公共性、子育て、出産圧力、そして寄生者

公共性と子育て

まずは前回エントリの補足から。


こどもとは他者であるから子育てには公共性があると述べたけれども、実際のところこれが自明であるというわけでは全然ありませんにゃー。
例によって倉庫に放り込んでおいた、ハーバーマスによる公共圏の成立過程を僕なりにまとめたものを参照しつつ。


歴史的に見ると、そもそも私的領域というものが、家父長を中心とした小家族の内部にできた【親密圏】からおこってきたものであり、家庭というのは私的領域の典型のはずなのですにゃ。
私的領域において愚行権が成立すると僕は再三再四いっているけれど、この愚行権というのは私的自治を担保するためのレトリックであるといえるわけにゃんね。


もしも、子育てに公共性があるという理路が成りたつとすると、家庭という典型的な私的領域に「公的なるもの」が入ってくることを認めなければならなくなりますにゃ。
倉庫に入れた文を読んでくれればわかるのだけれど、「公的なるもの」とはハーバーマスによればもともとは私的自治圏の拡大したものなのだけれど、これが19世紀の終わり頃から公権力に回収されてしまうということ(=公共性の構造転換)が起こってきたわけですにゃ。


ここで、

  • 私的自治圏の拡大したものとして捉えた「公的なるもの」を公共性A
  • 公権力・国家権力の発露としての「公的なるもの」を公共性B

とすると、両者はまるで性格のことなるものとなりますにゃ。「法の支配」と「法治国家」くらい違うものにゃんね。


「子育てには公共性がある」という僕の言明における公共性というのは、もちろん私的自治の論理たる公共性Aを指しているつもりだけれど、その辺はどう考えても説明不足だよにゃー。公権力が家庭を統制するという話に対してはとても賛成できにゃーわけで。
ところが、この国に私的自治の拡大されたものである公共性Aというものがあるのかというと、僕はもう下を向いてもごもごしちゃいますにゃ。西欧ですら、公共性Aが公共性Bに転換してしまったというのに・・・


だからといって、家庭を私的領域の聖域としておくわけにはいかにゃーってのも確かなことなんだにゃ。DVとか児童虐待のことを考えれば自明だろ。
「19世紀の終わり以降、ブルジョア社会の圏域がその内部での利害紛争を自力で解決できなくなり、国家にその調停を要請した。つまり、国家と社会との分離という公共圏の存在の前提条件を放棄した。」
というのがハーバーマスのいう公共性の構造転換なのだけれど、現在においてこのような事態が家庭においておこっているのかもしれにゃー。つまり、「家庭に育児の力がない」という理屈で公権力が家庭に干渉するようになり、またその干渉を歓迎するような風潮がでてくるのかもしれにゃーということですにゃ。これには警戒したい。
とりあえずは、NPO自治体が連携して、DVや児童虐待の被害者を保護するような仕組みをつくるくらいしか思いつかにゃーです。自治の論理でなんとかしたい*1んだけどにゃー・・・・


まあ、このあたりのことについてはこれからもうだうだ考えていきますにゃ。


では、以下はブクマコメへの応答ってことで

id:lakehill ethics, birth
「出産という個人的な趣味と、育児という公共性を有する営み」>と結論づけるには、根拠薄弱ではないのか?


id:iteau Society 社会
こちらの理解が妥当。ただ、更に突き詰めて言うなら、親権や相続の否定まで行き着くはず。私はもう否定してるけど。

というわけで、育児の公共性については確かに考えるべきことはたくさんありますにゃ。育児に他者性があるってのはガチなんだけどね。
それと、私権としての親権の否定は僕にはできにゃーですね。親権は確かに抑圧の源でもありえるけど、抵抗の拠点ともなりえるわけで。私権ってアンビバレンツですよにゃ。

出産圧力について


id:pollyanna
感じ方は近いように思う>http://h.hatena.ne.jp/pollyanna/9234279960951896522/ただ、女性が子供を産まないことに対する圧力はものすごいので、完全に女性の自由な意志と選択に任されているとは到底言えない現状もあるんだな。


id:cham_a
産めない女は欠陥品というプレッシャーの中で苦痛や手間や費用を掛けて長年不妊治療してたであろう人達の最後の希望に「寄生」という言葉を投げつけるのはすげークリティカルヒットだとは思う/代理出産には反対だが


id:nanae_ll
代理出産に今は賛成しない(高校生の時は賛成してました)けど…「産め」という世間様からのプレッシャーとの絡みを考えると、心情的にはもごもご。/新しい技術と旧来の価値観の結婚というか何というか


id:norton3rd
大意は賛成だし代理出産にも反対(そも最近は出産が生命の危険を伴う大変な行為であることをわすれとりゃせんか?)だが『寄生』呼ばわりには違和感は拭えんね。出産圧力を受けている女性のことを考えると・・・


産め、という♀への圧力が現実にあることは僕も理解していますにゃ。だからこそ、「性と生殖に関するすべての選択は趣味」といっているという面もあるのですにゃ。「性と生殖に関するすべての選択は趣味」というのは、「性と生殖に関するすべての選択」について、いっさいの他者からの、あるいは公的な強制を拒絶するという意味合いもあるのですにゃー。
国家や民族、あるいはイエ、もしくは遺伝子などを個人よりも上位に価値づけるような価値観からは、「産み育てるのが善」という結論が当然に導かれますにゃ。
先日のエントリでリンクした、レヴィ=ストロースの講義を見るに、出産機械としての♀、という生物学的本質主義的な♀の捉え方は、近代社会においてむしろ強化されていると考えてもよいでしょうにゃ*2


「産め」という圧力に晒される♀を、不当な圧力の犠牲者と見るか、当然の要求に応えられない弱者と見るかはまるで違う話ですにゃ。


代理出産をしようとする/した♀は、確かに出産を♀に強要する社会の犠牲者であるかもしれにゃー。
しかし
彼女達は「出産を強要する社会」に対して疑問をもっているのでしょうかにゃ? 自分が犠牲者であるという自覚すらにゃーのでは?
もしも、♀に出産機械たることを強いる社会の犠牲者であると自らをみなしているのであれば、他の♀(=代理母)を出産機械として扱うようなマネをすることはにゃーだろう。もし、犠牲者であるという自覚があって他の♀を出産機械として利用しているのであれば、ひどく非倫理的なことですにゃ。


多分、♀に出産機械たることを強いる社会における「敗者・弱者」であると彼女達は自らをみなしているのではにゃーかと考えますにゃ。あるいは社会的にもそういうコンセンサスがあるといってもいいかもしれにゃーですね。「産めない♀は弱者」というコンセンサスがあるからこそ、代理出産を認めてもよいと考えるヒトがたくさんいるのではにゃーだろうか?


しかし、代理出産を頼めるというのは、経済的・社会的には強者であることが多いわけですよにゃ。つまり、やっていることは
「自らを弱者とみなす経済的強者が、他者(往々にして経済的社会的弱者)を出産機械として使役し、リスクもひっかぶせる」
ということですにゃ。
「♀は産む性」という社会的偏見を見事に内面化しちゃっているんですよにゃ。偏見を内面化して、他者の身体を利己的な目的の手段としてしまっている以上、彼女達は単に被害者・犠牲者というだけではなく、加害者・搾取者になってしまっていますにゃ。

寄生というレトリック

id:beltorchicca
男が女の体を使って子をなすことを寄生出産と呼ばないなら、この言葉の陰にあるのは「子を欲するのは常に女のエゴである」という偏見。夫や夫親の望みであっても寄生主として揶揄されるのは子宮を使わなかった女だけ


今回、もっとも考えさせられたコメントがこれですにゃ。ちゅうか、これに応えたくて書いていますにゃ。
これを少し解釈して

  • 家父長制権力が♀の体を使って子をなすことを寄生出産と僕は呼びます


例えば、ある程度のイエにおいては、戦前までは♂はメカケを囲うことを奨励されていましたにゃ。正妻が不妊であった場合*3、血統を残すためにメカケに子を産ませるわけにゃんな。正妻が出産機械として機能しにゃーときは、メカケを出産機械として使用するわけですにゃ。イエ制度のために、♀の身体を手段としてタネを仕込むわけにゃんな。
代理出産といえば代理出産ですにゃ。イエ制度をベースにした代理出産だにゃ。メカケは代理母。メカケが社会的経済的弱者であることも同じ。


現代の代理出産においては、不妊カップルが受精卵を他の♀の身体に仕込むわけにゃんな。昔のイエ制度においては、家長たる♂がメカケの身体に性行為でタネを仕込むけれど、現代の遺伝子至上主義や家父長制権力においてはカップルが代理母の身体に医療行為でタネを仕込むのだにゃ。


こうした、制度とか家父長制権力とか、そういう個人を超えたグロテスクな何かが個々の♀を孕ませ産ませるという事態を「寄生」と僕は感じてしまうということですにゃー。
「寄生」というレトリックに関する違和感を何人かが表明していますにゃ。で、なんとか言語化しようと思ったけど、今の段階ではここまでしか言語化できにゃーです。非論理的といわれるとゴメンナサイするしかにゃーですね。
「寄生」などというより、「性資源の搾取」といったほうが一般的には適切かもしれにゃーです。ただ、「搾取」というと、階級対階級、のようなイメージがあるんだけど、ここでおきているのは、あるイデオロギーなりシステム(=寄生者)が♀の身体を資源化して自己再生産していくという事態なのではにゃーかと思う。

*1:例えば、疑似科学批判・ニセ科学批判などはこうした自治の論理のひとつだと考える。ニセ科学の本当の被害者はガキだよね。また、科学をはじめとした学問の論理は自治の論理であるということもいえるか

*2:それに、産むことを善とする考え方は、同性愛などの性的マイノリティに対する差別と偏見を強化することになるのも忘れてはならにゃー

*3:もちろん、不妊の原因が♂の側にあることもフツーにあるはずなのだが、それはあまり問題とされない