美少女戦士は無理だけどヘンタイにはなれる、かも


前回記事の補足ですにゃー。

ホモフォビアの指示内容

前回記事で、〜フォビアという語を「忌避」と捉える扱いが軽すぎるという指摘を複数受けておりますにゃ。代表的なものとして、コメ欄で「てつ」氏によってロングマン現代英英辞典から引用された記述があり、これだけでも僕の不勉強とイイカゲンが証明されたようなものですにゃ。赤面した。
ただ、〜フォビアを「忌避」と認識してしまったことについては理由がなくもにゃーので、そのあたりの言い訳からはいりますにゃ。


ホモフォビアは、一般的にレズビアンやゲイ男性など同性愛者に対する否定的な態度・感情、嫌悪を指します。そして、その現れ方には、大きく分けて以下のようなものがあります。


【IDAHO特集(2)】ホモフォビア・トランスフォビアについて知る - ゲイジャパンニュース


ここであげられた項目のすべて、とくに5〜8あたりの項目*1にまるで無縁でいられるヘテロ♂は、この日本社会においては例外的少数者だと認識しておりますにゃ。まあ、たぶんこれらと無関係なヘテロ♀も少ないだろうにゃー。
同性愛者自身すら、例えば「5. 内在化されたホモフォビア:社会や教育をとおして形成される無意識のホモフォビア」などの影響をとは無縁でいられず、同性愛者としての自分自身に苦しんだりすることがあるわけですにゃ。僕自身は社会的にいわばすり込まれたホモフォビアが自分自身にもあると認識しており、自分がホモフォビアとは無縁であるなどということはありえにゃーので、そこは正直にホモフォビアだと申告しているわけですにゃ。「俺は差別とは無関係だ」などというスタンスでこういうことを話せるほど神経は太くにゃーので。差別する側のマジョリティに属しており、その影響を受けているという事実を確認したのですにゃ。

ホモフォビアと男性ジェンダー

では、そのホモフォビアはどのように内在化されるのか?

これが良い記事なので、こうした問題に関心のある向きには是非とも全文お読みいただきたいけれども、とりあえず以下に抜き書き引用しますにゃ。

  • 「男ジェンダー」について考えてみたとき、つねに強く正しくあらねばならない、弱音を吐いてはならない、仕事はちゃんとできて成功しなくてはいけない、人には頼むのではなく指示を与えなくてはならない、受動的であってなならない、常に自分が話題の中心でなければならない、女性を所有してやっと一人前の男だ、などといったことが、「男らしさ」として求められている 
  • 「男である」とは、女らしくないこと、同性愛者ではないこと、従順でなく、依存的でも従属的でもないこと、外見の容貌も物腰も女性的でないこと、男性とは性的な関係も親密な関係ももたないこと、女性との関係で不能ではないこと、などである。(E・バダンテール「男とは何か」(上村くにこ・饗庭千代子訳・筑摩書房・2800円・1997年)p.147)
  • 「男性であると思われる者たちどうしの関係」を攻撃すること、もしくは自分が「男性であると思われる者たちどうしの関係」を欲しない/持っていないことを公言することは、男らしくあるための条件
  • 社会的に「立派な男」だと認められるためにはホモフォビアが必要
  • 自分が「男の中の男」であることを社会的にアピールする方法は、ホモフォビアの他に、もう一つあります。それが、女性蔑視です。
  • 一見男同士が仲良くしているそういった関係が、実はホモフォビアが最も激しい場であることもまた確かです。なぜなら「ホモなんかは本当の男ではない」から
  • 「他者への無関心(ホモの置かれる状況に興味がない)」「自分の問題を中心にすることを当然としている厚かましさ(全ての人が異性愛者だと勝手に決めてかかっている)」「他者の問題のために自分の時間を使わないでも済むということ(話そうとしても真面目に取り合わない)」---こういったものは、「男らしい男」とされる異性愛男性に社会的に割り当てられた特権
  • ただ単に「男である」というだけで男達が持っている特権は、実は膨大なのです
  • 女性が巻き込まれる性暴力のような「些細などうでもいいこと」について考えたり時間を割いたりしなくてもいいということこそが、男の特権なのです
  • ホモフォビアと女性蔑視は密接な関係があります。どちらも「男らしい男」には必要不可欠なものです。逆に言うと、「男らしさ」なんかにこだわるからこそ、ホモフォビアと女性蔑視は引き起こされているのです。
  • 「男らしくあらねばならない」という刷り込みは性的指向などを問わず全ての人に対して行われており、例えばゲイやバイセクシュアル男性といった「同性関係」を(も)多くもつ人とて例外ではありません。
  • 「男である」(正確には「男を演じる」)ということは社会的成功そして社会的な権力と結びついており、社会的な評価や認知などを受けることができる
  • 「男らしい男」を演じ続けるということは、女性蔑視を基にした男性間の同質性に基盤をおくホモソーシャルな男社会に参加しようと努力し続けることであり、不断に「男らしさ」という多数派のあり方への同化が求め続けられるということ
  • ホモは男性同性愛者だから攻撃されるのではありません。「男のなりそこない」だからこそ攻撃されるのです。


「男らしさ」を要求する男性ジェンダーに、ホモフォビアと女性蔑視が組み込まれているということですにゃ。日比野が引用しているE・バダンテール「男とは何か」という好著を僕も読んでいることもあって、このあたりの認識は僕も持っておりますにゃー。

XY―男とは何か

XY―男とは何か

ほとんどの♂(たぶんそして多くの♀)の内面に組み込まれており、社会・政治・法システムにおいても顕在化しているこの「ホモフォビア」というものを、それがあまりにも僕たちの内面にも社会にもありふれているゆえに、「(病的な)嫌悪や恐怖」ではなく「忌避」というニュアンスで捉えてしまっていたのですにゃ。繰り返すけど、僕の勉強不足だったにゃー。
ただし
ホモフォビアが僕たちの内面にも社会システムにもありふれていることに僕の力点があるので、ホモフォビアを同性愛に対する「(病的な)嫌悪や恐怖」と捉えてしまうことには、いまだに躊躇がありますにゃ。フォビアを「(病的な)嫌悪や恐怖」と捉えることは確かに正しいのだけれど、もうすこしソフトな言葉でマジョリティににホモフォビアの存在を認めさせることも、戦略として「アリ」だとは思うのですにゃ。どうでしょ?>ホモフォビアの用語法の軽さに疑義を表明した、てつをはじめとした皆様


あと、ブクマコメなりコメ欄で僕を性差別主義者扱いしたお方は、ほとんどすべてが「自分はホモフォビアとは無関係だよーん」というスタンスではにゃーだろうか。ホモフォビアが男性ジェンダーに組み込まれており、社会システムとしてもいたるところにみられ、しかもそうしたことについての無関心までホモフォビアの類型であることがわかっていたら、他者をお気楽に弾劾できるものではにゃーからな。

こういう無自覚なお歴々が無数にいらっしゃることを観察するに、やはりこうした問題においては、「自分にはホモフォビアの影響がある」ことを自覚し、発言の際にはそこに注意を払うことは重要だとあらためて確認した次第ですにゃ。

「みんなヘンタイ」について

さて、次に「みんなヘンタイ」についての疑義が見られたので、これについて。

id:y_arim gender, sexuality, LGBT, society
「みんな何かしらのオタクなんだから。おれサッカーオタクだしあいつ車オタクだし」といってアニメオタクに理解を示そうとする一般人みたいで嫌な書き方だな<みんなヘンタイ


id:kadotanimitsuru 性, 性別:秀吉, 差別
異性愛」「同性愛」という凄まじく大雑把な括りでしか発想できていないあたりが差別加担。ロリ好きと爆乳好きとの差異と、異性好きと同性好きとの差異とでは意味が違ってくる。問題は個人の嗜好でなく同調圧力


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20091119/1258597101


アニメオタク差別のある社会では、「みんな何かしらのオタクなんだから。おれサッカーオタクだしあいつ車オタクだし」とアニメオタクに理解を示されたら、それがpolitical correctであることをアタマで理解はしても心中では確かに嫌だろにゃ。
ところで
僕は一貫してホモフォビアホモソーシャルを表裏一体のものとして捉えており、その見方は別に僕のオリジナルというわけでもにゃー。性的マイノリティとして著述をしている日比野もフェミのバダンテールもいっていることだにゃ。そして、このホモフォビアホモソーシャルの表裏一体が、「ロリ好きと爆乳好きとの差異と、異性好きと同性好きとの差異とで」意味を違えるものであり、最初から「個人の嗜好でなく同調圧力」を問題にしているんだにゃー。
もっといえば、ヘンタイさんの多様性を複数箇所で明示して指摘しているのに、「凄まじく大雑把な括りでしか発想できていない」と妄想されても困りますにゃ。で、その妄想の果てに、「差別加担」ねえ・・・・(ためいき


僕にとって僕というニンゲンは特別ですにゃ。そして、「自分は特別」はお互い様にゃんね。いろんなヘンタイさんがあって、それぞれのヘンタイさんはそれなりに独自であるのは当然のことにゃんな。同性愛にしたって♂と♀では違いがいろいろあるだろうし、同性愛といっても広義にはバイセクシュアルやらインターセックスやらあり、さらにまたいろいろと多様な事例もあるだろうし、それらはみなそれぞれに独自性がありますにゃ。
僕や君が独自な存在でありながら平等であることに原理的に矛盾がにゃーように、それぞれの性的嗜好/指向は多様で独自でありながら平等であることはロジックとしておかしくも何ともにゃー。
特に、僕が政治的・社会的に主張しているのは異性愛特権の廃止であって、平等という名の押しつけを性的マイノリティに受け入れさせるものではにゃー。

多形倒錯

フロイトによる多形倒錯の理屈をすんごく粗く書くと

  • 幼児にも性欲があるのだが、幼児は身体能力的に性的不能者といえる。幼児は性欲をもつ性的不能者なので、いろんなヘンタイ行為で性欲を満たそうとする。したがって、ニンゲンはみな多様な(多形)ヘンタイさん(倒錯)として出発します。

と、こういうお話。
フロイトは家父長制の権化みたいに思われたりして悪口をいわれたりしているけれど、そしてその悪口はけっこうあたっている部分もあるのだけれど、ヘンタイさんには結構やさしかったりもするのだにゃ。多形倒錯理論もそうだし、当時同性愛者の患者に「自分がハッピーならいいじゃーん」みたいなことをいったりしているにゃ。つい最近まで同性愛が「治療」の対象だったのに、すんごく先進的なところがあるんだよね。


僕がガキのころに性欲があったということはよく憶えていて、その性欲はもっぱら「オッパイ」に向けられていたのだけれど、虫の脚をちぎったりカエルの尻にストローつっこんで膨らませて破裂させたりする遊びにも、陰惨な性的快楽があったようにも思いますにゃ。また、ドラキュラものがすんごく怖かったんだけど、あの吸血行為がセックスのメタファーであったことは5歳くらいで完璧に理解しており(セックスそのものはまったくわかってなかったけど、吸血行為のエロさはびんびんに感じていたということ)、ものすごく魅力的であるがゆえに怖かったという記憶もありますにゃー。
虫の脚をちぎったりカエルを破裂させたり吸血行為に性的興奮をおぼえていたヘンタイ幼児である僕は、ひとえにオッパイ様のお導きにより特に葛藤もなくヘテロ♂になったわけにゃんが、これはホントにたまたまだと思うのですにゃ。


というわけで、「みんなヘンタイ」というのは、戦略というだけでなく、事実としてもそうなんじゃにゃーのかと思っているんですにゃ。

無徴ということ


 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。

 民族は社会的に、歴史的に つくられたものだと いえば、自分たちは これまでどおり、名前のない「だれでもない個人(ノーバディ)」で いられる。無徴(むちょう)で いられる。


 多数派は、にげる。多数派には主体がない。名前を もたないから。いち個人でいられるからだ。多数派は、「わたし」でしかない。けれども、名前のある少数派を 非難するとき、多数派は、みずからの集団意識にであうことになる。ほんのすこし。ほんのすこしだけ。その名前は、「日本人」。


多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー


ホモフォビアと女性蔑視により、ホモソーシャル社会に参入すると、ヘテロ♂はそこで無徴となり個人でいられるわけですにゃ。だいたい、無自覚な異性愛者は自分のことを異性愛者とすら言わにゃー。「普通」「ノーマル」「正常」などと自らを呼ぶ。
そして、自らは名前のない存在=だれでもない個人となって、この社会がホモフォビアと女性蔑視を動力として組み込むホモソーシャル社会であることから目を背け、逃げるわけですにゃ。


それでも そこから にげようとするのは、「名前のない国民」か、「普遍的な存在」である。もちろん、普遍的な思想を もつのもわるくない。それも理想の ひとつだ。けれども、それは少数派には名前をつけたまま、自分たちは名前から自由でありたいという欲望だということを、わすれてはならない。


 わたしは、自由になりたい。だが、野蛮を かたる文明人には なりたくない。ここまで かいて痛感するのは、わたしは自由だということだ。


 だれかの不自由に依存した自由。それが、民族の名前のない「日本人」の自由だ。


多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー


「日本人」を「異性愛者」に代入してもだいたいそのまま通じる話ですにゃ。
そして
「だれかの不自由に依存した自由」を持つことは本当は極めて不愉快だ。なぜなら僕は自由であることを望んでいるから。


異性愛者という名のない多数派に名をつける必要があるのではにゃーのか? というのが僕の問題意識。

異性愛がヘンタイのひとつであれば、ホモフォビアも女性蔑視も多数派のヘンタイ嗜好/指向の押しつけでしかにゃーことが明示されにゃーかな、と。
また
名をつけるにあたり、「ぜんぶノーマル」、では同一性の圧力が働いて規範が押しつけられ、抑圧的になっちゃうんだよにゃ。このあたりのことはアドルノという人がいろいろいっていますにゃ。「ぜんぶノーマル」では、日比野も批判している「○○中心主義」から抜け出すことはできにゃーしな。


 「ホモも男なんだ!」と男社会のまっただ中で開き直ってカムアウトすることは「男らしさ」の押しつけに亀裂を生じさせる可能性があります。しかし「ホモも男なんだ」と懇願して男社会の仲間に入ろうとするのは、「男ジェンダー」による支配を一層強化することにしかなりません。それは、またしても自分たちで、まさに自分たちを苦しめていたホモフォビアや女性蔑視を再生産してしまう行為なのです。大切なのは、「男らしさ」によって得られる社会的なうしろだて、社会的な評価や承認などなくても自分が自分でいられるような仲間と自信と、生き方の方法や存在の仕方を身につけることです。社会的な異端者であるかもしれない「男らしくない男」のままで公然と開き直って生きる自信を獲得することです。「僕達も性的指向が違うだけであとは普通の男と変わらないのだから、男の仲間に入れてくれよ」と言うことではなく、「男らしさの押しつけなんていらないよ、私は好きに生きるわ」といけしゃーしゃーと言い切ってしまえるようになることです。


「男ジェンダー」とホモフォビア


最近は、性的マイノリティが自身のことを「ヘンタイ」「クィア」と肯定的に自己言及することも多くなっていますにゃ。否定的に使われていたレッテル貼りを肯定的に転化してしまうことはタフで結構なことですにゃ。
また、ヘンタイという言葉は性規範の押しつけを見事に拒絶した言葉でもありますにゃ。「男らしさ」の呪縛よりも、各々の好き勝手で多様なヘンタイワールドのほうがにゃんと自由で甘美なことか・・・。ホモソーシャル社会に辟易とした身として、性規範の押しつけを拒絶してひとつのヘンタイになりたいと思うわけですにゃ。
ただ
異性愛特権を保持したままでヘンタイを名乗るわけにはいかにゃーからな。ここはなんとかしにゃーとね。性的マイノリティのかたがたに、笑顔で「君も立派なヘンタイだ」と認めてもらうために、やるべきことはやらにゃーとな。数々の特権を享受するヘテロ♂は、自認だけではヘンタイになれにゃーとも思うのですにゃ。
美少女戦士とちがって、ヘンタイにはなれるかもしれにゃー。

トラバに応答

ここまでの記述は、上記のトラバに対する応答という意味合いも含めており、まあだいたい言いたいことはいったので以下はつまみ食い的に応答。


「御法度」は未見。しかし「戦場のメリークリスマス」は見ているので、「大島渚テーゼ」はわかりますにゃ。実は爺のプリキュアネタを書いているとき、「戦場のメリークリスマス」がアタマにあった。


「tikani_nemuru_Mさんは御自身の「ホモフォビア」について御自身で再三「確認」しておられるけれども、そういう話ではないと私は傍から思っていて・・・」
については書いたとおりですにゃ。
まあ僕は「自らが【異性愛者】であることについて不当に自信に満ち溢れている手合い」であり、ところがそこと「男性性」との乖離があるんですにゃ。それで「確認」が必要になっちゃう。


あの爺キュアはステレオタイプステレオタイプで代替して循環させ、何も変わることがにゃーというどうしようもにゃーネタで、まさに「出口も救いもない話」。
で、この救いのないネタはご指摘のとおり「「愛し合う代わりに殺し合わなければならない」男のオブセッションに辟易している」ところに根っこがありますにゃ。いままで好意的に読んでくれていた数人の方があのネタを拒絶したけど、そりゃ不愉快だろうな、と。僕だって辟易としているネタで、ただまあそれが僕にはオモチロイのだけれど。


斯様なオブセッションに対する忌避は、そのツケを空想の美少女に回して、そして彼女たちは殺し合う必要も秩序ある社会を作る必要もなくただ愛し合う。その「愛し合う」ことを、tikani_nemuru_Mさんは「目的とはあくまで友情そのものにある」「勝利だの目的だのに回収されにゃー関係」と表しているのだろう。そのとき性愛が回避されるのは、tikani_nemuru_Mさんがたまたま異性愛者だから――というのがtikani_nemuru_Mさん御自身による説明。


性愛は回避されてもされなくてもよいので、確かに「たまたま異性愛者だから」になっちゃうにゃ。むー。
ところで
引用した日比野の文章に「「私たち」が一緒にいるために必要な丁寧なコミュニケーションの方法。自分の話をするだけでなく、人の話や問題に関心を寄せることの重要性。」「多様な仲間と手をつなぐことの重要性」とかいっていて、日比野と僕は言説の好みが近いと思ったりしましたにゃ。
表現規制問題でも、このあたりの嗜好は明らかに影響しているよにゃ。まあ、こっちの話はまたゆっくりと。

*1:特に制度的なものには、異性愛中心主義、(ヘテロセクシズムheterosexismあるいは、ヘテロセントリズムheterocentrism)という用語をあてたほうがよいような気もするけど。くわしくは、http://d.hatena.ne.jp/discour/20070502 の本文記事とコメ欄を参照