男性ジェンダーと加害性


もともと韜晦フルチャージのネタから始まった話とはいえ、どうも韜晦のレトリックにばかりひっかかって論旨の理解をさまたげているようだ。よって韜晦抜きでまとめて、この件はとりあえずの終いとする。猫かぶり文体で書くと韜晦の磯の白浜で泣きぬれてカニと戯れることになるので、今回はにゃーにゃー言わない。
引用先は特に断らないかぎり、前回エントリにつけられたブクマコメ。

id:hituzinosanpo 社会
ひとつ疑問。インターセックスが同性愛と、どんな関係があると? そもそも「同性」って なんだろうねという文脈なら わかる。

異性愛中心主義の荒っぽく狭量な認識においては、性自認と身体的な性が葛藤なく一致し異性と性愛関係にあるもののみが「正常」とされ、それ以外は同性愛くらいの乱暴なくくりとなっているのではないか? LGBIT というけれど、それらの差異などおかまいなしに、みな同性愛くらいの認識がされているだろう。そこをもって「広義の同性愛」といった。
また
「おかま」という蔑称は「できそこないの男」という意味で用いられ、インターセックスを侮蔑するときに使われることがある。
まあ、この使い方に疑義があるのは当然だと思う。僕も書きながらひっかかり、しかしそのままあげた。

id:steam_heart
「変態になれるかも」とか思っている奴が変態になれることはない。諦めろ。


id:tatsunop society, 心理, 考察
みんな変態とか自分もなれるという話は、そうなってしまった本物さんにも失礼な話という気もするところ。

まず、性的な嗜好/指向において、「正常」の定義は実際に不可能であるといえる。どのような正常の定義をもちだそうが、それを無効化・相対化する知見は歴史学文化人類学社会学・心理学・医学・生物学などの諸学からもってくることはほぼかならずできるだろう。
事実と論理に基づいて問うていけば、人類普遍の「正常」などというものは存在しないのであって、そこにあるのは多数派のなんとなはなしの気分のようなものだ。であるならば、この時点で僕たち各々の性的嗜好/指向は「多形倒錯(=みんなヘンタイ)」ということになる。
つまり、事実としては僕たち各々は多様なる倒錯者でしかありえないのだが、その倒錯性が社会的・構造的に隠蔽されているということだ。「なれるかも」というのは、隠蔽構造を解体する希望だよ。

id:lisagasu
うーん…セクシャルマイノリティに笑顔で受け入れられることを目指すヘンタイってヘンタイなんだろうか…結果的にヘンタイ概念の殲滅を目指してる感が…うーん…

ここで僕が攻撃しているのは、あくまで「正常」「普通」「ノーマル」とされる名づけられざる曖昧とした何かだ。これを無徴という。無徴なるものは、自らの内部に潜在的にある多様性と異常性から目を背け、そして顕在化した「異常」を名を付けることによって排除しつつ、正常と普遍と共同の幻想を生きる*1
さて、
「正常」概念が解体された場合、その対概念である「ヘンタイ」も変質を余儀なくされるだろう。その意味では、確かにヘンタイ概念の変質を目指していることにはなる。「正常」に抑圧される日陰者マイノリティとしての「ヘンタイ概念」はなくしたいね。
セクシャルマイノリティに笑顔で受け入れられる」というのは、事実として何らかの意味で倒錯者であることをお互いに肯定的に認め合うことだ。

id:kadotanimitsuru 差別
多数者は存在自体が暴力。少数者必死のカムアウトもマジョリティが真似ると「だれかの不自由に依存した自由」そのもの。アイヌ対する他を大和民族なりと名付けても差別は消えず。差別の本質は名付けでなく規模の経済

別に誰もカムアウトなどしていない。誰でも倒錯者で自分もそうだというのはカムアウトとはいわない。
「差別の本質は名付けでなく規模の経済」ねえ・・・。「差別の本質」とはまた大きくでたものだが、単なる規模では人口の半分を占める♀が被差別マイノリティであることの説明がつかない。また、内部に多様性をかかえた多数者が、どのように少数者を排除するかのあり方として「名付け」を問題にしている。排除のメカニズムを考えているときに、まず多数者ありきの視点を語られても意味がない。

id:NaokiTakahashi
根本的に自分がマジョリティであるという確信の元に書かれている文章だよなあ。

「確信」などではない。被差別部落出身ではない日本人で健常者で葛藤のないヘテロ♂は、事実としてマジョリティだよ。僕としては何かを背負わされたような気がする事実だが。

id:letterdust
ゲイと疑われると職を失いかねない日本の「村社会」性批判は地下猫先生の得意分野なのに「美少女好き」をアピールしてまでゲイ疑惑を払拭しないといけない男性の大変さに涙した!

へ? 「美少女戦士になりたい」でゲイ疑惑を払拭できるの? そもそも僕にゲイ疑惑がかかってたの? それに、ここしばらく書いているのは、まさに「ゲイと疑われると職を失いかねない日本の「村社会」性批判」なんだけど・・・むーん。

id:inukorori 犬のメモ
変態だけどビョーキではない、と。そのこころは?//無関係ではないから、ホモフォビアだと「表明」することに無頓着なのが批判されてると思うのだけど。

多形倒錯が常態で、ノーマルなんてものがないからビョーキではない。
男性ジェンダーホモフォビアと女性蔑視が組み込まれているということが広く共有されていたら、「表明」は単なる無頓着だろうね。


id:WinterMute 差別, 性
無害な変態だけ仲間に入れてあげますよ、と書いてあるようにみえる。

実はこのブクマコメに応答したくてこのエントリをあげるようなもの。
まず
「無害な変態だけ仲間に入れてあげます」は、ある意味ソノトオリだ。正確には「無害なヘンタイの仲間に入れてください」なんだけどね。

ここでの「有害/無害」とは何か? 「他者危害」の有無だ。具体的・個別的な権利や自由の侵害を伴う性的嗜好/指向については、受け入れられることができない。


私的領域の極限である性において、他者危害原則をふりまわすことの欺瞞性はすでにsk-44に指摘されている。確かに、性の領域で何が他者危害かと線引きすることは無理だし、かりに線引きしても実効性などない。
とはいえ、強姦したいとか幼児と性交したいとか、はては快楽殺人やってみたいなどの他者危害判定「真っ黒け」の性的嗜好/指向もあることは事実。こういうのは受け入れようもないでしょ?


ただし、多数派というのは自分の気にくわないことをすぐに「秩序が乱れる」などといって排斥したがるけれど、こんなことで個々人の性的嗜好/指向がどうこういわれることに対してははっきりと反対。
このあたりのロジックは、表現規制反対のロジックと同じこと。


そしてもう1点。
♂同士の仲良しこよし・ホモフォビア・女性蔑視で駆動するホモソーシャル社会における欲望のあり方そのものが暴力的で他害的なのではないかと考えるのだ。
その典型に、戦時強姦がある。
上野千鶴子の手による文を引用する。


 戦時強姦が、しばしば他の仲間の面前で行われる公開の強姦であったり、仲間同士の輪姦であったりするのはなぜだろうか。ここでは性行為は、私秘性を持たない。彦坂諦は『男性神話』〔1991〕のなかで、男同士の連帯を高めるため、と答えている。こんな状況でも男は勃起できる生き物だろうか、と素朴な問いを立てる必要はない。こういう状況で勃起できることが、「よぉーし、おまえを男と認めてやる」ことの条件なのだ。こうして女を共通の犠牲者と化すことが、男同士の連帯のための儀式となる。


戦時強姦は、輪姦(まわし)と呼ばれる平時の強姦の延長上にある。思い出すのはスーフリ事件こと、早稲田大学のイベントサークル、スーパーフリーの強姦事件だ。わけあってスーフリのドキュメント〔小野2004〕を読む機会があったが、そこで述べられていたのは、次のような経緯だった。イベント打ち上げの飲み会につきあった女の子を、アルコールの強い酒のいっきのみの連続で泥酔させ、ほとんど意識がなくなった状態で、次々に仲間内で輪姦する。地方から上京した仲間にも、「いい思いをさせてやるから」と言って、「次はおまえの番だ」とけしかける。泥酔し、吐瀉(としゃ)物をまき散らし、意識を失い、反応しない女体に対しても勃起するほど、現代の若者の男性としての性的主体化は確立している、というべきだろうか。ちゃちな特権意識と、男らしさ、それに共犯性の共有から来るこのホモソーシャルな連帯を、上野ゼミでスーフリについてレポートを書いた学生は、「絶妙の労務管理術」と呼んだ。軍隊の労務管理術と、これはなんと似ていることだろう。


http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-2.html


御法度を生み出すもの - 地を這う難破船でsk-44は
「愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちの宿命」といった。これは爺のプリキュアを論じるにあたって適確だと思う。
しかし
ホモフォビアと女性蔑視が組み込まれた男性ジェンダーを俎上にのせたとき

  • 「愛し合う代わりに【ホモ狩り】をしなければならない男たちの宿命」
  • 「愛し合う代わりに【女を輪姦】さなければならない男たちの宿命」

というところに力点が置かれることになってくる。
大島渚がナルシスティックで暴力的なのは、男たちの殺し合いの哀しい宿命ばかりに目が行き、狩られたり輪姦されたりする側を見えてないだか見てないところにあるような気もする。まあ、映画をふだん見ておらず、大島渚作品もひとつしか見てないので的外れかもしれず、映画作品としてはそれでよいのかもしれないが。
何にしても、殺し合いの哀しい宿命に男たちは涙するかもしれないが、狩られたり輪姦されたりする側にとってはそんな涙はたまったものではなく欺瞞的だろう。
そういえば、「女性が巻き込まれる性暴力のような「些細などうでもいいこと」について考えたり時間を割いたりしなくてもいいということこそが、男の特権」、と前回引用したなかで日比野も言っていたか。


ジェンダーのあり方とは欲望のあり方でもあるだろう。
「男らしさ」を要求する男性ジェンダーは、こういう他者危害に結びつくような欲望のあり方をとるということになる。アタマを抱えたくなるよ。


ちょっと表現規制問題に寄り道すると、マンガだのアニメだのゲームだのより、こうした男性ジェンダーのあり方のほうがよっぽど性暴力や性犯罪に結びついているじゃないか、と性道徳家や政治家のお歴々にはいいたくなる。
一方、
表現規制反対の側で、「女性が巻き込まれる性暴力のような「些細などうでもいいこと」について考えたり時間を割いたりしなくてもいいという男の特権」と「二次元無罪」「表現の自由」あるいは「陵辱の自由」が結びついているとしたら、これもたまったものではない。


話をもどす。
上野が戦時強姦について「ここでは性行為は、私秘性を持たない」と指摘しているのは重要だ。秘め事でない性行為で自分の「男らしさ」を証明し、ホモソーシャル社会において一人前と認められる、というこの構図は、例えば「結婚して家庭をもって男は一人前」などの言説に直結していく。
結婚するだけで、なぜか社会的信用が増すことになっており、実際に借金する際の与信枠が広がったりする。これはたくさんある異性愛特権のひとつだが、性的マイノリティは、こういうところでもいちいち不利益を被っているわけだ。


多形倒錯という言葉を、さまざまな性のあり方の【私秘性】のことだと肯定的に読み替えたい。ホモフォビア異性愛中心主義こそが性の【私秘性】を奪い同調圧力をあたえる。【私秘性】をうばう性の同調圧力の結果こそが、公然とした売春買春ツアーでありスーパーフリーの輪姦であり戦時強姦となってあらわれる。
これは「有害」だと思うね。


以上、
僕のいう「無害」というのは、具体的個別的な他者の権利や自由を侵害せず、性における私秘性を奪わないもののことだ。

*1:共同性が無徴の温床でもあることは、もちろん僕も理解している