ゼロリスクを求めるのが合理的な場合


先日のエントリの趣旨はそのまま、レトリックを替え、別の論点も加えて再び論じますにゃー。

統治者の視点と当事者の視点*1

科学技術社会論を専攻する平川秀幸氏によるリスク論講義ですにゃ。さすがにオモチロイにゃー。さてここから平川氏の発言を引用しますにゃ。


ゼロリスク世論にまつわる問題は、確率論的なリスク論の考え方は、統計的=集合的な見方、いいかえれば社会をマスで見る「統治者視点」であり、それは「100万分の1でも当たったらイヤだ」という個別の視点、いわば「当事者視点」とは相容れないということ。


つまり、リスクに対する当事者視点は絶対消えないわけで、だからこそ統治者側には、経済的補償や法的対応、さらには当事者視点に対する「感情の手当て」が不可欠。ところが得てしてリスクコミュニケーションでは、統治者視点のみを押し付ける形になり、感情の手当てとは逆方向になりがちだったり。


あらゆる選択や行為はリスクをともなうといえますにゃ。リスク発生はメタ的なもので、何も選択も行為もしにゃーことすらリスクになりますにゃ。もちろん、車で移動することにもガキをつくることにも、さまざまなリスクがありますにゃ。
例えば自動車事故に遭った場合、例えば生まれた子供に障害があった場合、カガクではとおりいっぺんの説明をするほかありませんにゃ。確率的には必ず一定程度の事故や生まれつきの障害はあるものですにゃ。カガクにできることはせいぜいメカニズムの説明であり、「なぜ俺が?」「なぜこの子が?」という、いわば実存的な問いに答えられるものではにゃーですね。
事故や障害についての、いわば「意味付け」とでもいうものが必要になってきますにゃ。ニンゲンは意味を病んでいる生き物にゃんからねえ。意味付けをなしうるのは、宗教や呪術であり、こうした営みは宗教や呪術はニンゲンがニンゲンであるかぎり、ニンゲンがリスクをとるかぎり必要なものといえるでしょうにゃー。
さて、
事故や障害などについての意味付けは心理的に必須であるとして、経済的な保障もまた必要不可欠ですにゃ。心は意味を食って生きるけど、身体はメシを食わなきゃ生きていけにゃーからな。それに、心理的な慰撫についても宗教だけに任してよいわけでもにゃーわけだ。社会的にどのように扱うかということは、「当事者」の心理に重大な影響を及ぼしますからにゃ。


確率的・統計的な統治者の視点においても、統治の目的が社会的紐帯の維持にあるかぎり、実存的な当事者の視点をシカトすることはできにゃー。
リスクコミュニケーションが往々にして統治者視点に偏りがちだという平川氏の指摘は重要なのではにゃーだろうか?

リスクをとるための前提

では当事者の立場から統治者の視点をシカトできるかというと、そうはいかにゃー。
というのも、経済的・社会的なリスク保障が可能なのは、統治機構がまともに機能していることが前提となるからですにゃ。
リスクを分散しシェアするために群れをつくるというのは、昆虫から魚類、そして類人猿、はてはニンゲンにいたるまでやっていることですにゃんが、特にニンゲンにおいては、複雑精妙な社会的な役割分担をしており、リスクマネジメントを社会制度化しているといえますにゃ。「人間はポリス的動物である」という言葉をリスクコミュニケーションの文脈で解釈すると、「人間は共同体(ポリス)でリスクマネジメントを行う」となるのでしょうにゃー。
つまり
共同体のセーフティネットが機能していることを前提として、はじめて積極的なリスクテイクが理性的・現実的な選択肢になるということにゃんな*2。共同体がリスク分散とリスクシェアをしてくれるからこそ、個々人が積極的なリスクテイクを行うことができ、その結果得られた富が共同体にフィードバックされて全体が豊かになってリスクマネジメント機能・セーフティネット機能が高まり、さらに大きなリスクテイクができる、というサイクルがニンゲンという生き物の基本的な「成長戦略」なのではにゃーだろうか。


つまり、僕たちがリスクテイクをするためには共同体が必要ということになりますにゃ。共同体を統治する視点をシカトすることは、個々人にとっても得にはならにゃーわけだ。
リスクを共有・分散してセーフティネットを張る共同体の存在こそが僕たちがリスクをとるための基盤であり前提であるということですにゃ。

許容されるのはどの程度のリスクか?

現実にリスクテイクの決定をするのは個々人にゃんが、リスクテイクするための基盤は共同体にありますにゃ。個々人が自らの意思決定によってリスクをとり、その結果として生命が失われることがあったとしても、それは共同体としてのリスクの許容範囲にはいっていることにゃんね。
僕は自家用車を所有し日常的に運転していますにゃ。事故によって死亡や高度障害になるリスクを理解してリスクをとっていますにゃ。そして自動車事故で個人が死ぬことは共同体のリスク管理に折込み済みであって、共同体のリスクマネジメント機能を脅かすものではまったくにゃー。個々人の生死は統計的・確率的な事象であって、それは運と愚行の問題なのだにゃ。共同体は補償すればいい。
つまり
問題となるのは、共同体のリスク処理能力の範囲を超えるリスク、あるいは共同体のリスクマネジメントを破壊するようなリスクということになりますにゃー。共同体のリスク処理能力を超えるリスク・共同体のリスクマネジメントを破壊するようなリスクは、とってはならにゃーリスクだにゃ。


1千万円の負債で破産する者にとって、借金は1千万でも1億でも1兆でも無限でも同じことにゃんな。処理能力をこえたリスクは、有限であっても無限と同じことにゃんよ。現実として無限リスクなど存在するはずもにゃーが、閾値を超えたリスクは無限リスクと同じことだにゃ。


閾値=共同体のリスク処理能力の限界、をどこに設定するかという話はもちろんアリですにゃ。しかし、閾値を超えたリスク=共同体のリスク処理能力を超えたリスクは、有限ではあっても無限大のリスクと同じことですにゃー。「逆さにふっても鼻血もでんよ。払えないものは払えない」というだけの話でしてにゃ。
統計的・確率的にシビアな統治者の視点*3においても、実存的な当事者の視点*4においても、共同体のリスク処理能力を超えたリスクテイクは認められにゃーだろう。

原発の具体的なリスクは?


大型原子力発電所の大事故が現実化すれば、早期の避難を行っても最大約1.7万人もの住民が急性障害で死亡し、晩発性のガンで死亡する住民も最大約41万人にのぼる。経済的には平均して約62.1兆円、最大約266.6兆円もの人的被害・物的損害が長期にわたって発生することになる。最悪の場合での被害額は日本の年間GDPの半分を超える。これはもちろん、多くの仮定に基づく試算に過ぎず、仮定のいかんにより結果が変わりうるものであるが、総じてこのような原子力事故の絶対的規模については十分に広く認識されてこなかったと思われる。


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00055987.pdf


前回エントリコメ欄で教えてもらった論文ですにゃ*5。論文の評価をする能力は僕にはにゃーのだが、体裁としてはまともな論文ではにゃーかと思う。ここは詳しい人のツッコミを待つとして、一応これをベースに進めますにゃ。
平均でも国家予算の3/4、最悪ではGDPの半分以上を長期にわたってもっていかれるという被害が現実化したら、これはまさに「プププ、日本終了のお知らせ」ではにゃーかと僕には思えるんだけど、みにゃさまはどう思う? 少なくとも日本という国家のリスク処理能力を完全に超え、さらにはリスクマネジメント機能を破壊するほどの被害なんでにゃーの?*6
僕たちはこの規模のリスクをとっているんだにゃ。


前回エントリの論点であった、リスクの規模についてはだいたいこんなものですかにゃ。
別論点にうつりますにゃ。

リスクコミュニケーションと意思決定

id:incompetent
とはいえ事故が起きたらまず死亡するであろう飛行機に人は乗っているわけでして。
スター id:enemyoffreedom id:fright id:kamm id:Dr_Caligari
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100705/1278299235


飛行機と原発では事故の規模がちがうだろというツッコミは入っていますにゃ。しかし、飛行機と原発のリスクには他にも重大な違いがありますにゃー。
飛行機に乗るってのは、自分の意思でリスクをとっているんですよにゃ。自動車を運転することも飛行機に乗ることもタバコをすうことも、自分の意思で選択してリスクテイクしているんですにゃ。
さて
原発が万が一「あぼーん」したとして、周囲数百キロが汚染されて立ち入り禁止区域になったり農業が禁止されることになるわけにゃんが、そうした広大な地域に生活している住民が、原発の建設についてなんらかの意思決定に参加できたでしょうかにゃ? 原発の建設地域においては、形ばかりにしても説明会などの「リスクコミュニケーション(笑」はあるといえるかもしれませんけどにゃ。やばい事故発生時の被害地域は建設地域をはるかに越えて広範囲を汚染するわけですにゃー。


大きなリスクをとれる前提には、共同体のリスク軽減機能がありますにゃ。しかし、リスクとはあくまで個々人が自らの意思においてとるものにゃんね。
自らの意思でとったリスクと、押しつけられたリスクでは、その意味合いはまるで違うモノ、まるでベツモノだにゃ。タバコがあんなに嫌われるのは、副流煙によるリスク押しつけが主原因でしょうにゃ。飛行機と原発では、規模も質もまるで違うんだにゃ。少し考えようよ。


個人でなく共同体全体でリスクをとる場合もあるでしょうにゃ。しかしその場合は、共同体におけるリスクテイクの意思決定プロセスに参加し、自分の意見を表明して討議する機会が与えられなければならにゃー。


原発は万が一の場合の被害規模がでかすぎることもあり、潜在的な当事者へのリスクコミュニケーションがまったくとれておらず、リスクテイクの意思決定への参加も完全に遮断されているのだにゃ。


自らが選択してとったわけでもにゃーリスク、リスクテイクの意思決定からも遮断されたリスク、つまりは押しつけられたリスクに対して
「そんなリスクは知らんぞ。そんなリスクはゼロでなければ納得いかん」
と対することは実に合理的かつ正当ではにゃーの?


・・・と、ここで読者諸賢の声が聞こえてきそうにゃんな。
「現代文明の恩恵を享受しているというだけで、結果的には原発に賛成していると同じことさ」
さて、どうかにゃ?

リスクコミュニケーションと情報公開

さきほど紹介した、原発被害のシミュレーション論文に以下の一節がありますにゃ。


科学技術庁原子力産業会議による試算(1960年当時)は当時非公開とされた。熱出力50万kWの原子炉の事故被害額が、最悪の条件下で3.7兆円(当時の国家予算の約二倍)と見積もられたためである。


そして、引用論文「はじめに」によれば、それ以降は政府機関が原発災害時の被害額を算定し公開することすらしていにゃーわけだ。


リスクコミュニケーションにおいては、情報公開がなによりもまず大切ですにゃ。原発を推進するのであれば、万が一の場合にどれだけの人的・経済的な被害が見込まれるかを算定してその情報を公開する義務があるのはアタリマエ。
見込まれる被害額を算定し公開することを政府が本当にやってにゃーのなら、こう断言していい。

  • 原発についてのリスクコミュニケーションを行う意思は政府にはない

ということだにゃ*7


見込まれる原発の絶対的リスクを広く公開し、被害が見込まれる地域の住人、つまりは潜在的な「当事者」すべてに説明をし、リスクテイクの意思決定プロセスに参加してもらうという手順をふむ。そうしたプロセスを経なければならにゃー。原発のような大規模リスクをともなう技術を推進するのであれば、本来はここまでやらなければならにゃーはずだ。
ここまでやってはじめて、「現代文明の享受は原発容認を意味する」といえるのではにゃーのか? この大規模リスクを提示されたら、生活レベルをおとしてもよいと考えるヒトはけっこう出てくるのではにゃーのか?


何かあったら致命的なのに(*8、その情報がろくに公開されてにゃー技術。リスクの隠蔽が無関心を経由して消極的容認を生みだしている技術なのだにゃ、原子力って。そして、原子力はゼロリスクだと言っていたのは、他ならぬ政府だったんだにゃ。


ゼロリスク談義で思い出す一コマ。97年くらいだと思うが、当時の科技庁で東海地震予想震源域にある浜岡原発の安全性に関して地元住民との討論会があった。そのとき政府側のとある科学者が曰く「みなさん、どんなものにもリスクはあるんです。そのことをご理解いただけなければ話が成り立ちません!」


それに対する地元住民側からの反論。「どんなものにもリスクがあるというのは、私達がずっと言ってきたことです。それを否定して、原発は絶対安全と繰り返してきたのはあなたたちではないですか!?」。「ゼロリスク神話」の実態を物語る珠玉のやり取り。


http://togetter.com/li/2037

まとめ

ゼロリスクを求めることは愚昧だと一般的に流通していますにゃ。もちろん、ゼロリスク要求がどうしようもにゃー無知無見識にもとづくことも多いのは承知していますにゃー。
しかし
リスクコミュニケーションが往々にして統治者視点に偏りがちだということも考慮しなければならにゃーし、ゼロリスク要求が無知に基づくものでもなく笑いものにできにゃー状況は確かにあるってのも大事なんでにゃーかな。

  • 見込まれる被害の大きさが共同体のリスク処理能力という閾値を超える場合
  • リスクテイクの意思決定に参加できない場合
  • リスクコミュニケーションの前提である情報公開がなされない場合


日本における原発という技術にはすべてあてはまってにゃーかね?


おまけ 僕は後出ししてにゃー(ぷんすか

id:inumash はてな
id:tikani_nemuru_M なんつーか“前提の後出し”が多すぎやしませんか?これで2回連続ですよね?“現実の無限大被害がない”のはその通りだと思いますが、なら“∞”なんて単位を使うべきではないですよ。
スター id:contrapunct id:ChieOsanai id:mobanama id:vivagoat id:blackshadow id:h-hirai id:y_r id:nabesems id:shinpei0213 id:nekoluna id:narwhal
はてなブックマーク - リスク管理における“A(発生確率)×B(被害)=∞”という無意味な計算式 - 想像力はベッドルームと路上から


ありゃー、僕が「前提の後出し」? しかも何度も? しかも、信頼している論者まで何人かスターをつけていらっしゃいやがりますにゃーorz
数学記号の用法については是非があるとして、後出しなんてやってにゃーんだけどにゃー・・・・。論証しますかにゃ。


1)ゼロリスクも被害無限大も現実にはありえないことは常識。常識を前提にしちゃいかんの?


2)前回エントリブクマコメで、「発生確率Aと被害規模Bは独立変数じゃねえだろボケ」とかいうdisがあったけど、もちろん僕はそんなこといってにゃーですね。
「施設が大型化して集中管理する→Aは減少、Bは増大、A×Bも減少」とは書いたので、AとBが相関するということは明示してあるわけですにゃ。で、【実際に】Aがゼロリスクになることはありえないとも明示しているわけだにゃ。だったらBが【実際に】無限大になんてなるわけにゃーことも少なくともほのめかしとるね。


3)「最悪の事故が起こった場合、日本社会に破局が訪れるかもしれませんにゃ。Bに「∞(無限大)」を代入すると、A×B=∞ になっちまいますにゃー。」と書いてありますにゃ。明らかに日本社会の破局と無限大をからめた記述にゃんね*9。現実の被害無限大などというデムパをいうわけにゃーです。

ここからは「じゃあなんで日本社会の破局=無限大なんだよ」というツッコミがあるだろうけど、そこについてはすでに解説ずみ。


馬鹿のくせに省略するんじゃねえ! というお叱りは受けるとして、意図的な前提の後出しなんて、そんなハヅカチイことやんにゃーですよ。


最後に、前回エントリブクマコメで是非とも答えておきたかったツッコミ


id:harutabe
まあ、リスク管理を考えれば他人に向かって「ドヤ顔」なんて言えないよな

にゃっはっはっは、これは巧い!
しかしね、harutabe、ここで見込まれる「被害」は僕が赤っ恥をかくことだけであり、僕が恥をかくなんてことは世の中で一番どうでもよいことのひとつだにゃ。その辺のアリンコの命のほうがよっぽど大事。つまり、リスク極小なのよ。

*1:ゴロがいいな、これ

*2:セーフティネットが強力なほどリスクテイクは積極的に行われることになるだろうが、あまりにもセーフティネットが強力すぎるとリスクテイクの必要が減少するということもありえるだろう。まあ、均衡点はあるだろうけれど

*3:これをもって「まっとうな保守の視点」と僕は考える

*4:サルトル的なサヨ視点」とでもしておく。異論は受け付けます

*5:いつも「と」には面白いデータを教えていただいてもらって感謝

*6:広大な国土とまばらな人口密度のメリケンやロシアでは、ここまで破滅的なリスクとはならんだろう。ああした国ではリスクが処理能力を超えてないかもしれないので、「無限大リスク」という判断にならんかもね

*7:前回エントリへつけられた、id:swan_slabのコメント http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100705/1278299235#c1278350553 も参照のこと

*8:官僚の生態では、何かあったら致命的であるが【ゆえに】

*9:この点はinumashもつぃたー上で了解ずみ