リベラリズムと他者危害(追記アリ


文体には速度というものがありまして、猫かぶり文体でこの問題を考えるのにはどうも速度があわないように感じられます。よって一時的に文体をかえます。ご承知ください>諸賢

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「法に反する」こと以外のすべては「道徳」の問題であってそんなものに国家や社会は関わるべきではない・・・というのは過度の単純化であって、刑法や民法で処理できることともっぱら個人の自由に委ねられるべきこととの間に、国家や社会が(法よりは緩やかなかたちで)関与すべき&してよい領域がある、と考えることには何の矛盾もない。


簡単にまとめ - apesnotmonkeysの日記


私たちは道徳的な生き物です。道徳的でないということは不可能です。弱肉強食を是とする主義においても、強者が弱者を食い物にすることが倫理的にも正しいという考えがベースにあると考えられます。性差別主義や人種差別主義、外国人や移民の排斥なども、「道徳的」な主張であるともいえます。「我が闘争」は道徳的主張に満ちた書物です。


宗教共同体などにおいては、道徳が、善が定められており、その成員は定められた道徳を共有していました。これを共通善とここでは呼びましょう。こうした社会における倫理的葛藤とは、共通善に従うことができるか否かとなります。


しかるに、今私たちは自由主義社会に暮らしています。この社会には共通善が与えられていません。私たちは、自分自身にとっての善を、自分で手に入れなければなりません。選んだそれは愚行かもしれませんし、それは自分が選んだつもりでそのじつ誰かの意思なのかもしれませんが。
自由主義社会において、それぞれの道徳とは「思想の自由市場」において各人が手に入れるものであり、倫理学者がどういうかはともかく、各道徳に優劣はないということになります。宗教共同体とちがって、自由主義社会では共通善にしたがって倫理的判断をくだすことはできません。私たちの社会では、自らの道徳を他者に課すことができません。


自由主義社会における道徳というのは自らの意思で選び取ったもののはずですから、本来ならば重い意味を持つもののはずです。ところが道徳という言葉は、実際には責任を棚上げする際の「呪文」のようなものとして流通しているようです。
「道徳的責任がある」という言明は、一見すると責任を認めているようでいて、現実的には指一本動かさないという処世術の呪文と化しています。apesnotmonkeys氏がいうように、「道義的責任については、それを引き受けることを強制する決まった手続きがありません」から。
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090604/1244122200のコメント欄での議論にこの典型が見られますね。


また、私たちは自由主義社会に暮らしているので、もちろん、特定の考えに関与することを強制されることもありません。

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これで自由主義が社会として紐帯をたもつことができるのでしょうか?
各人が愚行権を主張し、実行していて社会が保たれるのでしょうか?


自由主義社会では、共通善を設定することをせず、「してはならぬこと=悪」を設定し共有することで、社会をたもっています。共通悪、とでも呼びましょうか。
そして、共通悪として設定されているのは、倫理学的には「他者危害の禁止」として定式化されています。


自由主義社会に暮らす私たちは、いかなる道徳も押しつけられるいわれはなく、特定の問題にコミットメントすることも強制されません。共通善はないのです。
しかし、私たちは「他者危害の禁止」だけは共通悪として共有しなくてはなりません。この「他者危害の禁止」が、自由主義社会におけるメタ倫理となります。「他者危害の禁止」を道徳にだけ取り扱わせるわけにはいきません。自由主義社会において、「他者危害の禁止」はそれぞれの道徳と異なりコミットメントが要求されます。

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人権を基盤にした自由主義社会における法学における罰則も、基本的には「他者危害の禁止」をベースにしているものだと理解しています。ただし、法には国家による暴力を背景とした強制力があり、法の名において罰を与えるためには厳密な検証が要請されることはいうまでもありません。
また、人権とはもともと対国家権力を想定して練られてきたものだという歴史的経緯があり、その意味でも法において定める罰則はなるべく少なくしておくのも妥当でありましょう。法において規制される「他者危害」は最小のものとしておくべきです。ことに、それが表現にかかわるものであるとき、公権力の介入はないほうが望ましい。ゲームなどの法規制に反対することは正しいのだとあらためて確認します。


ただし
公権力が法規制する他者危害が最小のもの、具体的には加害と被害の関係が明白でかつ深刻であるなどの条件を満たしたものであるということは、公権力の規制しない・できない他者危害が残るということになります。公権力による規制を最小のものにしようと指向するほど、規制からもれる他者危害は多くなります。これは論理的な必然です。こうした「規制からもれる他者危害」にも深刻なものがあるという例示として、性犯罪の二次被害・三次被害があり、さらにいえば二次被害・三次被害を恐れるがゆえにある性犯罪の暗数があるということです。
他にも、深刻な他者危害で法規制の網がかかっていない、あるいは法に訴えづらいという個別的状況はあると考えられます。もちろん、深刻でなければ他者危害をほっといてよいということにはならないのですが。ここでいう他者危害とは人権侵害のことなのですから。

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公権力による規制を大きくしろという意見もとうぜんありえます。ポルノが犯罪を誘発するという理路は証明されていませんが、性犯罪の二次被害・三次被害をひきおこす社会意識に影響がないともいえません。ある種のポルノが脅迫だと感じられる方もいるでしょう。
公権力が法によって「すべての」他者危害を規制するのであれば、他者危害をどうするかは公権力にまかせることができますから、「法か、あるいは道徳か」の二元論が成りたちます。
しかし、私人間の争いごとや、思想信条や、さらに私的な性のことに公権力が関与するというのは、いわゆる自由主義の国家観からは導くことができません。「すべての」他者危害を国家が規制するということは、思想信条や性的なことにまで公権力が全面的に介入することを許すことになります。非常に危険です。

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法規制を最小化するような古典的なリベラリズムを採用するのであれば、法規制しない・されない他者危害がでてくることになります。しかし、他者危害をなくしていくことは自由主義におけるメタ価値ですから、これに目をつぶることは許されません。

  • 古典的リベラリズムにおいては、法/道徳 の二元論は許されない
  • 古典的リベラリズムの立場を採用するのであれば、法規制しない・されない他者危害の問題にコミットする責任が課せられる

ということになろうかと考えられます。特に、特定の問題に対して法規制に反対するのであれば、そこに付随する他者危害の問題へのコミットを求められるのは道理です。
古典的リベラリズムはけっしてお気楽なものではないのですね。


「法規制に反対するとして、それからどうする?」とapesnotmonkeys氏はいっておられます。法規制反対と「それからどうする?」は不可分だといっておられます。多分、私と似たような問題意識を持っておられるのでしょう。
これに対して
id:furukatsu氏「「それからどうする?」という部分も強要は出来ないだろう。ブレインウォッシュすれば法規制は必要ないといっているだけじゃねーか。」
id:NaokiTakahashi氏「表現の自由があるということと「それからどうする?」とは別問題でしょ。「それからどうする?」という問題意識はそりゃ有意義だけど、ポルノ表現の自由を主張する代償としてそれが必要とされる、という発想はおかしいんじゃない?」


法規制に対して、古典的リベラリズムの立場から表現の自由をもって反対していながら、差別問題などの他者危害に対して道徳の問題とする。特定の問題への法規制に反対しておいて、そこに付随して法規制からこぼれる他者危害へのコミットメントが求められることを否定する。法規制に反対することで必然的に生ずる責任をまったく理解しておらず、指摘されても理解しようとすらしない。
法規制されない他者危害の被害者は、泣き寝入りするか、法規制を求めるかの不毛な二者択一をしいられることにしかならないでしょう*1
これは好意的に解釈しても単なるポジショントーク、厳しくみると自由主義へのフリーライドといえましょう。

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もちろん、これは性差別・性暴力の問題に限ったことではありません。


心情的にはid:mojimojiさんに共感する部分はあります。エントリーで「願わくば、こうした共感が、障がい者被差別部落出身者、女性、性的少数者、外国人、民族的少数者ら、他の同じく人権を侵害されている人に対してもむけられんことを。」と書き、コメントでも「陵辱表現の自由を主張される方が、自己の陵辱表現を楽しむ自由さえ確保できれば、差別や脅威にさらされている他の人の人権が侵害されようが興味がない、と表明されるのであれば、個人的には軽蔑すると思います」と書いたのはそのあらわれです。


http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090613/1244917026


私たちのリソースは有限ですから、すべての人権侵害問題に深くコミットすることはできません。しかし、リベラリズムというのは他者危害=人権侵害の問題へのコミットメントを各人に要請するものだと考えます。
リベラリズムには一方には愚行権なんかもあって、そうでなければ私なんかは困るんですけれど、他者危害問題へのコミットだけは要求しているんだと考えるべきではないでしょうか。憲法12条って、そういうことを書いてあるのだと読んでいます。

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公権力の介入を最小限のものとするのであれば、同時に法規制からもれた他者危害を積極的にとりあげて問題にしていかねばならない。法規制か道徳かの二者択一ではなく、自律的に他者危害を問題視して議論をしていく私的自治の圏域が必要であると考えます。
こうした私的自治の圏域を、ハーバーマスは公共圏といっています。公共圏については「公共性の構造転換」まとめ - Oh, sad-eyed lady, should I wait ?にまとめてあります。もともと公共圏とは公権力に対抗するために、私的な自治の圏域が拡大していったものである、というのがハーバーマスの基本的な認識だと思われます。
これを言い換えると「社会と国家との分離」となります。この問題について最初に発言した、いささか粗いエントリでいっていることです。


現在の、自主規制とは名ばかりの公権力による恫喝がまかりとおることには危うさをおぼえます。エロゲだからこうした恫喝を許すというのでは、これもポジショントークだの表現の自由へのフリーライドだのといわれても仕方ありますまい。私はこうした恫喝にははっきりと反対し、同時に制作サイドが性暴力問題や児童性虐待問題に何らかのコミットメントすることを求めます。


理想をいえば、ゾーニング・レーティングなどの自主規制は、私的自治の圏域において、役人を相手ではなく、性暴力や児童の性被害問題にコミットしている方たちも巻き込んだ公開の議論をへて決定されるのが望ましいでしょう。公開の議論が前提ならば、差別問題へのコミットメントが製作者にとっても現実的な益になっていくでしょう。作品のクオリティが高まるという副次的な効果もあるかもしれません。問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら(そういう表現者もとうぜんいるでしょう)、陵辱をテーマとした作品を作ればいいのです。
そこではおおきな応答責任が求められることにはなりましょうが。


関連エントリ
共有されるべきは【悪】や【誤謬】(追記アリ - 地下生活者の手遊び

追記でブクマコメに応答 16日10:55ごろ

id:WinterMute 表現問題, 差別, メタブにつづく
結局、ポルノが性差別を助長する、に関しては「自明なので説明しない」ということになったのかなぁ。ファンタジー二次被害がイコールで結ばれることの違和感がずっとぬぐえない」

まず、法規制を求めているわけではないので厳密な証明は必要とされないでしょう。
次に、私はポルノ全般が差別的だとは考えないと再三発言しています。問題視しているのは性暴力を扱ったものです。つまり、明らかに性差別的な表現と性差別そのものが関連していることについては、「自明なので説明しない」ということで何の問題もないと「とりあえず」しておくことができましょう。
また
ファンタジー二次被害・三次被害を直接的に結びつけているわけではありません。二次被害・三次被害の「主犯」は「世間様」である旨も発言しています。
世間様の構成要素として「性的ファンタジー」があるわけです。ポルノはワン・オブ・ゼムということとなります。ポルノは叩かれやすいし、叩かれる理由がないわけではありませんが、ポルノを叩いて事足れりとするのは明らかにおかしいでしょう。
フェミ系の人権団体は、ポルノを性差別社会の象徴として叩くという戦略をとっているのではないかと考えます。ポルノを叩いて事足れりと考えているのではないでしょう。しかし、そこに「ポルノを叩いて事足れり」と考える「世間様」の俗情が結託してくるのが問題なのではなかろうかと。

id:NaokiTakahashi
ややまともに/でも「自由」と「責任」を紐付ける立論に固執してるな。そこだけ改めてくれりゃ、差別問題についての立論としてはありかと/自由との紐付けを拒否するだけで、市民として責任は拒否しない/↑メタブへ

自由と責任は、「他者」の存在によって連結されます。ここを切り離すことは他者の存在を否認することです。
自由と責任を独立させる必要があるのは、対国家における「表現の自由」となります。対国家「表現の自由」については、自由と責任をひもつける理屈に断固反対します。表現の自由と責任が独立していることに関しては、陰謀論と懐疑の見分け方 - 地下生活者の手遊びでもエントリにしています。

id:fromdusktildawn
正規雇用を正社員化し、景気変動時に内部留保を吐き出させることで雇用を維持しろと主張するには、内部留保の企業活動への投資による国際競争力維持ができなくなる問題へのコミットメントが求められるという話

なるほど。よいアイロニーですね。サヨとしては「社会保障をきっちりせい」というのが王道ですな。

id:swan_slab
リベラリズムの定義であれば力点はロールズvサンデルの違いというイメージ。vsリバタリアニズムでは財産権侵害の扱いが対照的というイメージ。貴論は一般的行為の自由に関する市民社会のルールというイメージ。

共同体主義について意識はしています。ただ、そちらに突っ込む余裕はないので、共通善、というコトバを批判的に検討することしかしていませんが。「善をなす自由」に着目した、倫理的リバタリアンは面白いと思っています。私の友人の「聖書律法主義者」にもそういう方がいます。
もちろん「一般的行為の自由に関する市民社会のルール」という読みには文句ありません。

id:Yagokoro
副流煙が他者危害であると疫学的に証明されたので、公共の場での全面禁煙には同意する。ただしそれでも煙草販売の違法化には反対する。翻ってポルノに置いては、「他者危害の証明」すらされてないのではないか?

他者危害が証明されたら法規制が妥当でしょう。タバコもそうなっていますよね。
一方、マリファナはタバコやアルコールに比しても他者危害が少ない薬物だと思われますが、禁止されています。このあたりは文化的なものがからんで面白いのですが、少なくともエントリ1つ2つの話になっちゃいますよね。例示として薬物はあまりよろしくないかと。まあ薬物もポルノも嗜好品ではあるんですけどね。

id:raderjp 表現の自由, 表現規制
悲しいことに、応答責任(説明責任?)という責任は存在しない。現実的には無理。説明責任ほどあいまいでコストだけが膨大にかかる責任はなく、厚生の損失を引き起こし、結果、他者に見えない危害を加える。

特に、商売においてはそうなると思います。自主規制のほうがはるかに商売しやすいかもしれません。
ただ、規制を避けるのであれば、他の何らかの「条件」が生ずることは避けられないのでは? 規制を避けることで生ずる「条件」を、私は原則として応答責任何らかのコミットメントに求めました。困難であることは承知しています。他のものを求める論建てももちろんありえます。

id:A_lie_sun 表現, 釈然としない
話は分かる。けれど陵辱ポルノ的価値判断を被害者に投げるのが二次被害、それを正当化する土壌が社会差別だとすると、陵辱ポルノが差別的土壌を醸成するとする理路は何だろう? もっとベタな話が聞きたい気がする。

「世間様」が陵辱ポルノを産み出している、が基本だと私は考えています。「世間様」がポルノ、ことに陵辱ポルノを嫌悪するのは、それが自分たちが無意識に肯定しているものだということが、実はわかっていて認めたくないからだと思います。
あとはニワトリとタマゴの関係ですね。

id:yellowbell ポルノ
不快なものの流通をギリギリ見えるとこに置いとくのは、社会の要請でもある。地下に潜った表現ほど御しがたいものはない。

麻薬もポルノも売春も、表に引きずり出すのがよいと考えます。
認めて、責任を課すべきです。

id:nornsaffectio 表現の自由
うーむ、危害原理をちょっと拡張的に捉えすぎてる気がする。危害といっても、迷惑の落とし所を討議で探る局面とぎりぎりに追い詰められた個人がジョーカーを切る局面とは異なる。そも原則は切り札じゃなかろうか

他者危害を狭くとらえると、ジョーカーが手元に配られない方がおおぜいでてしまうのではないでしょうか?
法規制を前提とするのなら、ジョーカー=公権力の介入、ですからジョーカー抜きでゲームをしたほうがよいと思われますけれど。

*1:「よろしい、ならば法規制だ」という、例えばid:mojimoji氏のような理路は、このあたりのことを指摘していると考えられる