【胎児の権利】とはいったい何か?--優生思想と自由主義をめぐって(予告追記アリ


僕は倫理学についてもシロウトなので、人工妊娠中絶問題について包括的な記述を為すことはできませんにゃ。
ここでは、具体的な事例に対して僕自身はこう判断するけれど、その判断はどのような意味を持つのか、というスタイルで考えていきますにゃ。

中絶=殺人、と仮定すると

「中絶は殺人だ」という言い方がありますにゃ。胎児を僕たちひとりひとりと対等な、人権をもつ1人のニンゲンとして認めた場合、例えば父親に恒常的にレイプされて9歳の女の子が妊娠し、出産に際して生命の危険がある場合でも、中絶は殺人にあたるので認められにゃーというのは、論理的な帰結ということになりますにゃ。
これは、中絶に絡んだ事件でカトリック司教の判断に賛否 - あんとに庵◆備忘録で紹介されている事例ですよにゃ。


とにかく、胎児が僕たちと同じ人権を持つ1人のニンゲンとして認めれば、「強姦よりも中絶(=殺人)の方が大罪」というのは、極めて論理的な帰結であるということになるでしょうにゃ。
中絶=殺人であるのなら、例え母体に危険が及ぶ場合であっても中絶を認めることはできにゃーことになりますにゃ。もし、母体に危険のある場合の中絶を認めるとしたら、それは【母体の人権>胎児の人権】ということになり、胎児の人権を十全に認めていることにはならにゃー*1

  • 僕の立ち位置1)レイプ・母体が危険などの理由で中絶を認める⇒胎児を僕たちと対等の存在とは見なしていない


ただし、この場合でも、僕たちと同程度の十全なる基本的人権を胎児に認めるのは無理があるけれど、それでも一定の権利があるという仮定は可能ですにゃ。
ここで、上記のように仮定されたものを【胎児の権利】と呼ぶことにしますにゃ。


日本社会では胎児に十全な人権を認めていない

さて、中絶=殺人、つまり胎児に僕たちと同じ人権を認めるのであれば、「強姦よりも中絶の方が大罪」といってこのケースで関係者やら女の子を破門したカトリックの坊さんのいっていることは当然ということになりますにゃ。つまり、この坊さんに対して怒ったり違和感をもったりしたヒト(僕もそう)は、胎児を僕たちと同じ人権をもった対等の存在だとは見なしていにゃーということになりますにゃ。
日本において人工妊娠中絶の法的事項を定めた母体保護法においても、胎児を僕たちと同じ人権をもった存在とは見なしてにゃーですね。
では日本ではどのような場合に人工妊娠中絶が許されるのか?

避妊失敗での妊娠 胎児に障害がある レイプによる妊娠 母体の健康を著しく害するおそれのある妊娠
優生保護法タテマエ ×
現行の母体保護法タテマエ × ×
実際の新旧法における運用

以上のとおり、現行法においてはレイプによる妊娠、母体の健康を著しく害するおそれのある妊娠においては中絶が認められておりますにゃ。まあこのあたりは多くの人が仕方なしと認める中絶の理由と考えられますにゃ。
つまり、日本においては法の上でも、あるいは多くのひとの意識の上でも、胎児を僕たちと同等の人権をもった存在とは認めてにゃーことを確認しましたにゃ。

優生保護法母体保護法

優生保護法というのは、その名のとおり優生思想に基づいたものであり、強制断種や障害を理由とした中絶が認められていましたにゃ。現行の母体保護法では、障害を直接の理由とした中絶は認められていませんにゃ。また、旧法も現行法も、「うっかり避妊を怠った」という理由の中絶をタテマエ上は認めているわけではにゃーですね。
しかし、実際の運用上は、避妊を怠った妊娠も、現行法下における優生学的中絶も黙認されているといっていいでしょうにゃ。これは、現行法では14条にある

  • 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

という条文の「経済的理由」を中絶の理由として認めているところからきていますにゃ。この「経済的理由」はあとで論じますにゃ。


ここでは、旧優生保護法と現行の母体保護法との違いについて述べておきますにゃ。
条文については昭和二十三年七月十三日法律第百五十六号の主な改正 - 一本足の蛸を参照のこと*2
旧法でも現行法でも、実際の運用においては「障害児」の中絶を認めているとはいえるのだけれど、旧法では国家共同体のレベルにおいて障害児の抹殺を公的に是認し、推奨すらしていた、つまり優生思想を共同体で実践していたのに対し、現行法では障害児の抹殺は各々の父母に委ねられている、つまり優生思想は個人レベルにおとしこまれているという大きな違いがありますにゃ。

ということ。


もちろん、福祉行政なんかはえらく貧困だし、偏見は丸出しだし、障害者に対してもえらく冷淡なこの社会だから、優生思想を各々の親に強いてゲロ以下の自己責任論を押しつけており、事実上この社会は優生思想に染まっている、という認識は正しいものだと思いますにゃ。
しかし、
共同体レベルでの優生思想の実践と、個人レベルでの優生思想の黙認というのは、形式的にまるで別物であること、共同体レベルの優生思想実践はそれこそナチそのものだということはきっちりおさえておくべきところですにゃ。
この論点はあとで重要になってきますにゃ。

経済的理由から見えてくるもの

さて、中絶反対派にはきわめて評判のワリイこの「経済的理由」にゃんが、必ずしも不当な理由ではにゃーですね。
というのも、まず日本社会においては、胎児と生まれたニンゲンを対等とみなしてはいにゃーわけで、胎児のためにどれくらい生まれた者が我慢をすべきかということが決められたものではにゃーということ。
例えば、以下のような状況を仮定してみますにゃ。

ある夫婦の経済的資源は限られている。生まれるこどもはみな健康で優秀とする。
こどもが1人なら大学までやれる。2人なら2人とも高校まで出せる。3人産んだら全員義務教育どまり。4人産んだら、必要な栄養さえまかなえない。


このケースにおいて長男(長女)は、弟(妹)が生まれるたびに教育をうける機会が失われてゆき、最後には生存権すら脅かされていくことになりますにゃ。
健康で文化的な最低限度の生活、という憲法に明記された権利すらプログラム規定だとか、カネがなくて高校をやめなければならにゃーガキがごろごろいるこの国だから、こうした事例は絵空事とはいえにゃーよね。
ましてや、途上国の貧困地域で「胎児には十全な人権がある」なんてことになったら、先に生まれたガキと資源の奪い合いになって共倒れ、ってのも十分にありえることにゃんな。


つまり、先に生まれたガキの権利を保障するためにこの「経済的理由」によって中絶するという理路は十分にありえるのですにゃ。中絶が、母体と胎児の間の権利の衝突のみと捉えられるのは非常に問題があると考えますにゃ。

  • ♀の身勝手な権利の主張 VS 【胎児の権利】

という中絶問題に関してよく見られる安易な図式は、悪質な疑似問題なのでにゃーだろうか?
ここここで述べたとおり、♀は資源をガキのためにつかう傾向がつよいわけで、♀を胎児と敵対させるがごとき言説は、どうも家父長制的陰謀に感じられて仕方がにゃーよ。


実際に途上国において往々にある図式は

  • ガキ+ガキの権利を保障しようとする母親 VS 【胎児の権利】

になるのではにゃーだろうか。
また、これも途上国においては若年♀の妊娠・出産が人権問題として、さらに貧困の問題として捉えられていますにゃ。若年における妊娠・出産は教育の機会を閉ざし、健康に悪影響をあたえ、貧困を助長し再生産しますからにゃ。この意味でも【胎児の権利】はガキの権利に敵対しうるよね。
また、ガキの養育に多大な資源を注ぎ込むことが要求されるいわゆる先進国においても、もし【胎児の権利】が認められたら、生まれたガキと胎児との間に限られた資源の奪い合いがおこるということも必定。


つまり、【胎児の権利】とやらは、♀の自己決定権だけでなく、先に生まれたガキの権利とも衝突しうる。もっと端的に言えば

  • 僕の立ち位置2)【胎児の権利】は、おんな・こどもに敵対的でありうる

ということですにゃ。
ここが見えてにゃーと、「経済的理由」を不道徳なものと見なし、胎児と♀を敵対させるのみの疑似問題にからめ捕られることになるわけにゃんな。

パーソン論は採用しない

先ほど表にした、【避妊失敗での妊娠】【胎児に障害がある】【レイプによる妊娠】【母体の健康を著しく害するおそれのある妊娠】のそれぞれの事例において、妊娠についての母体側の過失あるいは責任というのは異なると考えられますにゃ。
ところが、【胎児の権利】というものを仮定すると、基本的にはいずれの場合においても変わりはにゃーと考えられますにゃ。


と、書いたけれども、上記の記述には重大な前提があるんだよにゃ。
胎児に重篤な障害、それも脳神経系の発達にかかわる重篤な障害(例えば無頭児であるとか)があるとすると、パーソン論を採用した場合、こうした胎児の権利は十全に認めることができにゃーからだ。パーソン論については、マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeを参照のこと。僕としては、「何らかの理由(有用性・知性・見込まれる生存期間などなど)によって人間の生命の重さを序列化する」ことを広い意味でのパーソン論だと考えていますにゃ。パーソン論は一種の優生思想と考えていいかにゃ。
ただし
パーソン論は何らかの理由ででニンゲンの生命の重さを序列化することを是とする考え方であり、僕はこの立場を採用するのに抵抗がありますにゃ。もっと単純にいうと、パーソン論が嫌い。パーソン論を導入すれば、人工妊娠中絶とか脳死者からの臓器移植の肯定は楽なんだけどにゃ。


さて、話をもどすと、パーソン論を導入しにゃー限り、どのような理由で妊娠しようが、あるいは胎児にどのような障害があろうが発達段階がどうだろうが、【胎児の権利】には変わりがなくなるわけですにゃ。ここではこの立場で行く。

  • 僕の立ち位置3)パーソン論・優生思想はできるだけ採用しない


すると、どのような場合でも【胎児の権利】は一定となり、妊娠した側の「責任」の程度によって中絶が認められる場合と認められない場合がある、という理路が成りたちそうに思えますにゃ。
「レイプによる妊娠の場合は、母親の人権が【胎児の権利】を上回るので中絶が認められるが、自分の好きでセックスしまくりで妊娠したからって中絶はねえだろJK」
さて、ホントにそうなるだろうかにゃ?

胎児に先天的に重篤な障害があるとしたら

ここで考えてみるべきなのは、胎児に重篤な障害があることが妊娠中にわかった場合ですにゃ。想定している重篤な障害は、例えば無頭児のような、生まれたとしても生存が見込めないようなものとしますにゃ。妊娠にいたった理由や母親の状態はいっさい問わにゃー。
パーソン論を採用しにゃーので、胎児がどのような状態であっても、【胎児の権利】に変更はにゃーわけだ。


ここで問おう
「生存がほとんど期待できないような場合においても、共同体が母体に妊娠の継続と出産を強制することができるのか?」
ここで重要なのは、重篤な障害があるとわかったにもかかわらず、妊娠した母体とその周囲の人たちが妊娠の継続・出産をするという選択肢を否定するものではにゃーという点ですにゃ。「胎児に障害があるから中絶せよ」というのは悪しき優生思想であり、認めるわけにはいかにゃー。例え重篤な障害であり、産後の生存が危ぶまれても、例えそれが愚行といわれようとも、それは母体と周囲の人たちの意思を尊重すべきですにゃ*3
そして
産後の生存が危ぶまれる、あるいはほとんど見込めにゃーような妊娠について、法的に社会的に「産め」と強制するのはおかしいと僕は考えますにゃ。もしこれを強制できるのであれば、妊娠後期にほぼ間違いなく死ぬことが見込まれる胎児の妊娠を継続することも強制できることにすらなりますにゃ。
おかしいだろ?


そして、出産直後に死ぬことが見込まれる場合は中絶を認めるけど、そうでなければ認めない、という立場を採用するのであれば、出産後どのくらい生存すると見込まれれば中絶してはならにゃーのか、という「線引き」を提示する必要がでてきますにゃ。どれくらい生きれば中絶をしてはならにゃーの? 3日? 3週間? 3ヶ月? 3年?
出産直後に死ぬことが見込まれる場合は中絶が認められる、という立場は、見込まれる生存期間によって【胎児の権利】に差をつけるという、パーソン論の変形、一種の優生思想となってしまうのですにゃ。


パーソン論を否定するのであれば、胎児の障害の有無・程度、見込まれる生存期間にかかわらず、【胎児の権利】に変わりはにゃーはずだ。ちょうど、障害の有無・程度、見込まれる生存期間にかかわらず僕らの基本的人権に変わりがにゃーようにね。
つまり、【胎児の権利】を認め、パーソン論を採用せず、優生思想をいっさい認めない、という前提にたつと、重篤な障害が胎児にあっても、妊娠の継続・出産が強制されるということになりますにゃ。例え生まれてすぐ死ぬことがわかっていても、死産がわかっていても、妊娠を継続して出産しなければならにゃー。
なんかおかしいぞ?

おかしいのは何か?

パーソン論・優生思想を採用しにゃーという前提はここでは変更しにゃーとする。
この場合、おかしいのは【胎児の権利】という仮定なのではにゃーのか?


【胎児の権利】が存在しにゃーのであれば、あるのは母体と周りの人たちの権利とか都合だけですにゃ。つまり、産む側の都合で中絶することが認められるということになりますにゃ。
胎児に障害があろうがなかろうが、妊娠の理由がどうだろうが、産む側の都合で産むかどうかを決めるのであれば、優生思想もパーソン論も直接的には回避できますにゃ。産む産まないを決めるのは、産むヒトと育てるヒトタチであって、共同体はその決定には口出しせず、産み育てることを選択した者をサポートする、ということであれば、共同体レベルでの優生思想を回避することができますにゃ。


大事なところだからしつこく言いますにゃ。
共同体として優生思想にコミットすることを回避するためには、

  • どんな重篤な障害が胎児にあっても妊娠の継続・出産を強制する
  • 産む産まないの判断を産むヒトと育てるヒトタチにまかせる

この2つしかにゃーんだよ。
そして
後者を採用すると、【胎児の権利】というものには何の意味もなくなってしまうのですにゃ。

  • 僕の立ち位置4)重篤な障害が胎児にある場合の妊娠の継続・出産の強制はできない、なおかつ優生思想・パーソン論を拒否する⇒【胎児の権利】には意味がない


ただし、ただしだよ
「産む産まないの判断を産むヒトと育てるヒトタチにまかせる」という立場を採用した場合、個々のヒトタチが優生思想において判断することまで否定することはできにゃーということになりますにゃ。
つまり

  • 僕の立ち位置5)共同体が優生思想を採用することは認めないが、個々人が優生思想によって妊娠・出産を判断することを容認する

ということになりますにゃ。個人レベルでの優生思想の容認ということですにゃ。
これは不愉快なんだけど、重篤な障害がある場合の妊娠の継続・出産の強制よりはマシと考えますにゃ。

僕の立ち位置のまとめ

  • 僕の立ち位置1)レイプ・母体が危険などの理由で中絶を認める⇒胎児を僕たちと対等の存在とは見なしていない
  • 僕の立ち位置2)【胎児の権利】は、おんな・こどもに敵対的でありうる
  • 僕の立ち位置3)パーソン論・優生思想はできるだけ採用しない
  • 僕の立ち位置4)重篤な障害が胎児にある場合の妊娠の継続・出産の強制はできない、なおかつ優生思想・パーソン論を拒否する⇒【胎児の権利】には意味がない
  • 僕の立ち位置5)共同体が優生思想を採用することは認めないが、個々人が優生思想によって妊娠・出産を判断することを容認する


また、【胎児の権利】に対してどう考えるかによって、ありえる立場を3つの類型にわけてみますにゃ。

  • 1)胎児には十全な基本的人権がある。いかなる理由においても中絶は認められない
  • 2)胎児には限定された権利がある。母体側に著しい権利の侵害があるとき、胎児に重篤な障害があるときなどは、中絶が認められる
  • 3)胎児の権利というものに意味はない。


1)はローマカトリックに見られる立場。3)は僕の立場にゃんね。
ところで、一見すると穏当そうな2)なんだけれど、実はこれにはパーソン論や優生思想の、少なくとも部分的な導入が必要になるのですにゃ。胎児に生存が見込めないほどの重篤な障害がある場合には中絶を認め、かつ【胎児の権利】を認めるのであれば、パーソン論や優生思想を導入せざるをえにゃーわけだ。
つまり
【胎児の権利】を導入するためには優生思想を導入する必要がある、というにゃんとも逆説的なことになるのですにゃー。2)の立場を支持するヒトは、ここを引き受ける必要があるのですにゃ。


今日のところはここまで。現時点で考えられるだけ考えて、【胎児の権利】に焦点をあてて書いてみましたにゃ。
補論が必要だと思うけど、いつになるかわかんにゃーです。

結論 16:40ごろに補足

えーっと、読み返してみたら結論が明示的に書かれてにゃーな。
人工妊娠中絶に反対する論者が依拠するものの最大のものが、【胎児の権利】だと僕は判断しているんだけど、これには意味がない、ということですにゃ。
つまり
産むヒト(と育てるヒトタチ)が、産む産まないを判断することを肯定
言い換えると
妊娠した理由のいかんにかかわらず、中絶を認めるという立場ですにゃ。

予告追記 27日14:15ごろ

コメント、ブクマコメントなどを拝見して、やはり補論をあげないとあまりにも問題が多いと感じましたにゃ。
人工妊娠中絶を、妊娠にいたった「理由」で制限するべきではない、というのはここで述べたとおりなんだけれど、

  • 妊娠の全期間において、妊娠に至った理由のいかんを問わずに中絶が認められるべき

とは考えられにゃーからです。
そのあたりについて考えたものは近々あげることをお約束させていただきますにゃ。こういう面倒なことはコトバにして晒しておかにゃーと、なかなかやる気になれにゃーからね。

*1:とはいえ、母体が助からずに胎児だけが助かるというケースのほうが少ないだろうから、現実には【母体の命を救うための中絶のみ認める】という立場も、胎児の人権を認めた立場といえるかもしれにゃーけれど

*2:この一行は追記。さんきゅーね>trivial

*3:母体に危険があるときをのぞく。生命に危険のある「愚行」に公的資源である医療が手を貸してはならない