クラインの壺の内側と外側

ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ - 地下生活者の手遊び
にトラバをいただいておりましたにゃ。↓にゃんね
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081120/1227167897


idコールまでしてもらっていたのに、こちらにはトラバもコールも来てなかったんだよにゃー。はてなも困りものにゃんな。
まあ、たいへんオモチロイトラバであり、美学を用いた機能の説明は腑に落ちるものでしたにゃ。確かに、自己言及するシステムは純然たる外部を持つことはできにゃーだろう。そもそも、意識とか言語とかいう、ニンゲンの知的活動の根っこにある自己言及システムに、純然たる外部があるわけではにゃーよな。クラインの壺にゃんねえ。この視点で神とか宗教を【騙る】のもオモチロイよね。
こちらも勝手にインスパイアされた部分があり、疑似科学批判を基本的に肯定する立場で適当に応答させていただきますにゃ。

線引き問題

線引き問題についての私見 - 地下生活者の手遊び
「線引き問題」と僕がいっているものがありますにゃ。この問題がなぜ生じるかというと、自然界における変位・変化は連続的なもの、アナログなものであるのに対し、ニンゲンの言語というのは連続的なものを切断して語彙を成りたたせているもの、デジタルなものであることから生じていると考えていますにゃ。
連続的なもの・アナログなものを言語が切断してデジタル化してしまい、それによってニンゲンの意識からもともとあった連続性が捨てられてしまうのではにゃーかと。


例えば、進化論への典型的な誤解(というか難癖)のひとつに「小進化では大進化(=種の分化)は説明できない」というものがありますにゃ。参照Wikipedia:進化
生物種を英語ではspeciesというけれど、このspeciesという言葉はアリストテレス哲学でいうところの形相eidosの英訳語でもあるのですにゃ*1。にゃるほど生物種というものをアリストテレスの形相と見なせば、小進化で種分化が起るということは認めがたいのでしょうにゃ。
しかしこれは倒立し倒錯した発想なんですにゃ。もともと連続であったものを、ニンゲンが切断してある名前を与えた、というのが実際でしてにゃー。いったん連続したものを切断し、名前を与えてしまうと、その【名前=切断された連続性】にニンゲンの認識が呪縛されるということが起るわけにゃんね。ここらへんのからくりがわかっていれば、【小進化】があるとなれば、すなわち【大進化】もあるということになるのがわかるはずなんだにゃー。【大進化】はない、と考えてしまうのは、実のところ言語に呪縛されているのですにゃ。


まあ、それも仕方のにゃーことかもしれにゃー。
名づけこそ渾沌とした世界を秩序立てる最初の1歩であり、名づけこそニンゲンの認識活動の基底にあるものであり、名づけこそ呪術の源ですからにゃ。まさに、「はじめにことばありき」。言葉に呪縛されるのがニンゲンというものですにゃ。
前もちらっと書いたけど、連続したものを連続したままで取り扱うのが得意な記述言語が数学であり、数学という記述言語を使って思考する自然科学というのは、ある意味、非人間的な思考をするといっていいかもしれませんにゃー。

線引きは恣意的である

日本では虹は七色ということになっていますにゃ。英語圏では六色にゃんね。虹を五色とする文化も多いとか。ホメロスの記述で虹は三色となっていると聞いたことがありますにゃ。一方、虹に十数色の色をみる文化もあるわけですにゃ。
もちろん、みな同じ虹を見ているはずだにゃ。連続する虹の色をどのように切断しているか、が文化ごとに異なっているのですよにゃ。ここら辺の話はソシュールなんかでも出てくるところにゃんが、要するにこうした【切断=線引き】の基準は恣意的なものなのですにゃ。


ひとつひとつの【切断=線引き】は確かに恣意的なんだけれども、分節(切断・線引き)が体系化されたものが文化だともいえるわけでしてにゃ。連続した現実世界を切断しなければニンゲンは言語的認識をできにゃーわけで、この恣意的な分節化の規則と体系の独自性こそが、各文化の独自性だということになりますにゃ。
そして、
各文化においては主要な分節こそ主要な事実なのであり、神話とは各文化において特定の分節化・切断・線引きがなぜ行われているのかを説明するものであるともいえるでしょうにゃ。例えば、生と死という分断がなぜ生じたか、とか、食えるものと食えないものの分断などを神話は説明してくれるわけにゃんね。


つまり、文化を文化たらしめるものこそ線引きの恣意性であり、その恣意性が認識を呪縛することが、科学的認識を阻害するという面がある、ということですにゃ。
ここから

  • 自然科学には、あらゆる文化に敵対しているという側面がある

というテーゼが導けるのではにゃーでしょうか。ここはまた別エントリで触れますにゃ。

線が引けなくても白と黒はわかる

にゃるほど、疑似科学批判は終わりなき脱魔術化の循環に落ち込んでしまうという話はわかるんだけど、そのあたりは乱暴にいこうよ、と言いたいのですにゃ。
線引き問題の歪曲 - 地下生活者の手遊び
線引きはムツカシイにしても、典型的な白と黒を判断することはできますにゃ。クラインの壺には内も外もにゃーのだが、「このあたりは内っぽいエリア、こっちは外といってよいエリア」というものの典型を設定することは、あくまで恣意的にしかし多数の賛同をえるかたちで設定することはできるのではにゃーかと思いますにゃ。白と黒の間に明確な線引きをすることは不可能だけど(それは魔術的な無限後退を招く)、典型的な白や典型的な黒を合意することはできるわけですにゃ。


疑似科学批判者には、灰色のものはとりあえずおいといて、典型的な疑似科学、真っ黒なものを攻撃するという行為を意図的にやっている者は多いと思いますにゃ。
批判しやすいものを批判する。
それはそれでいいのではにゃーかと。
クラインの壺に内と外の典型エリアを恣意的に設定しちゃえばいい。
明らかな真っ黒にしぼって批判するというのが、疑似科学批判における終わりなき脱魔術化を回避する方法論のひとつであり、また自己抑制でもあると考えますにゃー。
それに
ノンステロイド詐欺でアトピービジネス跳梁跋扈 - 地下生活者の手遊びでも触れた代替医療などの典型にして悪質な事例は、あらゆる方向から攻撃しにゃーとね。
HIV否定論の立場をとったMbeki政権によるAIDS犠牲者数は33万人: 忘却からの帰還のようなオッソロチイ話も現実にあるわけだし。


というわけで、疑似科学批判を基本的に支持するし、わかりやすい「真っ黒」を攻撃することも肯定する僕だけど、許容できにゃー疑似科学批判も確かにありますにゃ。そのあたりはまた今度。

*1:と、岩波文庫ダーウィニズム論集」収録の論文でデューイが言ってますにゃ