胎児はいつからニンゲンとなるのか?


【胎児の権利】とはいったい何か?--優生思想と自由主義をめぐって(予告追記アリ - 地下生活者の手遊びのつづきですにゃ。
ここでは、受精卵に僕たちと同等の権利を認めるカトリックの考え方を批判するかたちで述べていきますにゃ。

特異点と連続性

哺乳類の生殖とはいくつかの特異点をもちつつ、連続したものであると考えられますにゃ。シロウトが思いつく範囲で、生殖における特異点を列挙してみますにゃ。不正確な記述があったらツッコミ歓迎。

wikipedia:減数分裂によると「ヒトの場合では23組の相同染色体、計46本の染色体を持つため、2の23乗=8,388,608 通りの配偶子」が生み出されるとのことで、精子卵子は独自のDNAをもった存在であると考えられますにゃ。

  • 特異点2)射精・排卵  配偶子が放出される。受精しなければ配偶子は死ぬ。


精子についてはこういうことになってますにゃ

  • 特異点3)受精  卵に精子が入り込んで卵核と精核が合体する

受精後しばらくすると受精卵は分割をはじめますにゃ。この初期段階で分割がうまくいかずに着床にいたらにゃー受精卵も一定の割合であるようですにゃ。
なお、受精卵の大きさは約0.1ミリ。肉眼では見えるか見えにゃーかの大きさ。

  • 特異点4)着床  卵割があるていど進み、初期胚になって子宮内膜に接着し、胎盤が形成される

着床したものの、初期胚の段階で、受精・着床ということが母体にすら知られにゃーまま、「流れて」しまうことも一定の割合であるようですにゃ。

  • 特異点5)分化  2〜7週間後 細胞分化が始まり臓器・神経系が形成されはじめる

6〜7週で、やっと1センチほどの大きさになりますにゃ。

  • 特異点6)脳の形成  8〜12週後 臓器の原型が完成し、人間の姿をとりはじめ、脳幹などが形成されはじめる
  • 特異点7)脳が部分的に機能しはじめる  12〜21週後 胎児は自発運動を開始する
  • 特異点8)肺の機能を獲得し、22週ごろ 母胎外での生存が可能となる*1。また、中枢神経系の原型がおおよそ完成する

日本の母体保護法では、この時期までの人工妊娠中絶を認めていますにゃ。要するに、母胎外での生存可能性において線引きがなされているということですにゃ。
また、フランスのマリ=クレール事件(いわゆる妊娠中絶裁判)におけるジャック・モノー教授*2の裁判証言によると、胎児の中枢神経系が働きはじめるのは妊娠五ヶ月後であり、それ以前に「人間としてはまだ存在していない」(妊娠中絶裁判 P103)ということですにゃ*3。この5ヶ月という線引きは、だいたいこの時期に一致かにゃ。
この後、6ヶ月以降の胎児は母親の声を聞いているとか、母親の空腹とか母親が起きているかどうかわかるとか、いろいろあるようですにゃ。


特異点9)出生  出生して自発呼吸と経口栄養摂取をはじめる


この他にも三木成夫によれば、妊娠90日前後で胎児は水棲生物から陸生生物にかわり、この山場をすぎると安定期にはいるとかいう話もあるのだけれど*4、まあ一般的な胎児の発生と成長におけるエポックはこんなものかにゃー。
これらは、それぞれに特異点をもちつつ連続的な過程であるということをもう一度強調しておきますにゃ。

前成説のおわりと教義の変更

以上のような知見が得られる前は、胎児は母胎のなかでどのように発生するかについてはわかっていなくて、前成説というものが唱えられていましたにゃ。


古くは、卵または精子の中に小さな人の形をしたもの(これをホムンクルスという)があらかじめ存在し(つまり、受精卵の中に、子孫の雛形がある)、発生はホムンクルスが大きくなる過程であるという前成説が唱えられた時代があった。




オランダの科学者ハルトゼーカー (Nicolas Hartsoeker) が唱えた精子の姿。中にホムンクルスが入っている


wikipedia:胚発生より


ホムンクルス、かわいいにゃー。
で、このあたりについてはまとまっているところから引用すると


もともとのキリスト教神学的な立場からはアリストテレス、そしてその言を受け入れたトマス・アクィナスなどによる「男児は受胎から40日後、女児は80日後に魂が付与される」という言葉が長く権威を持ってきました。しかしこれは1974年のバチカン宣言で「受胎の瞬間からすべての権利を完全に備えた人間が誕生する」と公式に(カトリックとしては)改められています。


2006-08-23


ニンゲンは妊娠初期のうちから完全な人型を備えており、それが母体内で成長していき、最終的に出生すると考えられていた時期においても、魂の付与、すなわちニンゲンになるのは受胎後しばらくしてのことだったんですよにゃ。それが、1974年のバチカン宣言で受胎の瞬間からニンゲンだと改められてしまうのですにゃ。
なんでこんなことになったのか?
先ほど述べた胎児の発生の連続性が大きな理由のひとつでしょうにゃ。


だが,このプロジェクトの結果,「胎児」イメージはがらりと変わった。バチカンは,この標本が表現している「受精から誕生まで」の連続性を根拠に中絶に反対するようになった。ボストンの医師たちは,自分たちのしていることを非倫理的だとは全く思っていなかったくらい,この標本が作られる以前,胎児はほとんど誰からも顧みられることのない存在だった。だが,この種の標本を見ていたある女子学生は,こう言ったという。「私はしだいに40個の別々の生命を見ているということを忘れて,発達していく1人の胎児の姿を見出すようになった。一列に並べたその配置によって,40個の別々の標本をあたかも1人の人間であるように見せかけるフィクションが構築されているのだ」


胎児の標本 - リプロな日記より


2006-07-21も参照ね。コモンロウにおいては「胎動前の胎児は生命を宿していないとみなすことで胎動前の堕胎には寛容だった」ということにゃんね。


つまりこれは、自然科学の知見が得られることにより、伝統宗教の教義が変更された典型例ということになりますにゃ。しかも天動説や進化論とは異なり、教会側は積極的にその教義を変更しておりますにゃ。
臭う、臭うぞ。【疑似科学的なもの】の臭いがするにゃー。

自然科学と価値の結合

バチカンの教義変更が疑似科学だというつもりはありませんにゃ。しかし、疑似科学に通底するものがここにあるのではにゃーかと僕は考えるのですにゃ。

  • 自然科学において新たに得られた知見が恣意的な宗教的価値判断と結びつき、他者に強制される

ということがここでおこったことにゃんからね。


上記で僕は「恣意的な宗教的価値判断」と書きましたにゃ。
人命尊重は恣意的なものではにゃーわけで、ここで恣意的と書いたのは「ニンゲンの始期」の設定ですにゃ。
問題点は2つ。

  • 問題点1)受精をもって【最初】とすることの妥当性
  • 問題点2)連続的なものだから【最初】からとすることの妥当性


まず、問題点1から考えてみましょうにゃ。
最初に述べたように、減数分裂だって射精・排卵だって生殖のプロセスにおける特異点を形成しているわけだにゃ。特に、減数分裂において作られる配偶子(精子・卵)は親と異なるひとつひとつ独自のDNAをもっているニンゲンの細胞にゃんね。適切な環境下におかれれば、勝手に受精してひとりのニンゲンになりえる存在ですにゃ。
つまり、ニンゲンの始まりは減数分裂にある、という主張を【科学的】に否定することはできにゃーんですね。これはニンゲンの定義次第ですにゃ。「独自のDNAをもち、適切な環境下ではひとりのニンゲンになりうる」が定義だったら精子はニンゲンになりますにゃ。
生殖の一連のプロセスにおいて、受精のまえに減数分裂という特異点がある以上、無条件に受精が始期となるわけではにゃーだろう。


次に、問題点2を考えてみましょうにゃ。
例えば、着床をニンゲンの始期とする考え方はどうだろ?
これだってそれらしい理屈はいくらでも出てくるのではにゃーだろうか。
「ニンゲンとは単なる動物ではなく、社会的なものであり、他者との関係性のなかにのみ存在できるものである。他の誰かとのかかわりを持たぬモノはニンゲンであるとはいえない。例えば脳死者の身体は他者との関係を生きられたものであり、その身体を通して他者と未だにかかわりあえる存在である。よって脳死者をいまだニンゲンとみなすことができる。
しかし、着床せざる受精卵は、いまだ他者とのかかわりをもっていない。分割に失敗してそのまま消失してしまう存在をニンゲンとみなしていいものだろうか?
受精卵は着床してはじめて、最初に「母」と出会い、関係をつくることになる。この関係性をもって、ニンゲンの始期というべきである。」
なんてのはどうかにゃ? 結構悪くにゃーでしょ?


もしも、ニンゲンとは知的に自律した存在であるというパーソン論のものの見方を採用するのなら、中枢神経系の原型が完成したことをもってニンゲンと見なすことになり、あるいはニンゲンとは独立した存在だというのならば母胎外生存可能性で線引きをすることになるでしょうにゃ。
それぞれの特異点ごとにニンゲンか否かの線引きについてもっともらしい理屈をくっつけることは可能ですにゃ。そしてそれらを簡単に不当なものだということはできにゃーわけだ。これは世界観・人間観の問題に直結するからにゃ。


そもそも、0.1ミリの大きさの受精卵と「未」受精卵を肉眼で見分けられるニンゲンってほとんどいにゃーだろ。僕なんて老眼はいりはじめたので(しくしく)、訓練されても肉眼では見分けがつかにゃーだろうな。見分けもつかにゃーものに倫理的地位に違いがあるなんてことは、感覚的に受け付けにゃーですね。
それに、お腹の中に受精卵がはいっていて着床前の分割をはじめているかどうかなんて、どこの誰にもわかんにゃーことだ。着床したとしても、母胎となっている♀に妊娠がわかるのはどんなに早くても3週間以降だよにゃ。検査薬をつかっても、それより以前の妊娠はわからにゃーし、自然流産しても母胎となっている♀をはじめ誰もわからにゃーわけだ。
そこに存在しているかどうかもわかんにゃーものがニンゲンなの?
受精卵どころか、着床して数週間以内の胚がニンゲンである、というのは、実に観念的で頭でっかちの理屈だと思いますにゃ。


というわけで受精をニンゲンの始期とするという見解は実に恣意的なのだと考えますにゃ。無論、他の線引きも恣意的なものにゃんね。
しかし
生殖という連続的なプロセスにおいては特異点はいくつもあり、その中のひとつをもってきて唯一絶対のものだと主張することは、少なくとも「自然科学」とは無関係なものだということは確認しなければならにゃー。
自分たちの特定の信念を、「自然科学的なもの」と擬装して他者に強制しようとする行為は、疑似科学と直接的に通底しますにゃ。バチカンがこんなことしちゃいかん。

原理主義

昔の日本なんかでも、ある年齢になるまではニンゲンと見なさなかった、ある年齢まではまだ【彼岸】の存在と考えていたという話もありますよにゃ。なんせ乳幼児死亡率が高すぎるし、ちょっとしたことですぐに飢饉となり、間引きも仕方のにゃーことだったりと、生まれてすぐにガキをニンゲンとみなすことが親にもまわりにも辛過ぎることだったからでしょうにゃ。
ここではまた別の基準、別の理路で線引きがなされていたわけですにゃ。


ニンゲンの存在の根本をたどって人命尊重、とか言い出すと、何らかの還元主義におちいってしまうのではにゃーだろうか。
「ニンゲンになる可能性のあるものがニンゲンである」と言い出したら、受精卵や、ことによると精子や卵をニンゲンと見なさなければならにゃー。「他者とのかかわりである」ということになったら、着床時からニンゲンとなるよにゃ。その他、パーソン論とか、ほかにもいろいろ線引き基準はあるのだろうけど、どれをとっても何らかの意味で
「ニンゲン存在の本質はこれだあああああ! だからここからニンゲンでーす」
というお話なんだよにゃー。


つまりは一見すると自然科学に依拠してみえる線引きは、実はそれぞれの人間観の表明でしかにゃーわけだ。もちろん、自然科学の知見は参考にしてもいいんだけど、あたかも「自然科学的」に線引きをしているような議論はみーんな嘘っぱちね。
カトリックが、天動説や進化論といった自然科学の新しい知見にあれだけ抵抗したあのカトリックが、発生学についてはもともとの教義をすすんで投げ出して新しい自然科学の知見を喜んで取り入れたことにはそれなりの理由があるでしょうにゃ。
まあ、このあたりのことはまた今度やろうかにゃ。


単一の基準でニンゲンか否かの線引きをするのは、何らかの意味で原理主義的なものといっていいでしょうにゃ。自然科学を装うものは、原理主義疑似科学の悪質なコラボですにゃ。
もっとイイカゲンでいいのではにゃーだろうか?


まず、僕たちと同一の十全たる人権という重要な線引き、生物学的にニンゲンである以上に社会的にも人権を認めるべき線引きであれば、ほぼ全員が同意でき、かつ理解できるような【恣意】である必要がありますよにゃ。これはもう、出産しかにゃーだろ。発生学を理解しにゃーとならにゃーような人権概念って、一定の知能をもったヒト以外を排除する人権概念にゃんからね。
それに、僕たちと同一の十全たる人権を胎児に認めると、いろいろと不都合なことがでてくることは以前も触れましたしにゃ。

【胎児の権利】をいつから認めるか

で、限定された【胎児の権利】を認めるかについてですにゃ。胎児はいつからニンゲンになるかと言い換えてもいいかもしれにゃーですね。


以前のエントリでは、【胎児の権利】には意味がないと述べましたにゃ。これは、人工妊娠中絶にいたった理由のいかんを問うという論点では【胎児の権利】には意味がなくなってしまうというお話だったにゃんね。


ただ、理屈でそうなるという話を実際にひっかぶる側はたまったものではにゃーということもよーくわかるにゃ。産婦人科なんて、ガキが好きでなきゃやってられにゃーだろうに、中絶は辛いことだろにゃ。特に、ある程度大きくなってニンゲンの形をした胎児の中絶なんて精神的に実に厳しいだろ。


また、お腹が大きくなってくるということは、そこに胎児が存在すると周囲にもわかるということを意味していますよにゃ。医学的な手段を使わなければそこに存在するかどうかもわからにゃーようなモノに、限定されたものとはいえ【権利】もへったくれもにゃーだろうけど、そこにあるということが誰にでもわかるようになったら、ちと話は違うのではにゃーだろうか。後期胎児はけっこう動くし、心音だってしますにゃ。


この、お腹が大きくなって周囲に妊娠が知られる時期と、胎児の見かけがだいぶニンゲンっぽくなってくる時期と、母胎外生存可能性がでてくる時期と、中枢神経系の原型ができてくる時期、あたりが22週あたりになるんで、限定された【胎児の権利】ってのはこのあたりから認めていいのではにゃーだろうか。
イカゲンで申し訳にゃーのだが、このあたりがいいと思うにゃー。
取得時効(他人の物または財産権を一定期間継続して占有または準占有する者に、その権利を与える制度)という考え方もアリかと。


まあ、妊娠したのが児童である場合とか、母胎が危険な場合とか、そういった事情のもとではある程度妊娠期間がすぎていても【母胎の権利>胎児の権利】となるわけにゃんが。


逆にいえば、母胎となっている♀(と医療者)にのみその存在が知られている胚から初期胎児には、いかなる権利も認めにゃーということになりますにゃ。妊娠にいたった理由がいかなるものであっても、この時期は中絶が認められるべきだと考えますにゃ。
それどころか、より簡便で安全な人工妊娠中絶の方法が完全に自由に認められるべきでしょうにゃー。具体的には「RU-486」などね。


長くなったので今日はここまでですにゃ。まだ続きを書かざるをえにゃーですね。
今日は、イイカゲンにいこうというイイカゲンなお話でしたにゃー。

*1:自発呼吸は不可能

*2:「偶然と必然」の著者 1965年ノーベル医学生理学賞受賞

*3:数人の医師から反論され、再反論している

*4:実は三木成夫は大好きです。根がオカルトだからな、にゃっはっは