生殖に他者はなく、子育てに他者はある


赤木氏の書いたものを読んだのはこれが初めてですにゃ。
「希望は戦争」については、読んでにゃーので赤木氏の意見を誤解していたら申し訳にゃーのだが、「戦争なんて事態になったらそれこそ弱者の生命が使い捨てで格差なんて縮まるどころか無限大になるのにね、戦争って官僚制の極限形態だろ」、としか思えず、愚昧な論調だと考えていましたにゃ。
ところが、この赤木氏の記事には個にゃん的にそれほど抵抗なく読めましたにゃ。もちろん論旨に問題はオオアリだけどね。それにしても、ブクマコメの否定的な反応にびっくりにゃんな。


いっておくと、僕自身はタバコはやらにゃー。相棒(ホタル族)のタバコにはいつも文句たらたら。タバコは社会的な損失がでかいと考えていますにゃ。また、アトピーの4歳児を育てているところにゃんね。
ところが僕は赤木氏の「子育ては個人的な趣味だ」という意見に半分はうなずきまくりなのですにゃ。


ところで、灰とダイヤモンド - 地を這う難破船において「赤木氏は公共の利益を否定している」との発言がありますにゃ。もちろん、これはこれでわかるし、文句をいうつもりもありませんにゃ。確かに赤木氏は「公的領域」を否定しているように僕にも思われる。「有限なる公的資源」というのが赤木氏にとってはうさんくせえのではにゃーだろうか。
ただし、この公共というコトバを「公共の福祉」という憲法に謳われている概念と解するのなら、赤木氏は「他人の権利の尊重」ということで十分に公共の利益を尊重しているともいえますにゃ(憲法学の通説たる一元的内在制約説)。多分、赤木氏はこの意味での公共性しか認めにゃーのだろう。これはこれでひとつの見識にゃんね。

子育ては個人的な趣味か?

「子育ては個人的な趣味」という言明をちょっと考えてみますにゃー。
飢え渇き卑しい顔をして、生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ - 地下生活者の手遊びで表明したとおり、生殖にかかわる一切の選択は利己的なものでしかにゃーと考えますにゃ。


ガキをつくろうがつくるまいが、中絶しようがしまいが、ガキを産んでから捨てようが捨てまいが、あるいがガキを殺そうが可愛がろうが、どんな選択をしても利己的なんだということですにゃ。ガキを産んで育てるって、やっぱり利己的な行為だよにゃ。社会のために・人類の義務として、なんて理由でガキ産んで育てるなんてやってられにゃーもの。自分の好きでやる利己的なものですにゃ。


あえていうけど、障害のあるガキを産んで育てるのも、障害のあるガキを嫌がるのも、やはり利己的なことなのではにゃーかと思う。親が好きでやることですにゃ。子育てを社会が支援してくれるのは、まあ確かにありがたいことですにゃ。ただそれはガキに対する支援であって、親に対するものではにゃーのでしょう。


産む・産まない、育てる・育てない、などの選択それ自体は、いかなる選択も利己的な、もっといえば身勝手なものではにゃーでしょうか? 産むも愚行、産まぬも愚行であり、愚行権とは私的領域の個人的な幸福追求の自由の権利のことでしたにゃ。つまりは趣味。
ガキを産むことを、社会のためだとかいう視点で考えると、優生学に対抗することができなくなるってのもありますにゃ*1


ところが、ガキは他者なんですよにゃ。頭すっからかんの弱者である他者。つまりガキというのは、身勝手な選択のすえにみずから引き受けた他者のことなのですにゃ。ここのところが理路にはいってにゃーので、赤木氏の論旨には半分しか頷けにゃーわけだ。赤木氏の論旨の決定的な欠陥は、他者としてのガキ、という視点がにゃーところですにゃ。
いったんうまれてしまったガキというのは他者であり個人であるので、子育てには公的な性格がともなってしまうのですにゃ。

  • 個人とは公的な存在である

というのが、自由民主主義政体の基本中の基本テーゼですからにゃー。


というわけで、産む・産まない、などの性と生殖にかかわる選択について、お上どころか他者はいっさいクチバシをつっこむべきではなく、どういう選択をしようがそれこそ「産まないのは愚行・産むのも愚行」「ぜんぶ身勝手」「個人の趣味」としておいて、いったん生まれたガキ(個人)という公的存在に対しては必要次第で社会全体でサポートするということでいいのではにゃーかと考えますにゃ。
公的な育児サポートというのは、あくまでガキのため。親が偉いわけでもなんでもにゃー。ガキがワリを食う社会は、赤木氏も否定するはずだしにゃ。
というわけで、「子育ては趣味じゃないだろ」という反応は確かに間違ってはにゃーよな。


しつこくいうけど、産む・産まない、は趣味。しかし、そこに存在するガキを育てることは趣味ではにゃーわけだ。
ここのところを分けて考えにゃーと、気持ちのワリイことになりますにゃ。

出産・育児の特権化

産むという本来は利己的な趣味にすぎにゃー選択と、育児という他者の受容がともなうゆえに公的な意味を持つ営みをごっちゃにすると、出産・育児の公共化あるいは聖化につながりますにゃ。産むという意思ひとつで自らをお手軽に聖化して、公共的な支援を要する存在にできるってのはオイシイ話だよにゃー。そこから、出産・育児の特権化という、個にゃん的には「おなかいっぱい」の話となるわけだにゃ。これを嫌う論調をときどきみかけるけど、気持ちはよーくわかる。
そして、これが生殖医療と結びつくとキモイ話になってくるのではにゃーだろうか。


玄倉川の岸辺を開いて、[代理出産関連]というカテゴリーをぽちってくださいにゃ。全部読んで欲しいところだけれど*2、少なくとも「代理出産」賛成派の意見 その2 - 玄倉川の岸辺および次記事であるその1を詠んでくださいにゃ。


私は正直なところ背筋が寒くなった。
ほとんど誰も
 「生まれてくる子供」
 「代理母を引き受ける(引き受けざるを得なくなる)女性」
の心理・健康・環境を心配していない!
ただ一人、栃木県の17歳女性が「代理を頼む以上、最後まで責任をとってもらいたいです。」と書いているくらい。
こんなことがありうるのか。信じられない、いや、信じたくない。
賛成派の中では「子供を望んでも産むことが出来ない女性」への同情が99%を占め、「生まれてくる子供」「代理母を引き受ける(引き受けざるを得なくなる)女性」への配慮は1%も存在していないようである。これではまさに「産む機械」の利用そのものだ。


玄倉川のいうとおりですにゃ。ここには他者への配慮がどこにもにゃーんだよ。
出産・育児の特権化の観念におぼれて悪酔いしているとしか思えにゃー。自分の欲望だけで膨れ上がっているくせに、それを公共化あるいは聖化して正当化しているのだにゃ。

寄生出産

玄倉川代理出産に対して、当面の間これを「寄生出産」と呼ぶべきだと発言して叩かれてるんだけどさ、僕にはこの「寄生出産」の何がワリイのかさっぱりわかんにゃーのよ*3。さっぱりぱりぱりパリサイ派*4って感じ。
それどころか的確な表現なのではにゃーかと。グロテスクな事態を表現しようとしたら、表現そのものもグロになっちゃうのはアッタリマエだにゃ。グロいのは事態のほうであって、それを表現する者ではにゃー。


代理出産肯定のヒトタチの意識には、どうも代理母と生まれる子という他者が希薄どころかほとんどにゃーようだ。育児の他者性こそが公的な意義をもつのに、それがにゃーってのは公なるものに対する寄生なんでにゃーの?
また、彼らは遺伝子至上主義というか、生物学的本質主義で凝り固まっているようで、生物学的なコトバである「寄生」を使ってあげるというのもいいんでにゃーだろうか。


代理出産については、僕も以前に効率のよい搾取 - 地下生活者の手遊びで触れましたにゃ*5。総体的に、経済的に貧しい層、あるいは立場の弱いものが代理母として囲い込まれていくのは明らかですにゃ。
臓器売買と非常によく似た構図にゃんねえ。


ところで、
出産が私的な趣味だとしても、だから禁止するという理屈はありえにゃーよな。代理出産が愚行であるとして、自由民主主義社会では愚行権(各自の嗜好に沿った幸福追求権)が認められているはずですにゃ。
このあたりについては、臓器売買が認められない理由。そして代案 - 地下生活者の手遊びで述べたのと同じ理路で反対。
つまり
私的領域における愚行権は、他者危害をしない限り容認するけれど、公的資源たる医療が私的な愚行に利用されることは認められにゃー。公的資源を利用したければ、社会的合意を取り付ける必要がでてきますにゃ。
産む権利という私的な権利は否定のしようがにゃーけれど、私的な権利に基づいて無条件に公的資源を利用できるわけではにゃーのだ。


代理出産に公共財たる医療資源を利用することを認めて欲しいのなら、http://ameblo.jp/y-gami/entry-10067330784.htmlなどの問題点をすべて考慮し解決したシステムを、認めて欲しい側が提出するべきでしょうにゃ。そこではじめて議論を始めることができるわけにゃんね。
それまでは「寄生出産」でいいんでにゃーの?

けつろん

  • 産む産まないも含めた、あらゆる性と生殖に関する選択は「個人の趣味」
  • 子育ては個人の趣味に端を発するものといえるが、一方こどもは他者でもある
  • 自由民主主義社会において、公共性とは他者の尊重である。その意味で育児は公的といえる
  • 他者の尊重を説きながら育児を趣味という赤木氏の論旨には深刻な欠陥がある*6
  • 出産という個人的な趣味と、育児という公共性を有する営みをごっちゃにすると、出産・育児の聖化、特権化がはじまる
  • この特権化が生殖医療と結びつき、代理出産という性資源の搾取が正当化される
  • 私的な「産む権利」には、公共財たる医療資源を無条件に利用することはできない
  • 代理出産を「寄生出産」と言い換える玄倉川を支持する


補論 生物学的本質主義

資料倉庫に、レヴィ=ストロース講義から、「未開社会」における「不妊への対処法」についての発言を抜粋しておきましたにゃ。
「将来世代を産出する義務はあるか」という論文を書きました - kanjinaiのブログでリンクされている森岡論文(第2章)にもあるとおり、個人における生殖・社会における自己再生産はあらゆる人間社会における前提といえますにゃ。レヴィ=ストロースもその旨、発言していますにゃ。


ニンゲンという種の特徴として、ガキのうちの極端に無力な状態が長く続くということがありますにゃ。だから、社会が自己再生産をするということは、社会的な親子関係を設定するということを意味しますよにゃ。で、この親子関係の設定において、近現代の社会は生物学的親子関係を重視しすぎなのではにゃーかと。
家族なんて血縁である必要すらそもそもにゃーだろうに。ゲイカップルの子育てなんかもバンバン認めていいのににゃー。
「人類学者の研究する社会では、私達を困惑させている生物学的受胎と社会的父性の矛盾は、存在しないことが確かめられたわけです。これらの社会は、ためらうことなく社会的関係に優先権を与え、集団のイデオロギーにおいても、個人の精神においても、二つの問題は衝突しないのです。」
レヴィ=ストロースも言っているけれど、僕たちは遺伝子だの血だのにしばられすぎてやしにゃーかね? 横溝正史の小説世界のようにどろどろにゃんぜ。


ちゅうか、資料倉庫で紹介した事例はジェンダー論的にも実に興味深いといえますよにゃ。なんたって、♀が妻をめとっちゃうのが社会的に認められているんだからにゃ。ジェンダー論に対する最大の「素朴な敵」が、やはり生物学的な本質主義であることを考えると、近代社会というのはつくづく「生物学的本質主義」「科学至上主義」にゃんなあ*7
ここでも「敵は自然」か・・・


森岡論文に「人類の穏やかな自己消去を認める」かどうかという思考実験がありますにゃ。ニンゲンは生物学的本質主義(=利己的遺伝子)に逆らいえるという、それこそドーキンスの提出した問題意識において、僕は「人類の穏やかな自己消去を認め」ますにゃ。
ニンゲンが利己的遺伝子の奴隷でにゃーのなら、穏やかな自己消去を選択肢として拒否するべきではにゃーだろう。森岡論文の思考実験は、人類という種に関する問題だとみなしているので、このような結論になりますにゃ。各民族や国家レベルでの自己消去となると、また違う結論になるでしょうにゃ。民族(民俗)文化の消滅って、認めたくにゃーもの。

  • ニンゲンにとって、生殖が運命・必然・自然、と呼ばれる事態は生物学的本質主義である

よって、個人の生殖は趣味であり、人類の自己消去は選択肢のひとつとなるわけですにゃ。

*1:参照 赤木氏や有村氏のエントリおよびそのブコメを読んで

*2:ただし、ID:ktL3v1/80 の意見 - 玄倉川の岸辺は支持できにゃー。レトリック以前に、科学的におかしな記述が多い

*3:もちろん、buyobuyoのインポ発言も、hagakurekakugoの「人類と思いたくない」も何がワリイのかさっぱりにゃんが

*4:©尾玉なみえ少年エスパーねじめ」より

*5:コメ欄も見てね

*6:面白くは読んだ

*7:生物学、特に進化学をそれなりにかじれば、生物学的本質主義は間違いだとわかるんだけどね