疑似科学批判者がしてはならないこと

前回のエントリの続き。
疑似科学批判に対して文句をつけるにあたり、僕はドーキンスを念頭においていますにゃ。自然科学という知的体系を高く評価するがゆえに、「神は妄想である」のドーキンスが「自然科学を宗教のようなイデオロギーにしてしまっている」点、つまり確かにある種の疑似科学批判において、宗教と科学の区別がつかにゃーようなことになっているという理路を以下に示してみたいと考えますにゃ。


参考として
ドーキンスの「神は妄想である」への直接的な批判エントリをリンクしておきますにゃ

自然科学は公的原理

政治という社会行為においては、司法・立法・行政のいずれにおいても自然科学の知見をシカトすることは許されにゃー。
例えば、いつどこで大規模な地震がある、という類いの言明をどこぞの予言者や教祖がした場合と、実績ある地震学者がした場合では、政府の対応はまったく異なるものでなくてはならにゃーわけだ。予言者や教祖はほっとくべきだし、学者の科学的根拠に基づく発言は傾聴してそれなりの対策をしなければならにゃーよな。


無論、これはまず第一に、自然科学の予測精度が、他のあらゆる体系に比して抜群に高いからだと考えていいでしょうにゃ。ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ - 地下生活者の手遊びで述べたとおり、自然科学の知見に【賭ける】ことは割のよい賭けですからにゃ。


しかし、現代の自由民主主義を基本とした政治において、政治が自然科学の知見を大事にすべきであるということの理由には、他の要素もあるのではにゃーだろうか。
それはズバリ、【自然科学の価値中立性】ではにゃーかと。
自由主義というのは価値自由が基本であるから、自由主義政体における政治は価値の多様性を受容するものでなければならにゃー。特定の価値の押しつけを政治がすることはご法度ですにゃ。したがって、政策も基本的には価値の多様性を是とした中立的なものでなければならにゃーわけだ。だから、特定宗教教祖の予言を政府が真に受けるというのは、その文脈からいってもよろしくにゃー。


自然科学の内的論理から、自然科学は価値中立であると導くことができるわけにゃんね。そして、価値中立を要請される自由主義政体にとっては、価値中立である自然科学は採用すべき政策の指標として都合がいいわけですにゃ。自然科学は、(1)その精度の高さ、(2)その価値中立性、によって自由主義政体の権力に組み込まれることとなったわけにゃんね。それは正当妥当なことでしょうにゃ。


ここで確認しておきたいのは、自然科学における価値中立は、内的論理によるものだけではなく、その社会的機能(=外的論理)においても要請されるものとなっているということですにゃ。自然科学の価値中立は、社会的に要請されているものでもあるわけですにゃ。

  • 自由主義政体において自然科学は公的原理であり、価値中立を要請されている

宗教・イデオロギーは私的原理

ここに、キリスト教ホニャララ派、イスラム教ヘベレケ派、共産主義スチャラカ分派という、それぞれ戦闘的なイデオロギー集団があったとしますにゃ。

  • ヘベレケ派の見地からすると、ホニャララ派の見解は間違い
  • ホニャララ派から見ると、ヘベレケ派は間違い
  • 共産主義スチャラカ分派からすると、宗教はすべてアヘン
  • ヘベレケ派からもホニャララ派からも、共産主義は悪魔 などなど

部外者から見ると、勝手にやっていろ、というところにゃんね。各々のイデオロギーにとって、「自分が正しい」ということが前提となるのだから、ネバー・エンディング・喧嘩になることは火を見るよりファイヤーにゃんねえ。


イデオロギーに基づいた政治をすると、そのイデオロギーを信奉しにゃーものが、「敵」としてぶち殺されまくったりということがフツーに起きてきたので、そういうのはゴメンだよ、というのが自由主義政体が支持される主な理由ですよにゃ。
自由主義社会においては、信仰の自由があり、思想・信条の自由があり、つまりは【内面の】自由があるので、どのような宗教あるいはイデオロギーを信奉してもかまわにゃー。それを他者に強制さえしなければ、つまり、他者の自由と権利を尊重すれば、何を信じたってかまわにゃーし、どのイデオロギーを否定してもかまわにゃー。私的領域においては、何を信奉し、何を否定してもいいのよ。
つまり

自由主義における公的原理と私的原理

自由主義政体においては、公的原理は価値中立を要請されますにゃ。ここでの価値中立というのは、私的原理における価値の多様性を保護するというということにゃんね。したがって、特定価値の他者への強制(特に暴力を用いた強制)や、イデオロギー集団による他者危害・犯罪は公的に排除されるけれど、それ以外の理由で特定イデオロギーを排除することは許されにゃーわけだ。


公的原理が特定のイデオロギー(=私的なもの)を排除する際には、非常な慎重さが求められますにゃ。例えば、オーム真理教が反社会的な人殺し宗教であるからといって、他の仏教系新宗教を排斥することはまったくダメだよね。あるいは、元信者を排斥するのもやってはならにゃーことだ。
個々のイデオロギー集団がしたことに対して、個別的かつ具体的に対処しなければならにゃーのであって、
「オーム真理教がクソだから、他の密教系宗教も排除してよい・他の新宗教も排除してよい・他の仏教系宗教も排除して良い・他の宗教一般も排除してよい」
などと勝手な一般化を、公的なものはしてはならにゃーんだ。もちろん、私的にそう思うのは勝手にしてくださいにゃー。


つまり

具体的な他者危害を個別に排除することが、公的なるものに許されたことなのだにゃー。少なくとも自由主義社会においては。
そしてこの【専守防衛】というのは、具体的には前回のエントリで書いた「真っ黒なものにしぼって攻撃する」ということですにゃ。

科学教徒ドーキンス

冒頭でリンクしたエントリで書いてあるとおり、あるいは「神は妄想である」を読んだ方は了解しているとおり、ドーキンスは宗教一般を否定していますにゃ。しかも、多様な捉え方をされている神概念全てを適確に否定しているとはほど遠いのですにゃ。批判エントリで書いているように、ドーキンスが否定できているのは創造科学の神にすぎにゃー。
「神は妄想である」でドーキンスが展開している論法というのは、稚拙かつ愚昧であるだけではなく、自然科学が公的原理であることを否定し、イデオロギーのひとつに【おとしめる】ことになるのではにゃーだろうか?


もちろん、特に進化論関連でメリケンの馬鹿クリの跳梁跋扈がどうしようもにゃーことになっているのは僕もよーくわかるにゃ。
それでも専守防衛だ。それが公的原理のやり方ですにゃ。
どうしようもにゃー馬鹿クリが目立つから、キリスト教は全部ダメ、神は妄想だ、なんてのは、オームがダメだから宗教がダメだとかいう連中と同じだにゃ。もっといえば、一部の犯罪なんかをもって、精神障害者・ガイジン・ザイニチ・ブラクなんかを一般化して否定する豚どもとかわんにゃーわけだ。実際に、ドーキンスはそういう論法を展開してるしにゃー。


私的な信念として宗教全般を否定するのは、勝手にすればいいのだにゃ。無神論だってイデオロギーのひとつにゃんからね。自然科学は無神論に見えるかもしれにゃーが、それは方法論として神を措定してにゃーだけで(オッカムの剃刀)、神の存在の否定を目的にしているわけではにゃー。
宗教一般、あるいは神の存在を否定するために自然科学を持ち出したとき、自然科学は数あるイデオロギーのひとつと化してしまうのだにゃ。顔を真っ赤にしてイデオロギーを否定するのはイデオロギーなんだよ。科学は公的原理は、個別的具体的なものを否定するものなのですにゃ。
ドーキンスの「神は妄想である」において、まさに科学が宗教になっているのですにゃー。


このように代表的な疑似科学批判者において、【科学=宗教、つまり科学教】になっちゃっており、しかもその【科学教】言説が開陳された駄本「神は妄想である」が少なくない疑似科学批判者にも好意的に受け入れられたという事実は直視しなければならにゃーだろう。
いわゆる疑似科学批判・批判者が、「宗教と科学の区別がつかない」「疑似科学批判者って科学信者だよね」と言うのを「藁人形」と切り捨てるわけにはいかにゃーんだ。

相対主義と科学

ところで、僕は「神と科学は共存できるか」でグールドのいうところのNOMA原理(重複しない教導権の原理)を支持しにゃー。NOMA原理は宗教と科学が対等であるという前提であるところが僕とは異なるにゃ。
NOMA原理については2007-11-05を参照のこと*1
自由主義においては、科学は公的領域、宗教は私的領域にあり、科学は個々のイデオロギーのメタレベルに位置すると考えますにゃ。個々のイデオロギーが共存するための、メタレベルの指針として科学はあるべきですにゃ。


前回エントリで

  • 自然科学には、あらゆる文化に敵対しているという側面がある

と述べましたにゃ。これは、

  • 自然科学はあらゆる文化に対して【斥力】で中立を保つ

とも言えるのではにゃーかと。


これに対して

  • 相対主義はあらゆる文化に対して【引力】で中立を保つ

と言えるのではにゃーだろうか。少なくとも、相対主義は各文化に対して親和的ですにゃ。価値中立の保ち方が自然科学と反対だけど、これも自由主義における指針となりうる考え方にゃんね。


以前から書いているように、システムを制御するためには、ブレーキとアクセル、交感神経系と副交感神経系のような、対立する方向をもつ装置が必要であって、自然科学と相対主義はそのようなセットなのではにゃーかと僕は考えていますにゃ。
科学と相対主義は方向性が反対なので、相対主義を嫌う科学好きがいるのも仕方にゃーかもしれにゃーが、相対主義の必要性・重要性は認識してほしいものですにゃ。まあ、相対主義とひとくちに言っても、穏健な文化相対主義から認識論的相対主義までいろいろあるんだけどにゃ。


穏健な文化相対主義を嫌うのは、馬鹿ウヨ、宗教の狂信者ですにゃ。もちろん、われらがドーキンス大先生も文化相対主義を嫌っているようにゃんな。
相対主義に対してどんなスタンスなのかは、自分の立場をどこまで自己目的化しているか(つまり、自分の立場をどこまで宗教化しちゃっているか)の指標のひとつにはなりえるのではにゃーだろうか。
文化相対主義批判に対する反論エントリは中途半端な相対主義批判 - 地下生活者の手遊びとしてあげていますにゃ。

まとめ

つまり

ということですにゃー。あと、「神は妄想である」のような科学教の馬鹿言論も批判したほうがいいだろ。少なくとも距離をとらにゃーとね。もちろん、宗教・イデオロギーがダメだということはまったくにゃーですよ。科学がそうなっちゃまずいだろうというだけで。


反・反科学 かつ 反・反相対主義をこのブログでは標榜しておりますにゃー。
僕は神話も呪術も科学も大好きだよ、愛してる♪

*1:ここのコメント欄と、それにつづく掲示板での議論がこのエントリの下敷きになっていますにゃ