ポルノとポルノならざるもの


さきに、コメント欄にお応えすることにします。なお、本エントリでは文体を変えます。

1

tukaimaさん
コメント欄にようこそ。いくつかの重要な問題を含むレスになりそうなので、エントリとしてあげさせていただきます。


まず、6/29のエントリでは、性犯罪の被害者に責任を押しつけるのがこの社会の現実であるならば、性暴力を娯楽的に消費する「ある種のポルノ」は性犯罪の被害者と潜在的被害者(=圧倒的多数の♀)にとってどのような表象たりえるか、を問題にしました。
それは、ヘイトスピーチを表象となりうるだろう。つまり、脅迫や嫌がらせとして機能しうると考えます。
これは、現状認識です。
一方、
表象は公共圏において個別に読み解かれるのが望ましいということは、sk-44氏と合意できた点であろうと考えます。ここでの公共圏は、「理想的対話状況」程度に考えてください。
もちろんこれは、そうなったらいいな、という話です。


そうしますと、現状認識における「ある種のポルノ」にあたるか否かの判断とは、公序良俗のコードにある程度依存することとなります。公序良俗というのは簡単に否定できるようなものではありませんし、それは実際に弱者の盾となりうるものでもあります。世間様の暴虐ぶりを私は知っているつもりですが、世間様とは平板なる悪などではありません。
そして、いま現在なされているゾーニングやレーティングは、こうした公序良俗に沿っているという一面もまたありましょう。役人が主導して公序良俗をでっちあげていくというところはクソだと思っていますけれど。


つまり、現状認識における「ある種のポルノ」とは、「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者が嫌悪感をもつ、あるいは脅迫と感じるであろう性暴力の娯楽的消費」、というところでしょうか。なるほど恣意的ですな。
そして
理想的対話状況における「ある種のポルノ」は個別に読み解かれるべきものですから、そもそも定義する必要などない。


このあたりを前提として、ご質問にお応えします。

2


「すべてのポルノ」から、「良いポルノ」の基準を明確にしないまま、「ある種のポルノ」という概念だけを押し出し、作品にあたるまでもなく誰にでも分かるものとして、ここに人目を向けさせるというのは概念操作ではありませんか?


「すべてのポルノ」とは何でしょうか?
tukaimaさんは、ポルノとポルノでないものの線引きが可能だと思われますか?


あまり映画を見るほうではない私にも印象深い映画なのですが、ニュー・シネマ・パラダイスという映画をご存知ですか?
イタリアの田舎町では映画が数少ない娯楽だったのですが、司祭が映画を検閲し、キスシーンや抱擁シーンがカットされていたというエピソードが重要な役割を果たす映画です。キスはポルノだったのですね。


私が大学時代、旅行好きの先輩がいまして、彼がイスラム圏にひと月ほど旅行したときに空港に迎えに行きました。彼がいうには、「日本の空港で若い娘が脚をだしているのをみてたまらなくなり、トイレにかけこんでマスターベーションした」とのことでした。しばらく彼は、「娘の脚を見ると勃起してたまらん」といっていましたね、夏でしたし。女性の脚は見るだけでポルノとして機能できますね。


確か、id:y_arim氏でしたか、幼児番組がそちらの愛好家にとってはポルノとなっているとどこかのブクマコメでいっていたと記憶しています。幼児雑誌がポルノとして消費されているということもあると聞きます。そういえば、紙おむつのテレビCFで、赤ん坊のお尻がでるのがポルノだと騒いだ方がいたとか・・・。なるほどこれもポルノとなりえるかもしれません。


他にも、どのような対象に、どのような行為をすることがポルノとして「使える」かについては、各人の指向/嗜好によっては想像を絶するものがあるのではないでしょうか?
6/29エントリで、他者の性はわからないのだ、と私は発言しました。人間とはわからないものだ、人間とは不可思議なものだ、という言明とほぼ同じ意味合いで、「人間の性とはわからないものだ」と私は思います。
そして
ポルノとポルノでないものの線引きをしうるのは、人間の性が「わかる」者でしかありえますまい。つまり、線引きは不可能です。


3


とある誰にでも買える「生活必需品」や値札シールが、ある意味ポルノ以上に私と家族を苛んだことを忘れることはありません。
どうか暗数に関わらない、危害になどならないポルノという線引きがあるというのなら、教えて頂きたいものです。


性犯罪の被害にあわれ、その後も苦しまれたということについて、私がいえる言葉はありません。そうした方に、6/22エントリのピンポンダッシュの例示を評価していただいたことはうれしく思います。
さて、
tukaimaさんにとって、キスや抱擁、若い娘さんの脚、幼児向け番組などは危害となりえますか? これらはポルノとなりうるものとしては、それほど例外的なものではありませんし、もっとわけのわからないものをポルノとして消費する方もいます。
すべてのポルノが危害だというのは、キスや抱擁シーン、若い娘さんの健康的な脚、幼児番組まで危害だということです。
すべてのポルノが差別的だということは、キスや抱擁シーン、若い娘さんの健康的な脚、幼児番組までが差別的だということになります。
これは実に馬鹿馬鹿しい限りだ。


「ある種のポルノ」の定義が恣意的ですって? なるほどそうかもしれません。
しかし
ポルノとポルノでないものの線引きとなると、これはもう絶望的に渾沌となります。


人間の性的な欲情のありかた・性愛のありかたと、差別や暴力は必然的に結びつくものではありません。人間の性というものが定義されざるものである以上、性愛のありかたが差別や暴力と必然的に結びつくということはいえません。
だから、性愛の表現・欲情を喚起するもの、が必ずしも暴力や差別と結びつくことにはなりません。原理的には、ポルノと差別はべつのものです。もちろん、現状においてポルノとして商業流通している多くのものは差別的かもしれませんが。
しかし
例えば人間の身体が性的な意味を持ちえないこと、は不可能です。人間のなしうるほとんどの行為に性的な意味を見いだすことが可能です。さらに、ほとんどの動植物には性的な意味が付与されえます。あるいは、物質も性的な表象足りえます。
つまり、絶対にポルノになりえないもの、なんてものは人間存在とその行為についてはありえないし、動植物や工業製品だってポルノとなりえるのです。


つまりこういうことです

  • 1)ポルノと差別・暴力を原理的に切り離すことは可能
  • 2)人間存在にかかわることでポルノになりえないものなどはない


1)より、差別的・暴力的でないポルノの存在が想定され、だからこそ差別的・暴力的な度合いの著しいポルノを問題視することが可能となります。そしてそれは、性犯罪被害者に責任をおしつけるこの社会で、いかなる意味を持つのかを問うこともできましょう。
しかし
2)より、「すべてのポルノ」という枠組みそのものの現実的な無効性が帰結します。ましてや「すべてのポルノは差別的」などお話にならない。ポルノに内在する問題性を、かえって隠蔽することになりかねないでしょう。
政治的スローガンとして一時的に有効であったことは認めますが。

4


とある誰にでも買える「生活必需品」や値札シールが、ある意味ポルノ以上に私と家族を苛んだことを忘れることはありません。


とある誰にでも買える「生活必需品」、がなぜtukaimaさんとご家族を苦しめていたのか。たぶんそれが暴力の表象となっていたからです。それが性の表象として機能してtukaimaさんとご家族を苦しめていたわけではない。
人を傷つけ踏みにじるのは暴力であって、断じて性ではないからです。


確かに現時点で、性と暴力・差別は密接に絡んでいます。
しかし、この状況を私は否認します。
人間の性が定義されざるものである以上、性が暴力・差別と不可分であると認めてしまってはなりません。人間の性と、暴力・差別を必然的に結びつける議論をこそ警戒してください。性が聖域であるということは、そういうことでもあります。