異性愛というありふれたヘンタイ(再追記アリ


前回・前々回のエントリにid:otomoから

という批判をいただいたので応答しておく。
できのよくない話をネタとして繊細さを欠く記述をすると、あとあと面倒なことになるな、我ながら。まあ自業自得だ、仕方ない。

異性愛に悩む秀吉

まず、性的な嗜好/指向には正常だのノーマルだのといったものはないと考える。具体的な他者に直接危害を与えるものでない限り、どのようなヘンタイさんが何をして満足をえようと、どのような性的な嗜好/指向に拘泥しようと、第三者も社会もクチバシをつっこむべきではない。
このあたりは基本のキの字だね。


ところが、どうも性について社会はクチバシをつっこみたがる。
例えばプルタルコス*1「愛をめぐる対話」から、当時、異性愛についてどんなことが言われていたかちょっち拾ってみよう。

愛をめぐる対話 (岩波文庫 青 664-2)

愛をめぐる対話 (岩波文庫 青 664-2)

「好色と無節制、このうえなく恥ずべき振舞いと感情に溺れながら、最も美しくかつ神聖な名、すなわち愛を僭称している」
「本当の愛は女性たちとは何のかかわりもないものなのだ。ぼくに言わせれば、婦人や娘を愛すると君が称しているのは愛なんていうものじゃない。蝿が牛乳にたかるのは、牛乳を愛しているからじゃない。」
・・・ははあ、異性愛とは、このうえなく恥ずべき振舞いで、蝿が牛乳にたかるようなものですか・・・・ぶーん。女性憎悪もなかなかのもんですな。


こういう社会で、同性を愛せない♂はつらかっただろうねえ・・・
そういえば、日本の戦国時代なんかも同性愛賛美がされていたわけだが、そういう社会でかの太閤秀吉は悩んでいたと聞いたことがある。
「俺、どうしても女のほうがいいんすけど、ぶっちゃけ男は嫌なんすけど、これって生まれが卑しいからっすかね?」
ってな具合に。
うむ、秀吉はいろいろとキライだけど、ここに関しては共感しちゃうぞ。僕もギリシアやローマ、あるいは戦国時代に生まれたら、こういった悩みを持ったかもしれない。


異性愛が正常で同性愛がヘンタイだとか言っている連中は、たまたま古代ギリシアやローマ、戦国時代なんかに生まれなかったからそういう能天気なことをいっていられるだけかもしれないし、こういう社会に生まれたら美少年のケツをおっかけていたかもしれないのだが、まああんまりそういうことは考えないヒトタチは多いのだろう。

性的な指向性には忌避がつきまとう

さて、思考実験です。
現代社会が同性愛賛美の社会であったとしよう。そうした同性愛賛美社会において
「私は同性と性交渉なんて寒気がする。異性相手でなければ嫌だ」
ホモフォビアっぽい発言をしたとしても、発言者の性的嗜好/指向はもちろん尊重されるべきだろう。では彼の性的嗜好/指向が尊重されるべきであるのは、彼がマイノリティに属するからだろうか?
あるいは、こうした社会において
「私は異性との性交渉なんておぞましい。同性相手でなければごめんだね」
と発言したものがいたとして、発言者はマジョリティであるから非難されなければならないだろうか?


性についてのマジョリティがどういうものであろうとも、他者に自らの性的嗜好/指向を押しつけないかぎり、自らの性的な嗜好/指向は責められるべきものではない。僕たちの社会は、たまたま異性愛が幅をきかせているわけだが、だからといって個人がホモフォビアの感覚を持っていることは非難の対象にはならない。


そもそも、性的な指向性に偏りがあるので、同性愛者あるいは異性愛者になるわけだ。性対象における性別の偏りがなければバイセクシュアルになるのだろうが、バイはバイで自分なりの好みというものはあるわけだ。で、指向性があるということは、特定のタイプとはセックスしたいが、ほかのタイプとはセックスしたくないということになる。つまりあるタイプへの「忌避=フォビア」があるわけだ。
つまり
特定の性的対象への嗜好/指向があるということは、多くの場合、その裏側に「忌避=フォビア」が同時にあるのだということになる*2。同性との性行為に何の忌避感もない異性愛者というのは稀だろうね。


無論、そうした忌避感が強い場合もあろうし、そうでない場合もあるだろう。僕はその手の忌避感が強いことを自覚しているので、自分にはホモフォビアがあると言っているわけだ。まあ、言わなくてもよいことだったかもしれないが。
ここで重要なのは、特定の性的な嗜好/指向に忌避感を抱くことそのものを否定することは、性的な嗜好/指向を否定することになってしまうということ。だから、特定の「忌避=フォビア」を悪と断ずることはできないということとなる。


とはいえ、現代社会でホモフォビアは誉められたことではない。それはなぜかというと、異性愛者が多数派として、少数派である同性愛者やバイセクシュアルを弾圧するからだ。政治システム、法システム、社会システムなどのいずれも異性愛者を基準としており、同性愛者などのマイノリティを排除している。何だって僕が自分自身のホモフォビアに恥辱を感じなければならないかというと、それは異性愛者によるマイノリティへの弾圧が日常茶飯事で行われている社会だからなのだ。

みんなヘンタイだー

僕自身は異性愛者なのだけれど、そんなのはたまたまそうであったにすぎない。生まれつきなのか社会的に構築されたものなのかはともかく、異性愛者で同性との性行為を忌避するという嗜好/指向を変えろといわれても困る。性的なアイデンティティというのは、それなしには自分ではないと感じられるものであり、そうでなければ同性愛を「治療」して異性愛にすることは簡単なことだろう。
「なんであんたは異性愛者なのさ?」
と聞かれても、
「よくわからんけど、気がついたらそうだったんですにゃー。」
としかいいようがない。多くの同性愛者やバイセクシュアルとその意味では同じこと。自らの性的嗜好/指向というのは、気づいたらそういうことになっていたもので、しかもどうやらなかなか変えられないものであるらしい。



異性愛にしても同性愛やバイセクシュアルにしても、自分でもよくわからんのに気がついたらそうなっていたというだけのものなのに、そのひとつが正常とされ、それ以外が異常とされて排斥されるのはおかしな話。
ならばみんな「正常」「ノーマル」というべきかというと、そうとも思えない。


だってさ、異性愛者だろうが同性愛者だろうが、はたまたバイセクシュアルであろうが、セックスのときにはろくなことしてないだろ? よくわからん些細なところに拘泥して一喜一憂したり好き勝手なことをぬかしたりしているはずだ。ものすごくヘンタイ的に鬱屈したり屈折したりの結果、最終的な現れとしてたまたま異性愛というパターンも結構ありそうな気がするし。
「我がセックスこそ、ノーマルでオーソドックスでカトリックでスパルタンなのであり、全人類は我のするとおりに前戯やら腰遣いをしなければならないのだあああ!」
とかいえるお方、いる? それこそタイヘンなヘンタイだよな。


「同性愛やバイセクシュアルもノーマル」
なのではなく、
異性愛だってヘンタイ」
だと僕は考える。僕のような異性愛者の成人女性大好きというのは、有り体に言えば「もっともありふれたヘンタイ」ということになるだろうか。実にこうツマラナイ存在なのだが、まあ仕方ありませんな。


というわけで、問題は、自分たちだってヘンタイ(しかもありふれたヘンタイ)のくせに、たまたま多数派の嗜好/指向をしていたという理由で正常だのノーマルだのと思うことこそ、笑止! 異性愛ヘンタイは威張るなよ、と。
ヘンタイはヘンタイ同士、仲良きことは美しき哉


政治的な主張としては、異性愛特権を全面的に否定すると同時に、異性愛もヘンタイのひとつだと認めていただきたい、とヘンタイの皆様にお願いしたいところです。

では応答


以上を前提にしつつ、応答させていただく。


このエントリー関係の話題を読んでいて、すごく疑問に思うのは、id:tikani_nemuru_Mさんが「ホモフォビア」という言葉を使っていながら、彼が「♀同士」がごく自然に触れあう世界では「ホモフォビア」は発生しないという前提で語っていることです。

そんな前提はない。
異性愛者の爺の脳内では、「♀同士」がごく自然に触れあう世界では「ホモフォビア」は発生しないという前提ならあるが。


ここからは根本的な疑問を書きますが、tikani_nemuru_Mさんが理想とする物語にレズビアンやゲイが登場しないのはなんでだろうと思うのですよ。

まず、理想世界でもなんでもない。「美少女戦士になりたい願望」はあるが、あれはその願望そのものをネタにしたものだ。
つぎに、確かに典型的なレズビアンやゲイは登場していない。だが、その精神における性と、変身後の身体的な性が、乖離するどころかぶっとんでしまうのがこのネタの主人公だ。性自認と身体的な性がかけ離れており、しかも自分でそれをよしとするという立派なヘンタイさんだ。
登場人物は3人しか想定されていないが、その3人が典型的な同性愛者ではなく、屈折したヘンタイさんだということで非難されるのはまったく理解できない。
例えば、リアルにおいて「身体的な性は♂だが、♀に性転換して♀と同性愛の関係になりたい」という欲望のもとに性転換するヘンタイさんもいるようだが、これは典型的な同性愛の範疇には入らない。爺の美少女戦士はこれに近かろう。
こうした欲求に「異性装」など他の条件も加味していくと、きわめて多様なヘンタイさんワールドが現出する。もちろん、さきほど述べたように成人間の異性愛もヘンタイのひとつであり、互いにハッピーな関係をつくる限りはどんなヘンタイも平等だ。こういう世界は僕の理想とするところだね。
ただし、こういう世界では、「典型的な同性愛者がでてこない」とか「典型的な異性愛者がでてこない」などという文句をいちいち言っていられないだろう。ヘンタイさんが多様すぎて、そんな文句は意味がない。


率直に言って、セクショアリティ関係の用語の使い方が変だなという印象を持ちました。
ホモフォビア」や「ホモソーシャル」という用語は、本来はゲイやレズビアンなどのセクシャルマイノリティの問題を解決するために作られた用語でしたよね。「ノンケ男性の老後」などというマジョリティの悩みを解決するために作られたものではないですよね。


中略


この物語の中に「ホモフォビア」や「ホモソーシャル」という用語の主役であるレズビアンやゲイなどのセクシャルマイノリティがどこに登場するんですかね?そこに登場しないそのセクシャルマイノリティを救うためにその用語は作られたんじゃないですかね?

「「ホモフォビア」や「ホモソーシャル」という用語は、本来はゲイやレズビアンなどのセクシャルマイノリティの問題を解決するために作られた用語」だとして、もともとそういう用語だったから、ヘンタイさんとか生きにくさを感じている♂のために使ってはいけないということだろうか? 例えば男性学において、ホモフォビアとかホモソーシャルとかいう用語をつかって分析することはまずいだろうか?
そんなわけねえと思うんだけど。
生きにくさを感じているすべてのヒトのために、こういう分析装置があるんでないの?

追記 約一時間後

さて、最近の本ブログのネガコメ常連であるお一人から、さっそくネガコメをいただきました。

id:letterdust
「ブラックイズビューティフル」が必要な社会で「白人は醜い」と当の白人自身が言ってもファッションパンクぽい何かになる件。

まったく読めていないようです。
僕の記述にこの比喩を当てはめれば
「すべての人種は醜い」
となるでしょう。
もちろん、「すべての人種は醜い」は僕のいいたいことではありませんが、それはもとの比喩が不適切なためですな。


ちゃんと読めたうえでのネガコメは歓迎して応答いたしますが、このレベルの「ためにする」ネガコメは放置させていただく。それほど暇でもないので。

再追記でブクマコメにいくつかに応答 20日11時頃


id:harutabe
「自分のヘンタイは特別」と「ヘンタイは平等」とは矛盾しない。harutabeの感覚とこのエントリ内容とは矛盾してないと思うよ。このエントリでは、相互理解をすすめているわけでもないし棲み分けと不干渉を否定してもいない。
ところで
表現行為はこうした棲み分けや不干渉に少なくとも流動性を与える側面があるものだよね。


id:inukorori , id:GEGE
指向性とは偏りそのものだから、自分の好みでないものを忌避すること自体は自明。無論、忌避の強さはさまざまだろうけれど。
♂のホモフォビアの特別な点は、自分自身が♀に対してもっている視線をホモセクシュアルに投影してしまっているところだろう。自分が♀に対して「加害」的な見方をしていることの裏返しで、同性愛者が♂である自分に性的な「加害」をしてくるのではないかと恐れるのではないだろうか。つまり、自分を襲うかもしれないセックスモンスターとしてホモセクシュアルをとらえている。
無論、これは妄想というほかないのだが、たとえ妄想とわかっている場合でも「わかっちゃいるけど、やめられない」つまり理性的には理解していても感覚的な忌避感が残ってしまうのが、こういう話の厄介なところ。
こうした、♂の視線をマイノリティにかってに投影して怪物化する例として、セックスモンスターとしてのレズビアン、という類型もあるだろね。

*1:プルターク英雄伝、のプルタークとはこのプルタルコスのこと。1世紀のローマに生きたギリシア人著述家。この人の本はネタの宝庫です

*2:もともと〜フォビアというのは、〜の忌避、くらいの語感だったように思う。あまり自信はないのだが。〜嫌悪というとヘイトになっちゃうしな。以下追記:2009/11/20 10:04 てつ氏のコメントで指摘されましたが、フォビアを忌避と訳すのは不適当でした。勉強不足というだけでなく、調べもせずに言説を公開したことを恥じます