倫理的に間違うことは誰にもできない


前回の続きですにゃー
トラバ、コメント、ブクマコメが大量にあるので、それぞれに逐語的に言及することは控えますにゃ。無理。とりあえず、一般論としての「良心」の話をすることにしますにゃー。
ざっくりといくので、いろいろとりこぼしがあるかもしれにゃーけどご容赦くださいにゃー>みにゃさま

良心と不寛容

とりあえず引用先をご覧いただきたく。

上記記事は、ハーバード大心理学教授、Steven Pinker(スティーブン・ピンカー)がニューヨークタイムスに書いた、道徳の認知科学についての記事を紹介したものですにゃ。原文はこちら


良心に訴えかける議論というものは往々にして偏狭になりやすいものですにゃ。リンク先から引用すると


 道徳のスイッチが入ると、正義感や怒りがこみあげてきて、他人にある状況を喧伝したくなる(自分一人で抱え込むのでは我慢できなくなる)。心理学者のPaul Rozinは面白い研究を行った。自らの健康のためにベジタリアンになった者と、生物を殺すのは許せないといった倫理的な観点からベジタリアンになった者とを、比較したのだ。倫理的ベジタリアンは、スープにたった一切れ牛肉が入っているだけでも嫌がるし、他の人々もベジタリアンになるべきだと考える傾向が強かった。


 つまり、同じ結果を志向していても、プラグマティックな観点からある行為や思想を好むのと、倫理的な観点からある行為や思想を好むのは、心理メカニズム的にもまったく異なっている。Paul Rozinは喫煙問題を研究して、こう述べた。「喫煙問題は、純粋に体に悪いといったプラグマティックな観点を超えて、最近モラル化されている」と。吸うこと自体が汚らわしいとされる時代になってきた。道徳的思考モードで扱われるから、タバコ会社は執拗に(懲罰を受けるべきだと)攻撃されているし、喫煙者にとっては非喫煙者の言動の一部が「禁煙ファシズム」のように映ってしまう。このように、かつてはプラクティカルな問題だと扱われていた事柄の多くが、現在、道徳問題として扱われている。アメリカにおける食べ物と肥満の問題だって同様だ。また同時に、多くの行動は、モラルの問題からライフスタイルの問題へと変換されてきた。たとえば、離婚、マリファナ、同性愛など。離婚や同性愛と聞くだけでイライラして拒否反応を示す人は減ってきたが、これは喫煙問題に対する心理の裏返しなのだ。


僕たちはライフスタイルについては寛容にゃんが、モラルには厳しい生き物みたいにゃんね。タバコは昔はライフスタイルの問題だったけれど、今はモラルの問題とされているし、離婚や同性愛なんかはモラルの問題だったけれど、ライフスタイルの問題と捉える人が昔よりは今のほうが増えているようですにゃ。
何にしろ、道徳や良心の問題として自分を正当だと考えてしまうと、自分に対立する他者に耳を貸さなくなるという傾向は確実にあるのではにゃーかな。



ポルノにせよ陵辱表現にせよ、はたまた「非実在青少年」相手の性的妄想にせよ、これらは根本的にはモラル・良心の問題ではなく、「ライフスタイル」の問題と考えますにゃ。ライフスタイルの問題ってのは、言い換えれば私的領域における愚行であるということにゃんな。
もちろん、
「現実に性差別や性暴力が蔓延している社会において、性暴力の娯楽的消費が単なるライフスタイルの問題で済むわけねえだろ!」
というツッコミには一理も二理もありおりはべり三里塚なんだけど、ここではあくまで原則的なことをいっているのですにゃ。

○○フォビア

例えばホモフォビアってのは、同性愛をライフスタイルではなくモラルの問題とみなすこと、と言いえるかもしれませんにゃ。この理屈では、ゼノフォビアってのは外国人を道徳的に劣悪と思いこんじゃっていることといえるでしょうにゃ。当然ながらポルノフォビアというのは、ポルノをライフスタイルではなく道徳的な悪とみなすことといえるでしょうにゃー。「萌え表現」に対する道徳的嫌悪だったら、萌えフォビアですにゃ。ジミントーの山谷えり子大先生なんかは、典型的なポルノフォビアで萌えフォビアなんだろね。


ところで、リンク先にもあるとおり


人々は無実な人間を乱暴に扱うことに強い拒否感を示す進化的傾向を持っており、この本能は功利的(合理的)な計算より圧倒的なものであると。


実在する何の咎もにゃーガキを食い物にする児童ポルノに道徳的嫌悪を感じること自体は至極真っ当なことですにゃ。児童ポルノは僕も胸くそがワリイ。
しかし
フィクションとわかっている表現に対して同種の胸くそ悪さを感じることは、少なくとも僕はにゃーですね。陵辱表現だって同じこと。趣味があわんと思うものは多々あるにしても、リンク先にもある通り「「好みにあわない」「古くさい」「軽率だ」と感じるときの心的状態と、「非道徳的だ」と感じるときの心的状態は、まったく異なっている。」わけでしてにゃ。
もちろんこんなことを言っていられるのは、僕が健常ヘテロ♂だからかもしれにゃーですね。性暴力が蔓延している社会で、特に被害者においては陵辱表現に道徳的な嫌悪感を感じるのはアタリマエ。


でもさー
それって、性暴力の被害者は陵辱表現フォビアに追い込まれている、ともいえるのではにゃーだろうか?
性暴力の被害者をセカンドレイプサードレイプで徹底的に追い込んで、性的な表現への道徳的嫌悪に追い込むのは、ポルノフォビアの連中にとってはずいぶんと都合のいいことなのではにゃーのかな? と、これは宗教権力の古典的な手法にゃんぜ。


性表現や残酷表現の流通においてゾーニングは必須としても、それはモラル・道徳的嫌悪に拠るものではなく、ガキや心の弱っている人を保護するパターナリズムに根拠をおくものでしょうにゃー。仮に社会の成員すべてが自立・自律した個人であるのならば、ゾーニングなんざいっさい必要にゃーのよ。形式的な論理としては、「甘え」を求めているのは実は表現規制を推進する側のほうなんですよにゃ。
そもそも権力が存在することを容認すること自体がパターナリズムに根拠をおくとすらいえるのではにゃーだろうか? 教育や医療においてはパターナリズムが必須だと考えるし、そこに権力が介在しなかったらパフォーマンスは著しく落ちてしまうのではにゃーかと思う。


脱線ついでに言っておくと、「表現の自由」は前回書いたとおり、基本的には手続きでありツールであると考えるけど、これを道徳的に解釈しちゃっているお歴々もいるんではにゃーかな。いうなれば規制フォビア。


道徳感情を軽視するつもりは毛頭にゃーが、道徳感情とそこからくる嫌悪感を前面に押し出してしまっては歩み寄りなんざ不可能だにゃ。フィクションの陵辱表現を消費することは、例えば僕の基準ではなんら「良心」の問題ではにゃー。
心の問題に逃げ場はなく、何ら良心に抵触してにゃー者をつかまえて良心の問題だとか抜かすのは、ヤクザどころの性質の悪さじゃにゃーぜ。

良心は普遍か?

さて、リンク先後半では「道徳は、いかにして普遍的であると同時に(文化によって)様々なカタチを取ることができるのだろう?」という話をあつかっていますにゃ。


 心理学者のJonathan Haidtや文化人類学者のRichard ShwederとAlan Fiske によれば、道徳的思考モードが喚起される(進化的に備わった普遍的な)条件は、次の5要素に集約されるそうだ。この5つが道徳性を支える進化的・認知科学的要素であり、これらの要素が犯されたときに道徳的思考モードが立ち上がり、人々は怒り狂いはじめるという。


1.Harm(他人を害するのは良くないこと/他人を助けるのは良いこと)
2.Fairness(親切にされたらお返しすべし/利他的な者を褒め、裏切り者を罰するべし)
3.Community(集団への忠誠を誓い、一致団結し、集団の規範に従うべし)
4.Authority(合法的・正統的な権威に従うのは良いことであり、高い地位の人間を敬うべし)
5.Purity(清らか・清潔・神聖なるものを賞賛し、汚れたもの・汚染されたもの・肉欲にまみれたものを嫌うべし)


これらの5つの変数は、「1.通文化的に心理学実験で確認されており、2.文化人類学的な文献のレヴューを行っても破綻しないことから、ある程度は実証的に確認されたといえるだろう」とのことですにゃ。そして、これらの変数のどの要素を重視し、どの要素を軽く見るかで政治的・倫理的な立場が変わってくるということのようですにゃ。


 Haidtによれば、道徳性の普遍的な5要素のうち、どれをどのくらい重視するのかによって、アメリカにおける<リベラル派/保守派>という対立軸が生まれてくる。たとえば同性愛や無神論や人種問題といった、リベラル派と保守派がいがみあう論点の多くは、(道徳の5要素の)どの要素にどれくらいの重み付けをしているかを反映しているのだ。リベラル派は1.Harmと2.Fairnessを重視し、3.Community、4.Authority、 5.Purityといった要素を軽視している。他方、保守派は、5要素すべてを重視している(参照)。だから、両陣営は、それぞれの重み付けを施した上で、普遍的な道徳要素を賭けて相争っているといえる。


日本の「ハレとケ」の文化は「5.Purity」の重視でしょうにゃ。別に日本の文化が特殊なわけでもにゃーようだ。変数に偏りがあるということだけにゃんね。あと、日本の伝統文化では「3.Community、4.Authority」も重視されているっぽいにゃー。僕の指向としては、1.2.の重視と5.の軽視でしょうにゃ。
この説に従うのであれば、現実に存在する道徳はこれらの変数の組み合わせなんだけれど、人は自分の採用する道徳こそが正しいと思いこみがちなため、それぞれの道徳は「タコ壺化」してしまうということですにゃ。で、タコ壺とタコ壺が互いに争うと、「神々の争い(©ウェーバー)」になってしまうわけにゃんね。

みんな正しいことに絶望せよ

弱肉強食だの自己責任だのという言説を僕はダイキライだけど、これら自体が非道徳的かというとそんなことはにゃーわけだ。1.Harmの徹底的な軽視と2.Fairnessへの重視がセットになればこれはありうる立場となりますにゃ。以前僕は「ナチスは倫理的」と発言したことがあるけど、ネオリベだって十分に倫理的な立場ですにゃ。いかなる政治的あるいは経済的立場も徴集と再分配の話なのであり、倫理と無縁であることは不可能ですにゃー。
だからこそ、
倫理の違い、価値判断の違いを「神々の争い」として傍観しているわけにはいかにゃーのよ。各々の「良心」の基盤となっているもの(良心そのものではなく、あくまでその基盤)が共通したものであり、それぞれは地続きである変数の束であることを確認し、なんとかすりあわせなければならにゃー。


なぜならば、あなたと同じくらい、あなたの敵は倫理的に正しいからだにゃ。


サヨクにとってもっとも考慮しなければならにゃーことは、保守や右翼が自分たちと同じくらい正しいことですにゃ。絶望的なことに、単に倫理的立場だけを問うのならば、誰も間違うことなどできはしにゃーんだ*1
ただし
現状分析の基盤となる事実認識を歪める歴史修正主義疑似科学、あるいはデマはどう転んでもクソ。
特定の思想的立場が正しく、それ以外は間違いというならば、つまりは特定の良心を振りまわして他者を黙らせることがまかり通るならば、事実認識の妥当性なんてものはどうでもいいんだにゃ。
しかし
各々が違うことを是とするのであれば、共有すべきは事実以外にはにゃーのだ。

*1:まあ、どんな立場だろうが90%は屑だが