陵辱表現が問題とならない社会を

陵辱ゲーの存在を許さない社会?

id:hal9009
でも元々は一人一人が良識を持つことで陵辱ゲーの存在を許さない社会を作りましょうみたいな話だからなぁ
はてなブックマーク - はてなブックマーク - 「表現の自由」が必要とし、受容すべきもの - 地下生活者の手遊び


いや、そこがそもそも誤解されていますにゃ。
理想的状況として「一人一人が良識を持つこと」が実現したら、陵辱エロゲは何の問題もなくなる、ということになるんでにゃーのかな。まあ、年齢制限は必要だからゾーニングもなしってわけにはいかにゃーだろうけれど。


レイプレイ問題で性犯罪被害を受けたことのある方が発言しているけれど(リンクはしない)、こういう発言に対し「男性が犯されるゲームもありますが、男として別に脅威は感じませんよ」などというコメントがつけられていますにゃ。僕も♂だけど、確かにそんなゲームがあって売れていても何の脅威も感じにゃーですね。40代♂を狩って犯して殺すゲームがあっても、別に僕は脅威を感じるわけではにゃー。これは多くの♂も同じ感覚だと思われますにゃ。


なぜ僕がそういう表現に何の脅威も感じにゃーかというと、それは現実にそういうことが起こるということがほぼ考えられにゃーからだ。リアルワールドにおいてそういう危険性を感じにゃー。
例えば、飲み屋で知りあったヒトが面白そうな奴で、そいつの家に飲みに行ったら「ついてきたってことは、そういうつもりだったんだろがー」とか言われながら犯されて、被害者として届け出ると「オマエが誘ったんだろ」などといわれ、裁判でもさらしものになり、周囲からもいろいろな嫌がらせを受けるということが現実の危機としてある世界に住んでいたら、こういう表現には脅威を感じるでしょうにゃ。


つまり、陵辱表現が脅威となるのは、陵辱が満ちあふれている世の中に住んでいるから、ということになりますにゃ。
陵辱表現が問題なのか、性犯罪に満ちあふれた世の中が問題なのか、という問いを立てれば、もちろん性犯罪に満ちあふれた世の中が問題である、と答えますにゃ。
ここが基本。


極端な話、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現(ある種のポルノ)は「完全なるフィクション」「思考実験」となり、誰も具体的な脅威を感じることもなくなり、何の問題もにゃーわけだ。不道徳とかいう批判なんざ知ったこっちゃにゃーしな。
これが理想。もちろん理想は理想。
「陵辱ゲーの存在を許さない社会」などという 、ホーケイ野郎の言い出しそうなイカ臭い社会なんてものは真っ平御免かわかむりだにゃ。

それはフィクションではない

犯罪の被害者において、とくに恒常的な被害を受けている性犯罪の被害者において、感情の救済を他者に求めるのは当然のことですにゃ。陵辱表現というのは、単なる不快感にとどまるようなものではにゃーだろう。
被害者の感情が無視されるようであれば、被害者は自衛に走るしかにゃー。表現の自由よりも自衛を選ぶヒトがでてくるのは避けられにゃーし、責められにゃー。


性犯罪被害者が陵辱表現に対して感じることは、「それは私にとってはフィクションではない。それは私が現にされたことだ」になると考えられますにゃ。陵辱というのは極めて類型的な行為にゃんからな。
「自分が現にされたこと」が商品として流通し娯楽的に消費されている事態を考えてみれば、それが耐えがたいことであるのは容易に想像できるはずですにゃ。
陵辱表現を問題視する被害者、あるいはそうした被害者に同調する人たちがでてくるのは当然のことですよにゃ。

  • 性犯罪が蔓延する社会において、純然たるフィクションとしての陵辱表現はありえない

という主張になるわけですにゃ。性犯罪が蔓延する社会では、陵辱表現の存在が問題ということになってしまう。なぜならそれは「現に私がされたこと」だから。
そして、被害者が陵辱表現に対して抗議をするエントリを書くと、コメ欄での応答において「二次被害」が繰り返されるといううんざりした話までついてくるのだにゃ。ますますフィクションどころの話ではにゃー。
「それはフィクションではない」はいいがかりでもなんでもにゃーな。



陵辱表現がフィクションでなくなってしまうから、陵辱表現が問題となるわけだにゃ。つまり、純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたいのなら、陵辱表現が純然たるフィクションになる社会になればいい。
もちろん、性犯罪が根絶される社会などニンゲンがニンゲンである限りありえにゃーだろうけど、社会意識のありようで発生数を抑えることはできますにゃ。Gazing at the Celestial Blue 国連・女性差別撤廃委員会が日本政府の取り組みを審査←なんてのも、性差別意識と密接な関係のある話ですよにゃ。また、性犯罪のダメージを何倍にもする二次被害・三次被害はさらに社会意識に拠るところが大ですよにゃ。


それが社会意識に多くを負う以上、性犯罪数を減らすことはできるし、二次被害・三次被害をなくすことだってできる。


共通の敵

なぜ差別がいけにゃーのか?
いろいろと理由はあるだろうけれど、表現の自由との絡みで言えば

  • 差別があると好きなことが言えない

からだにゃ。「表現の自由を脅すもの」の主張を全面的に認めたとして、それでも日本の健常者ヘテロ♂にたまたま生まれた者として、被差別マイノリティへの配慮をやめることはできにゃー。科学的事実についての話題であれば、配慮も何もにゃーだろうけれど、社会的価値が議題となったとき、被差別マイノリティへ配慮しにゃーことは僕にとって苦痛だ。
しかし
ぶっちゃけていえば、いちいち配慮するなんてメンドクセエってのも事実。言いたいことは好きなように言いたいし、思いついたネタは何でも口にしたいにゃ。表現者ならなおさらだろ。
差別がなくなれば、その関連ではなんでも好きなことがいえるのではにゃーのか?


繰り返すけど、差別の根絶はまあ無理だろ。歴史的経緯もなかったことにはできにゃーしね。しかしやわらげることはできますにゃ。
そして、
差別が弱められるほど、表現の自由は原則的に*1増大していくのではにゃーのか? こういうものは、オール・オア・ナッシングではにゃーのさ。


しかし、こうした考え方を真っ向から否定するお歴々がいることはわかっていますにゃ。例えば、在特会などのヘイトスピーカーは、差別的言辞を垂れ流すために表現の自由を掲げますにゃ。他者、往々にして弱者である他者を侮蔑するために表現の自由を主張する彼らの言い分は、典型的には↓のような感じになるでしょうにゃ。

id:tari-G
しかし「自由のタダノリ論」には最初から衝撃的なめまい。そもそもフリーってタダなんだよ(笑)アホか。


id:kadotanimitsuru 表現の自由, 宇宙の戦士
表現の自由を食いつぶしている』それはおまえだwww 表現の自由はそれを大事にしようが蔑ろにしようか保障される「基本的人権」だから意味がある。「タワゴト」を言い続けることが表現の自由への最大の貢献。


http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090723/1248279927


ま、引用した彼ら自身がヘイトスピーチを垂れ流しているということはにゃーだろうけれど、その発言においてまさに「ヘイトスピーカーのエサ」としかいいようがにゃーわけだ。豚のエサね。


ヘイトスピーカー表現の自由にただ乗りして差別的言辞を垂れ流し、表現の自由を脅かす。彼らの目的は差別することにあるからだにゃ。
しかし
例えば純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたいヒトにとって、現実に性犯罪をおこすことも♀を脅すことも問題外と思っているヒトにとって、こうした悪質な表現の自由へのただ乗りは迷惑千万億兆京垓になるのが道理ですにゃ。


さらにいえば
表現を大切にし、表現の自由を大切にすると公言するのであれば、表現の自由を増大していくという責任があるんでにゃーの?
だったら差別の解消こそが、表現の自由を守り、増大するための最適解にならにゃーのか?


僕が差別問題へのコミットを求めるのは、それが表現の自由にとって「も」大きな利があるからだにゃ。エロゲ作者やファンにとっても、性犯罪被害者・潜在的被害者にとっても互恵的な戦略を提示しているのだにゃ。
この考え方で不利益を被るのは差別主義者だけ。
性差別が弱まり、性犯罪被害が抑えられ、二次被害・三次被害がほとんどない社会においては、陵辱ゲーはまっとうなフィクションとなり、表現するほうもやりたい放題やっていただいて構わにゃーと僕は考える。この問題をおっかけてきた女性陣がどう思うかはよくわかんにゃーので感想を聞きたいところだけど。


差別は人間の自由を否定する。
そして、表現の自由とは人間の自由のことなんだにゃ。
表現の自由と人間の自由は、最終的には矛盾するわけがにゃー。
表現の自由と人間の自由が矛盾するというのは、差別主義者のゲロ臭いウソだ。
表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ。
表現の自由のためにこそ、差別問題へのコミットが有効なのだにゃ。


以下応答


「ある種のポルノ」の存在そのものが問題である、と考えておられることはわかります。


自由の核心にあるもの - 地を這う難破船


いいえ。
僕が問題としているのは

  • 「ある種のポルノ」の存在そのものが問題となってしまう社会

のほうですにゃ。陵辱表現がヘイトスピーチとして機能してしまう社会を問題視しているのだにゃ。だから、性犯罪の暗数を持ち出している。


社会思想としての表現の自由とその危機を表現の貴賎を通して論じる、その時点で事実上の規制論です。社会思想としての表現の自由を危機たらしめるほど賎しい表現がある――そのような話を「ある種のポルノ」に仮託して展開しておられることがわかっていますか。



ついでにいえば、
表現に貴賎があるという感覚そのものを僕は持ってにゃーです。ニンゲンに貴賎はあっても、職業や表現に貴賎があってたまるかー。




id:takanorikido
このエントリで最初の「前者・後者」の質問へのお答えになっていると思いますにゃ。記述に問題があったことは認めるけど、当初から基本的にこのスタンスだよ。最初に「人権侵害と認めることからはじめよう」とだいぶ乱暴に書いているけど、人権侵害だけど法で規制する話ではないということも明確にいっているだろ?


「タテマエ上〜」について補足すると
自然科学においては価値も感情も問題とされにゃー。いかに憎しみ合っていようが、傷つこうが、科学においては感情の手当ては問題とされにゃー。だからこそ、平気で憎しみあうことができるわけだにゃ。どんなに憎悪しようが、科学的手続にのっとりさえすれば研究の質は落ちにゃーからね。科学においては、憎悪は致命的要因などではにゃー。それどころか、その発達を促進さえするよにゃ。だから科学における憎悪は放置してよい。
だけど、憎悪を放置することが致命的である議論の分野もあるということ。そして、感情の手当てが厳密さよりも優先されるなければならにゃー場面もあるってこと。

*1:一時的に揺り戻しがあることは想定できる