表現の自由はサイコーだ!


前回エントリを補足。

自由の敵としての差別

自由の敵はなにも公権力ばかりではにゃーよな。
喩えるのなら、公権力による自由の抑圧がまるでハンマーのように自由を外側から破壊するものといえるのなら、酸が機械をおかすように毒が生体をむしばむように自由を侵食し腐敗させるものがあるのですにゃ。
それを差別という。


BE FREE! - 地を這う難破船においては、上記のような認識が語られていましたにゃ。何箇所か抜粋すると


「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。そして、当然のことながら、この社会では達成されていないどころか「遠い夜明け」でしかない。


すなわち、このような性差別ある限り、女性にとって「自由」などない。


そして、男性にとっても「自由」などないことに気が付いた多くの男性がいる。


「自由」は、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性を「私の勝手」「貴方の勝手」へと解体することが可能な概念ではあるけれど、「では、そのためにどうするか」が同時に、それを掲げる者において問われる概念でもある。


「自由」は、現実に存在する差別と権力関係に基づく「私の政治的/社会的身体」「貴方の政治的/社会的身体」を――その「差異」へと決して還元されはしない決定的な非対称性を――一切合財「個人」へと返却してウヤムヤにする魔法の言葉としてあるのではない。


「自由」の名のもとに、この差別的な社会において、「個人の御勝手」をただ肯定することは、「個人」を肯定することでも「自由」を肯定することでもない。


「個人の御勝手」が真に可能であることと、差別が撤廃されることは、同義である、と。少なくとも「自由」とは言論においてはそのことを目指すべき理念であると。


私たちが、男性でも女性でもなくマジョリティでもマイノリティでもなく構造差別の加担者でも犠牲者でもなく真に「個人」であることは、大変に困難なことです。あるいは不可能なことです。なぜなら、この社会には、差別が存在するからです


繰り返し繰り返し、いろいろなレトリックを用いて書かれていることは明白だにゃ。
すなわち

  • 差別ある限り、私たちは自由ではなく、個人であることもできない

♂自身の問題としての性差別社会

ここのところ何本か、ホモソーシャル社会への批判的言説をあげてきましたにゃ。性差別社会とは、「男らしさ・女らしさ」を強制する社会であり、そこで抑圧されるのは何も♀ばかりではにゃーからだ。例えばゲイ差別というのは、「男らしさ」を示すことのにゃー♂が熾烈に排除され抑圧されることをよく表している典型例ですにゃ。
常に「男らしさ」を、つまりは「俺はチンコびんびん」を示しつづけることを表立ってあるいは暗に強制されつづけるようなメンドクセエ社会は僕も真っ平御免カワかむりたいのですにゃ。


性差別社会をなんとかしにゃーと、抑圧される♀ばかりでなく、抑圧する側にいるはずの♂にも自由なんてものはありえにゃー。男性学というのはそういう認識で成り立ったのですにゃ。


そして、差別というものがあると、誰も「私という個人」という立場を本当にもつこともできにゃーのだ。性差別社会であれば「男」「女」「同性愛者」などの立場を強制され、「私という個人」が「私という個人」として発言したり行動することがあらかじめ封じられてしまう。
現に、性差別発言を批判する場合にも、僕は必ず「ヘテロ♂」と公言しなければならず、さらに、僕の発言内容ではなく、僕がヘテロ♂であるという理由で反発されている例が実際にありますにゃ*1


差別のある社会というのは、個人という存在を否定し、すべての発言をポジショントークとしてしまう社会なのですにゃ。


と、まあこれは差別というものが、抑圧される側だけでなく抑圧する側の自由も奪い、個人という存在を抹消するものであるという一例ですにゃ。

差別とは構造的なものである

表現規制問題にクチバシをつっこんだ最初から言っていることなんだけれど、差別というのは構造的なものですにゃ。政治・経済・社会慣習・法などのあらゆる社会的なシステムに根をはり、僕たちの意識とフィードバック回路をつくっているものですにゃ。
差別というものを少しでも考えたことがあるのなら、それを「個人」や「個人の御勝手」に封じ込めることなどできるものではにゃーことは前提としてわからなければならにゃー。個人に封じ込めることができるものなど、そもそも差別などとはいわにゃー。


では、先ほど引用したsk-44の記述、特に「「個人の御勝手」が真に可能であることと、差別が撤廃されることは、同義である」あたりを念頭におきつつ、再びid:kadotanimitsuruブコメを引用するとともに、前回エントリにつけられたブクマコメを引用してみますにゃ。


id:kadotanimitsuru
[1984年], [差別] の自由こそが真の自由だよ。だからそれを(「個人の御勝手」に封じ込めた上で)温存しないと社会自体から自由が無くなる。全ての個人が漂白される。表現の自由は思考の自由。全ての個人にAKを! 互にF*CKと言い合う世界を!
2009/12/12


id:NaokiTakahashi
残念ながらkadotanimitsuru氏の方が正しい。厳密に“「個人の御勝手」に封じ込め”る、つまりいかに差別者を無害化し共存するかが問題。デスノートを肯定するのか、安易な強権行使の誘惑を断ち切り外堀から埋めて行くか。
2009/12/13


驚くべきことに、差別の構造性・社会性・共同性などがまったく考慮されてにゃー。差別を「厳密に“「個人の御勝手」に封じ込め”る」って・・・・


sk-44は「「性差別は存在しない」などと私は絶対に言えない。」といっていますにゃ。ここで彼の言う「性差別」とは、それがあるかぎり自由も個人もなくなってしまうもののことだにゃ。差別ある限り自由も個人もない、そして自由を個人を抹消する差別というものが現にある、という話をしているエントリに
「差別の自由こそ真の自由」「差別を厳密に個人の御勝手に封じ込める」などといってしまうことに対して、僕は心底あきれ果てた。
自由も個人もないところで、この人たちはいったい何をしたいんだろうにゃー?

それ、真逆だから


id:takanorikido
「理想状態での表現はグロげちゃになると思う」んじゃなかったのけ? http://bit.ly/7avTYo 同じとこ目指してるようにしか見えんけど。(それともF*CKはグロげちゃに含まれんのか。)仲良くせーよ。


id:harutabe
何を怒ってるのかさっぱりわからない。俺にはkadotanimitsuruの発言は「この世から強姦が無くなれば陵辱表現は問題にならなくなる」の露悪的換言に聞こえるんだが。やっぱ同属嫌悪が一番刺さるってことなのかね。


sk-44が言っていたようなことを、実は僕も過去エントリで発言しておりましてにゃ。takanorikidoがリンクし、harutabeが言及した陵辱表現が問題とならない社会を - 地下生活者の手遊びですにゃ。ここで僕は「差別があると好きなことが言えない」ことが問題だと言っていますにゃ。


で、リンクしたエントリの趣旨は、

  • 差別というものがまったくない理想状態では、表現の自由は完全に認められる。

であり、ブクマコメで「理想状態での表現はグロげちゃになると思う」と確かに発言していますにゃ。
もちろん、ここでのキモは「差別というものがまったくない理想状態」というファンタジーな前提だにゃ。言い換えれば、自由と個人が万人において確立している理想状態にゃんね。
こういうありえにゃー状態を前提としてなら、表現はなんでもアリで、げろげろグチャグチャ多いに結構。なんでも陵辱し放題やり放題。ここにはニンゲンの自由を阻害する「差別」がにゃーので、Everything is gonna be alright !


ところで、僕のそうした発言と、「 [差別] の自由こそが真の自由だよ。だからそれを(「個人の御勝手」に封じ込めた上で)温存しないと社会自体から自由が無くなる。」が「同じとこ目指してるようにしか見えんけど」「露悪的換言」にどうやったら読めるの?
どう見ても真逆だとしか・・・・・

表現の自由につくヒモ

kadotanimitsuruもNaokiTakahashi も、表現の自由に「ヒモ」がつくことを極端にきらっていましたにゃ。「他者」というヒモがついているのもダメらしい。まあ、自由や個人のあるところには他者があるものだけれども、差別温存を目指す彼らの世界には自由も個人もにゃーからな。で、個人なんてものが彼らの世界にはにゃーので、差別を封じ込めるゴミ袋に「個人」という名前をつけているわけだにゃ。



kadotanimitsuruによると「表現の自由は思考の自由」だそうですにゃ。
「思考の自由」というのはよくわかんにゃーが*2、これを「思想の自由・内心の自由」と捉えると、そりゃ違うね、という話にしかならにゃー。
思想の自由・内心の自由は絶対的な自由だにゃ。手もとの「芦部憲法」にもしっかりそう書いてありますにゃ。対するに、表現の自由はべつに絶対的な自由ではにゃー。
そりゃそうだよね。表現には他者を必要とするのだから。


ところで、芦部憲法からちょっち引用してみますかにゃ。


表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)である。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)である。表現の自由は、個人の人格形成にとっても重要な権利であるが、とりわけ、国民が自ら政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である。


P160


「「個人の御勝手」が真に可能であることと、差別が撤廃されることは、同義である、と。少なくとも「自由」とは言論においてはそのことを目指すべき理念であると。」
これはsk-44の発言にゃんね。まさに、表現の自由の価値とは自己統治の価値なのだにゃ。
だから彼は僕と「公共圏」の話につきあってくれたのですにゃ。表現の自由という錦の御旗をあげるまともな「保守主義」であれば、自己統治という価値にコミットせざるをえにゃーんだろう。

「差別の自由こそ真の自由」という立場からは「国権ロンダリングとしての公共圏」という発想にしかならにゃーんだろうけれど*3


自己実現の価値」「自己統治の価値」が表現の自由を支えている以上、表現の自由にはそれらの価値という「ヒモ」がついているということになるにゃ。
ここで
自己実現」とは個人がもっと自由になること、と捉えますにゃ。
そして
「自己統治」とは社会がもっと自由になること、と捉えますにゃ。


まとめると

  • 表現の自由とは個人と社会がもっと自由になるためにある

表現の自由には、「個人も社会ももっと自由になる」というヒモがついているんだよ!
そして、差別こそが自由の敵の一方の巨魁ですにゃ。
そのような表現の自由を、僕は一貫して心の底から支持していますにゃー。
サイコーだよね!

*1:http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20091208/1260206019 コメ欄参照

*2:実は「表現の自由は思考の自由」という言葉から、筋肉少女帯の「サンフランシスコ」という曲の歌詞を連想した。「脳髄は、ものを思うに、ものを思うにはあらず/ものを思うは、ものを思うは、むしろこの町」という1節を。ただ、この話をやると長くなるうえに収拾つかないんでパス

*3:http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sk-44/20091212/1260586483 まあ本来なら自己統治というのはリバタリアンの最重要徳目のはずだけどな