僕も君も、他者の欲望を理解することはできにゃー。無論、他者の欲望の正当性など理解できるはずもにゃーよね。


無論、精神分析やフェミがいうように、性欲も構成されたものではあるでしょうにゃ。しかし、その構成は、社会的であると同時に極私的になされるものでもある。生物学的な、人類的な、民俗的な、時代的な、家族的なもろもろ、そして巡り合わせや死ぬまで誰にも漏らせないような秘密など、何層にも何層にもわたって性欲は構成されているのでしょうにゃ。


性を聖域にしておくとはどういうことなのか?
他者の性についてはわからん、ということを相互に了解するということでしょうにゃ。
性がわからないということは、他者を理解できないということも含意しているかもしれにゃーが。


公権力どころか、そもそも僕たちひとりひとりが他者の欲望を、他者のことを知ることがにゃーわけだ。何でも知っている同志スターリンは存在しにゃー。
何でも知っている同志スターリンが存在しにゃーということを肝に銘じてわかること。同志スターリンの措定を避けるのではなく、その存在が不可能と知ること。
これがスターリニズムを反転した自由主義の基盤なのではにゃーのだろうか?

3

愚行権というレトリックを僕がとりわけ好む理由は、このレトリックが自由というものの内在的価値を否定しても成りたつところにあるのですにゃ。
僕はあなたの欲望のことを知らにゃー、わからにゃー。あなたも僕の欲望のことがわからにゃー。他者の欲望のことは誰にもわからにゃー。何でも知っている同志スターリンはいにゃー。
そのとき、自由以外の選択肢があるんだろか。
自由に内在的な価値があることを共有する必要すらにゃー、つまり共通善としての自由を認めなくともよいのですにゃ。僕たちひとりひとりの他者理解についての徹底した無能力を認めるのであれば、そしてそれは認めざるをえにゃーのだが、お互いに自由にするしかにゃー。何でも知っている同志スターリンはいにゃーのだから、諦念して自由主義しか残らないことを認めるしかにゃーのだ。
諦めよう、我が同胞のスターリニスト諸君。哀しいけれど僕たちは自由ですにゃ。


表象を読み解く主体として措定された、何でも知っている同志スターリンは、僕たちが他者を理解することが不可能と知れたときにいなくなってしまいましたにゃ。
同志スターリンはもういないので、表象は読み解かれずに石のように島宇宙のようにそこここに転がったり浮遊するのでしょうにゃ。ポストモダンというか、受容理論というか、まあそんな感じで。


4

他者というものの理解において僕たちはあまりにも無能なので、自由主義しか選択肢がにゃーのだが、この自由主義というのが本当にろくでもにゃーシロモノだ。他者を危害しない限り何をしてもよいというのが自由主義の原則であり、他者危害というのは基本的にはsk-44のいうとおり「心の問題」とはされてにゃーようだ。


他者危害の原則は、厳密には存在しないアトム・モデルに依存している。だから、他者危害の原則に従って自由を認められる行為は、厳密に言えばありえない。それなのに人格と行為のアトミズムという想定によって、自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで「自由な行為」が存在を認められている。


加藤尚武「現代倫理学入門」 11章より


アトム・モデルとは何かというと、僕たちひとりひとりは「ひも付き」ではにゃーということ。自律/自立した合理的な行為の主体であるということ。ニュートン力学における質点のような、古典派経済学における経済人のようなモデルですにゃ。モデルであって、現実には存在していにゃーわけだ。


アトム・モデルは現実に存在するわけではなく、実際には僕もあなたも誰もかれも、「ヒモ付き」の存在ですにゃ。ひも付きどころか、ヒモとヒモが絡まった結節点が個人なんじゃにゃーの? マルクスは、このことを「人間とは社会諸関係の総体(アンサンブル)である*1」と美しく言い表していますにゃ。


差別問題だの「銀のサジをくわえて生まれる」は、もちろん、個人にヒモがついているという問題ですにゃ。僕たちは誰もかれもヒモ付きなのに、ヒモがにゃーとみなすのだから、これはそのまま強者の論理となりえる。



また、現在の自由主義の基盤として公私二元論というものがあって、これがまた惨い。要するに、私的領域において「強者」は何でもやり放題ということにゃんからねえ。
公私二元論への告発は、フェミにおいて「私的なことは政治的」という標語においてなされましたにゃ。私的領域に閉じ込められていたのが「オンナコドモ」にゃんからね。ただ、現在において公私二元論の最大の被害者というと、♀ではなくガキなのではにゃーかな。


DV(ドメスティック・バイオレンス)は世界中にあり、その統計は暗数がでかすぎて信用がならにゃーそうですにゃ。はっきりしているのは、加害者が圧倒的に成人♂であること。被害者は「オンナコドモ」であることにゃんな。公権力は「私的領域」には介入しにゃーことに原則的になっているので、公権力の介入しにゃーところで♀を殴り放題、ガキを虐待し放題ですにゃ。
殴る蹴るという虐待だけでなく、ネグレクトや性虐待の傷を一生背負って生きていくことを強いられるヒトもたくさんいますにゃ。小学校卒業までに何らかの性虐待を受けたのは、女子で6.4人にひとり、男子で17.5人にひとりという驚くべき調査結果までありますにゃ*2
ガキを食い物にしているのは、なにも第3世界でガキを使役している企業様だけではにゃーってことですにゃ。公私二元論という自由主義のシステムそのものが、♀と特にガキを食い物にしているといえるでしょうにゃ。


アトム・モデルがそもそも強者の論理になりえることに加えて、公私二元論によって私的領域での暴虐はやりたい放題ということにゃんね。


まあ、宗教による統制社会で家庭での暴力がなくなるかというと、そうでもにゃーんだろうけどさ。強者の居直りというのが自由主義の避けがたいところなんではにゃーだろうか? ネオリベというのは強者の居直りなんだろうけれど、「オンナコドモ」に対しては自由主義というのは一貫してネオリベのように抑圧していたといえるわけですにゃ。

5

僕たちは他人のこと、ことに他人の欲望などわからにゃー、ということからあらゆる権威主義的政治体制が否定され、自由主義が帰結するけど、自由主義そのものはやっぱりろくでもにゃーわけだ。
ろくでもにゃーことはわかっているけど、愚行権だとかいう話まで認めてくれるのは自由主義のほかにはなく、自由主義がもっともゆるくて組織的にヒトを殺しにくくて結果的にはそんなに反倫理的にならにゃー政治体制だってことも間違いなさそうなんだよにゃ。


というわけで、自由主義の「原理」に熱烈にコミットする気にはなれにゃーのです。
自由主義ってのは、ロクでもにゃーけど代替案がにゃーものであって、ツールとして使い倒すものですにゃ。
だから、どうやって自由主義のロクでもなさを手当てしたり補完していくのか、ということを考えなければならにゃー。で、僕の場合は「公共圏」を持ち出すことになりますにゃ。

6


概念操作を行っているのでないのなら。「ある種のポルノ」の製作者やユーザーに対して性犯罪の暗数の話を持ち出すべきではない。貴方たちの表現行為とそれに伴う経済活動が現在進行形で性犯罪被害者を泣き寝入りさせている、と事実上言っていることがわかっておられますか。因果や相関やエビデンス以前に、そのように連関させる議論はきわめて危険です。


いやいや、僕が連関させているのではにゃーのだよ。
性犯罪の暗数というのは、「性差別の深刻と「ある種のポルノの表現に内在する性差別性」がヒモで結ばれたものとしてそこにある」ことの証拠ですにゃ。


Gazing at the Celestial Blue なら、その言葉を使わずに試してみようにあるように、性犯罪の被害者に責任をおしつける豚理屈は横行していますよにゃ。それこそ「因果や相関やエビデンス以前に、そのように連関させる議論」がいくらでもありますにゃ。
性犯罪の被害に遭うのは♀が悪いから、と「世間様」が考えているから、性犯罪の二次被害・三次被害がおこるわけですにゃ。逆にいえば、性犯罪と二次被害・三次被害の被害者は、「世間様」がそう考えているのを骨身に染みて知っている。この社会では、「性犯罪の被害に遭う♀が悪い」というのが現実のルールであることを、被害者と潜在的被害者は知っている。僕もこの社会の現実のルールを知っている。


性犯罪の被害に遭う♀が悪い、が現実のルールとして、つまり広義の権力として通用するこの社会で「ある種のポルノ」は被害者と潜在的被害者にとっていったいどのような表象たりえるか? ということなのだにゃ。
「ある種のポルノ」はヘイトスピーチを表象してしまうんでにゃーの?

7

先ほど、表象を読み解く主体として措定された同志スターリンはいなくなったとオオウソぶっこきましたにゃ。
他者の欲望は理解できにゃーと心底わかれば同志スターリンはいなくなるだろうけれど、この社会ではそんなことにゃーよね。僕たちの社会で、何でも知っていてやさしく最高に人間的なのは「世間様」にゃんな。


僕たちの社会では、表象を読み解く主体である「世間様」が措定されているということが問題なのでしょうにゃ。公共圏のなかで表象の読み解きが行われにゃー限りは、読み解く主体は同志スターリンや世間様ですにゃ。


tikani_nemuru_Mさんが御自身をスターリニストと仰るのは、政治的判断において判断の主体を「同志スターリン」と措定することなくして「可視化された差別構造として表象を批判する」ことはできない、と考えておられるから。その点において、ラディカル・フェミニズムをその愚昧を理由に退けることはできない、と。――「可視化された差別構造として表象を批判する」ためには、政治的判断において判断の主体を「同志スターリン」と措定しなければならない。


ここのところは厳しいにゃー。誤解というより僕の書き方がダメだったんだろうけど。
「可視化された差別構造として表象を批判する」ためには、公共圏(少なくとも文芸的公共圏)が要請される。でもそんなものがにゃーとき、表象読み解きの判断主体はスターリンや世間様になってしまうか、あるいは表象が島宇宙になってしまうということ。
ラディフェミの愚昧というのは、ある圏域で精緻に考えられたことでも、それが政治的に実行されるときに失われるものがでかいという、バルガス・リョサなんかにもみられたよくあるお話のこと。



「表象は読み解かれなければならない」は、考えてみれば公共圏を要請しているということなんだよにゃ。僕にとっては茶々をいれる余地のにゃー話だ。
表象を読み解きながら公共圏を作っていけばいいわけで、公共圏がないからスターリンが判断主体になるという僕の話は、ここでも順番がおかしかったか・・・

*1:確か「フォイエルバッハ・テーゼ」

*2:1998年、「子どもと家族の心と健康」調査委員会。いっとくけど日本はガキの性虐待が少ない国ではけっしてないことはおさえておくべき。特に児ポ関連で。