最初に「悪」があった


エントリの書き方忘れちゃったにゃー。
ま、簡単に。

1


私たちは皆、自然状態の無軌道な欲求の表出をコントロールするべく、社会から道徳や規範をインストールされるのだ。


たぶんこれは間違い。
例えばチンパンジーはきわめて政治的かつ「倫理的」な生き物ですにゃ。
僕たちの倫理性は、ある程度は先天的なものだけれど、環境に大きく左右される、あたりが正解ではにゃーかと。このあたりに興味のある向きは、フランス ドゥ・ヴァールの一連の著作(特に「政治をするサル」「利己的なサル、他人を思いやるサル」あたり)をおすすめしておきますにゃ。


「攻撃性は人間の本性に由来するものである。」
「サドにとって自然に帰るとは、暴力と肉欲を押さえている歯止めを取り払うことにほかならない。私も同意見だ。社会が悪いのではない。社会は犯罪を抑止する力なのだ。」
カミール・パーリアはいっているようだけど、これは霊長類学や進化心理学的にはきわめて一面的な見解にゃんね。
「協調性や共感能力もまたニンゲンの本性である」といわなければならにゃーのだが。
まあ、この論点はまたいずれ。以下は構築主義的にも読めるように書きますにゃー。

2


ちゃんとインストールされたはずの道徳や規範意識を押し潰すほど、性的欲望は人間を深いところで支配しているからこそ、性暴力や性犯罪はなくならないのだ。身近なところでは、本人は注意しているつもりでセクハラ的言動を取ってしまう人はよくいる。


と言うと、「性犯罪者にあるのは性欲ではない。暴力的欲望や支配欲だ。性犯罪は暴力犯罪だ」という意見が必ず返ってくる。

では、性欲と暴力的欲望や支配欲は、別ものなのだろうか。きれいに切り離すことができるのか。


まず、これは元エントリohnosakikoの論旨ではにゃーことを承知の上で反論しておきたいのは
「性犯罪者にあるのは性欲ではない。暴力的欲望や支配欲だ。」
という考え方ですにゃ。


簡単な三段論法ね。
1)性欲は存在する
2)暴力を用いて欲求を満たそうとするものは存在する
3)暴力を用いて、性欲を満たそうとするものは存在する
となりますにゃ。


殺人が悪であることはいうまでもにゃーが、殺しをしてまでカネやらなにやらを欲しがるニンゲンは現実にいますにゃ。暴力という手段を用いて性欲を満たそうとする輩がいるというのは、どう考えても否定しようがにゃーですね。
もちろん、社会的文化的状況によって、レイプの数が変わるということに異議をとなえるつもりはありませんにゃー。僕がいいたいのは、「性犯罪者にあるのは性欲ではない。暴力的欲望や支配欲だ。」は一般論としては破綻しているのではにゃーかということですにゃ。


で、引用先でohnosakikoは
「ちゃんとインストールされたはずの道徳や規範意識を押し潰すほど、性的欲望は人間を深いところで支配している」
と述べているんだけど、どうなんだろ?
そもそもニンゲンの性欲ってのが複合的な欲求であって、単なる生理的な性衝動なんかではにゃーわけだ*1非モテ論壇とやらにおいては、「承認欲求」がキーワードだったようですよにゃ。承認だのなんだのってのは権力のお話でさ。「♀こそが権力者だあああ」などと抜かしている非モテのヒトタチにはことかかにゃーよね。
むしろ、道徳や規範意識がエロス的に構造化されているんでにゃーの?


性欲の根幹にあるのは、(はっきりと「暴力」とは言わないまでも)攻撃性や権力への意志であるとしたらどうだろう。

ヒトの三大欲求の一つと言われる性的欲望、性愛感情を駆動し人間を再生産し社会を維持するのに欠かせないと言われてきた性欲は、もともと支配欲と通低し、暴力性と手を結び合っているとしたら。

私たちは皆あらかじめ「不道徳」な星の下に生まれついているとしたら。


セックスに権力が入り込んでいるというより、セックス抜きには権力が成り立たにゃーってのが個にゃん的見解なんだけど、まあそのあたりはいいや。たぶん、実際には入れ子構造になっていそうだしにゃ。
なんにしても、欲求と権力、権力と暴力が各々無関係であるはずはにゃーわけだ。
互いに相関する変数を、形式的にどう切り分けて議論するかってことだよにゃ。

3


まず「不道徳」(=悪)があったから‥‥という言い方は不正確だ。最初にあるのは言わば「無道徳」な状態である。その中である振る舞いや考え方を「悪」と看做し「善」から切り分けることによって、道徳や規範は生まれ、倫理観が作られる。それを繰り返し繰り返し教えられることによって、「良心」は鍛えられていく。


原初的な「悪」、1次的な「悪」というものはあるのですにゃ。死・苦痛・病気・飢えなどをいかなる生物も避けようとしますよにゃ。そして、「善」とは、「悪」に対抗するために生み出されてきたものといえるでしょうにゃー。
ある程度「高等」な生物が共感能力を持ち*2、共感能力を善であると感じるのは、それが死・苦痛・病気・飢えなどの根源的・1次的な「悪」に対抗するのに有力な手段であったからでしょうにゃ。


自らの属する集団への忠誠、規律と秩序への指向性、集団成員への共感能力などが、ニンゲン社会において、死・苦痛・病気・飢えなどの根源的・1次的「悪」を避けるために大きな力を発揮したというのは疑いようがにゃーよな。
そこで僕たちは、「自らの属する集団への忠誠、規律と秩序への指向性、集団成員への共感能力」などを「善」として確立したわけですにゃー。そして、こういう「善」というのは共有されるほどに強力になるものですにゃ。
死・苦痛・病気・飢えなどのあらゆる生物が避けようとする根源的・1次的「悪」に対して、共感やコミュニケーションや集団の秩序で対抗するという戦略を選択したのが僕たちニンゲンという生き物だということですにゃー。


で、こうした「自らの属する集団への忠誠、規律と秩序への指向性、集団成員への共感能力」などを「善」として大切にするというのは当然の選択だし合理性があることだとはいえるのですにゃ。
しかし
もともと合理的なものだからといって、それがあらゆる意味で合理的なわけではにゃー。


例えば、売春という「悪」を考えてみますにゃ。売春は誰にも危害を加えるわけではにゃーですね。しかし、多くの文化で売春は「悪」とされる。なぜかというと、「規律と秩序」に反するから、ですにゃ。それ自体は苦痛をもたらすものではにゃーのに、「善」に反するという理由で悪とされるものが出てくるわけですにゃー。「善」というのは共有され拡大されるほど強力になるのだから、本来的におしつけがましいものなのですにゃ。
しかし、「善」に反するというだけで、他者に苦痛をもたらしてもいにゃーのに「悪」とされる行為がでてきてしまったんだにゃ。
これを2次的「悪」とでも呼びましょうかにゃ。

  • 「1次的悪」→死・苦痛・病気・飢えなどのあらゆる生物が避けようとするもの
  • 「善」→1次的「悪」に対抗するためにニンゲンがつくりあげたもの
  • 「2次的悪」→「善」を乱すが、「1次的悪」をあたえるものではない


ここでいう「2次的悪」というのは、売春とか非コミュとかに加えて、非道徳的な表現というものもはいってくるでしょうにゃー。


一部の表現は「悪」との烙印を押される。芸術もしばしばその憂き目に遭ってきたが、とりわけポルノという性表現は「不道徳」との悪評が立ちやすい。


ところで、死・苦痛・病気・飢えなどを避けるべきと考えることにおいては、ほとんどすべてのニンゲン社会において共有されているであろうことはわかりますにゃ。しかし、そうした「1次的悪」への対抗手段としての「善」は文化ごとにちがったものもあるわけにゃんね。例えばセックスがおおっぴらな文化もあるし、非コミュがえらい聖職者として尊崇される文化だってあるわけですにゃ。「善」というのもさまざまであるといえますにゃ。当然に、「2次的悪」もいろいろ。
つまり
1次的悪は共有できるけれど、2次的悪はなかなか共有できにゃーわけだ。


これを自由民主主義社会にひきつけると、「1次的悪」とは他者危害といえますにゃ。およそどんな社会においても、「1次的悪」は避けられるべきものであり、殺人・傷害・窃盗・強姦などが許されるニンゲン社会というのはありえにゃーわけだ。
そして、「2次的悪」は自由民主主義社会では「愚行」ということになるのではにゃーかと。他者に危害を与えない限り私的な愚行は仕方ないよね、というのが自由民主主義の考え方ですにゃ。


自由民主主義という考え方は、「善」を一元化しにゃー。だから、「2次的悪」を取り締まるということがにゃーわけだ。僕が基本的に自由民主主義を支持するのは、「他者危害=1次的悪」と「愚行=2次的悪」を区別しているからですにゃ。
善を一元化し、「愚行=2次的悪」を取り締まるのが宗教権力や全体主義権力にゃんね。
そして自由主義社会において「愚行=2次的悪」とは私的領域にゾーニングされているのだにゃ。


ところで、この1次的悪・善・2次的悪の話は、むかーしヤフー掲示板で「善の感覚のみなもとは何か」というスレッドでやったお話なんですにゃ。
アウグスティヌス神学においては「悪は善の欠如である」ということになっているんだけど、ユングがそれに猛反発していて、「圧倒的な悪のリアリティこそが善の感覚のみなもとである」というようなことをいっていましてにゃ。自分なりに悪のリアリティから道徳意識を構成してみたものですにゃ。
圧倒的な悪のリアリティこそが、僕たちの倫理性をささえる基盤となるものだと僕は考えておりますにゃ。
僕たちは、神話や物語で悪を体験する必要がある。一般論としてはにゃ

*1:まあそもそもある程度高等な哺乳類の「性欲」ってのも単なる生理的な衝動なんかじゃないんだけどさ

*2:いっておくけど、群れをつくる哺乳類はそうとうに共感能力が高い。例えば、犬以上に共感能力のたかいニンゲンってのはあんまりいないだろう