自由の哲学の陥穽をユング心理学で確認する

意志に自由があるという信仰 - 地下生活者の手遊びで約束したことを書きますにゃ。

ユングにおけるタイプ論

ユングの主著のひとつにタイプ論という大著がありますにゃ。日本語版で六百頁にわたり延々と性格類型を論じた本ですにゃ。タイプ論の全体的見通しについては、http://starpalatinatheworld.hp.infoseek.co.jp/kouza/02.htmlをご覧くださいにゃ。ただ、タイプ論の面白さは実際に手に取って読んでみにゃーと伝わらにゃーものだけれど。


ここではタイプ論における内向・外向という概念を基に論じてみますにゃ。
ユングによれば、性格類型には根本的にことなる2つのタイプがあるのですにゃ。関心の向きが常に外界・客体にあるタイプ(外向)と、自らの内界・主体に関心が向かうタイプ(内向)ですにゃ。私見では、ウェーバーのいう「神々の闘争」は、ユングのいう心理的タイプの違いに由来するところも大きいのですにゃ。


タイプ論から記述を拾ってくるとちょっと冗長になるので、「心理臨床大事典」培風館書店 の簡潔な記述を引用しますにゃ。
また、思考機能にしぼって引用を適当に補足しますにゃ。


外向類型の特徴
外向的な人間の特徴は、客体のもつ意義を高く評価して、自分の態度を常に客体との関係で、または客体を基準として決定しようとする。すなわち、彼の主要な決意や行動は、客観的な状況、集団的な妥当性などに左右されるのである。もちろん、外向的な人間にも主体的な考えは存在するが、あくまでも外的な対象との関連において考え、感じ、行動し、外的な状況を拠り所として自分自身を方向づけようとするのである。
外向的な人間は主体の要求と外界の要求を比較する時、明らかに外界の要求を重視するので、主体は無意識的な方向に押しやられ、抑圧され、退行する結果、著しく未分化で自己中心的な傾向を無意識にもつことになる。P120


外向タイプの人間は客体に常に関心を持ち、そこに価値の源泉がありますにゃ。具体的にいうと、友人であり仕事であり社会的成功が価値あるものとなりますにゃ。政治的にいえば、国家や共同体にその価値をおくことになることが多いでしょうにゃ。
洗練されない外向タイプは、表面的で八方美人で浅薄、権威によわくスノッブということになりますにゃ。洗練された外向タイプは、現実性と柔軟性があり、他者への深い理解と多様なものへの寛容、多元主義的な思考をなしえるわけにゃんね。
一般的にその思考は、経験主義的・決定論的・多元論的・懐疑的・性悪説支持の傾向となりますにゃ。ユングのあげる外向思考型の典型はダーウィンですにゃ。



内向類型の特徴
内向的な人間の特徴は、客体が優位に立つことを予防しなくてはならないかのようにふるまい、できるだけ外的な状況から逃げようとする。すなわち外的な状況そのものではなく、状況が自らの主体によって知覚された認識・見解こそが行動の基準となる。さらにいえば、自己元型と自我を同一視さえすることになるのである*1はことなる。つまり、内向的な人間にとっては、客体はただ主体的見解を形成するために触発させるだけの副次的なものとしてしか扱われないのである。
内向的な人間は明らかに主観的見解を重視するので、客体が軽視され、主体の優越・自由が確保される。すると、客体が抑圧される結果、主体の優越を破壊するような不安に襲われることになるのである。P120


内向タイプにおいては、主体に関心が向かうというよりは、客体に心的エネルギーが奪われにゃーように外界から自らの関心を遮断するということも多くみられるそうですにゃ。外界に価値を置きえにゃーので、外部に対する主体の自由が確保されなければならにゃーわけだ。
洗練されない内向タイプは、愚図で夢見がちの非コミュ、利己的で頑迷ということになるでしょうにゃ。洗練された内向タイプは、確固とした己を持ち周囲に惑わされることなく、理念的なものへの深い理解と誠実さをもち、透徹した精緻な思考をなしえるわけにゃんね。
一般的にその思考は、合理主義的・非決定論的・一元論的・独断的・性善説支持の傾向となりますにゃ。ユングのあげる内向思考型の典型はカント。


内向思考型の典型としてのサルトル

カントのほかにはルソーなども極端な内向タイプといわれていますにゃ。内向タイプの説明を読んでわかるとおり、自由主義思想の系譜ってのは内向タイプの系譜といってもいいかもしれにゃー。「主体の優越・自由の確保」が内向タイプの眼目ですからにゃ。その中でも、サルトルほど極端な内向タイプは珍しいのではにゃーかと。
サルトル哲学における自由とは - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)でも紹介されている「図解雑学 サルトル」が手許にもあるので、これを参照しつつ自由主義の極端な例としてサルトルの思想を検討してみますにゃ。


例えば、サルトルの外界に対して向けられる態度の典型として、こんなセリフがありますよにゃ。


僕を食べ尽くす他人の視線。地獄とは他人のことなのだ。
戯曲「出口なし」より


ユングによれば外界(=他者)に自らの心的エネルギーを奪われてしまうことが内向タイプにとっての恐怖ですにゃ。他者との関係に齟齬を感じるのが内向タイプの特徴なんだよにゃ。
「僕を食べ尽くす他人の視線。地獄とは他人のことなのだ」ほど内向タイプをはっきりと表すセリフってなかなかあるものではにゃー。まさに引用した「客体が抑圧される結果、主体の優越を破壊するような不安に襲われる」ことの典型ではにゃーか。
タイプ論から引用すると


自らの意志に反して絶えず客体に威圧され、それによっていつまでも尾を引く不快きわまりない激情が誘発され、客体がどこまでも彼を追跡するのである。彼は「自分を保つ」ために、ぞっとするような内的作業を絶えず必要としている。
P408

まさに、他人が地獄であるということだにゃ。


「図解雑学 サルトル」P50のコラムに、サルトルがたいそうな「自然嫌い」であることが書かれていますにゃ。自然を感じさせるものは何であれ嫌悪をおぼえ、緑を見るのすら嫌がっていたということにゃんな。そして、酒・タバコ・アンフェタミンアスピリン・コーヒーなどを大量に摂取していたとのこと。
外向タイプは自然好きが多いのですにゃ。自然の多様性に意識を向け、そこから喜びを得ることが多いわけにゃんね。ユングが外向思考タイプの典型としてダーウィンをあげたのは故あることですにゃ。一方、ドラッグ好きというのは、自分の内界に主な興味を持つヒトがはまるものにゃんね。サルトルは実に極端な内向タイプだにゃ。


「図解雑学 サルトル」によれば、サルトルは 「関係」の哲学者 だそうですにゃ。無論サルトルほどの哲学者が単純な独我論を振り回すことなどありえにゃーけれど、それでもやはりその哲学においてもサルトルは基本的には主体ベースの内向タイプに思えますにゃ。
例えば、P30にある記述


彼は、意識は閉じた「内部」ではなく、「外へ」(ものそのものへ)向かって破裂する運動そのものだ、と考える。彼は言う。「意識のうちには、自己を逃れる運動、自己の外への滑り出し以外は何もない。(・・・)意識は「内部」を持たない。意識は、それ自身の外部以外の何ものでもなく、意識を意識として構成するのは、絶対的な脱走であり、実体であることの拒絶である」


一見すると外部を重視しているように思えますにゃ。しかしさ、実はここには内部と外部(あるいは個と社会、一と多といってもいい)の対立そのものが見られにゃーよね。意識が全世界を包含しているようなものの見方ですにゃ。
僕にはトンチ小話のように思えるにゃ。小さな袋(=意識)を渡されて、「この袋に世界全てを収めてみよ」、といわれ、袋の裏表をひっくり返して(=破裂させて)、「この袋に世界全てを収めました」と言い抜けるトンチ。
内向タイプの定義にあるごとく「外的な状況そのものではなく、状況が自らの主体によって知覚された認識・見解こそが行動の基準」となっていますにゃ。というか、サルトルはあまりにも極端な内向なので、「外的な状況そのもの」が存在していることすら認識できず、「自らの主体によって知覚された認識・見解」をもって外部と見なしてしまっているということなのでしょうにゃ。事実、初期サルトルにおいては、意識とはそもそも個別的な誰かの意識という性格をもたない非人称的なものだとすらいっていたようですにゃ。意識と他の意識ですらなく、普遍的なる、一なる意識に世界が包まれているのですにゃ。まさに自己一元論ではにゃーか。


サルトル哲学における自由とは - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)で紹介されている「くそまじめの精神」を外向・内向の観点から見てみましょうにゃ。


わたしたちの にちじょうせいかつは「芝生(しばふ)にはいるな」とか、「税金(ぜいきん)を はらいなさい」といったものをはじめとした さまざまなきそくに かこまれている(これをサルトルは「にちじょうてき道徳(どうとく)」と言う)。しかし、そうしたきそくは、ちょくせつわたしたちの行動を「けってい」しているわけではない。じっさいは「きそくに したがう」とじぶんで きめたからこそ、きそくが いみをもつのである。


外向タイプにおいては外部に直接意味を感じるわけですにゃ。だから、「きそくに いみがあるから、きそくに したがう、と じぶんで きめる」というロジックになるはずですにゃ。
と、こう書いても内向タイプは納得できにゃーだろうけどにゃ。意味付けとか価値付けというものを行うのは、社会なのか個人なのかというのも結局は「神々の争い」であり、外向タイプにとっては価値の源泉は社会であり、内向タイプにとっては価値は個人の内部からでてくるものだということですにゃ。


さて、いくつかのポイントからサルトルは極端な内向タイプの思想家であることを確認しましたにゃ。しかし、内向タイプであるからいけないとか劣っているということは、まったく ぜんぜん だんじて もうとう ございませんにゃー。練り上げられた極端さというのは個にゃん的にも大好きだし。また、この論点だけでサルトル哲学を語り尽くせるなどという思い上がりもありませんにゃ。サルトルの極端な内向性は事実であると確信しているけれど、内向タイプという指摘だけですむような思想家ではにゃーことはよくわかっていますにゃ。

内向タイプの陥穽

とはいえ、内向タイプの思想がどういう弱点を持つのかを指摘しておくのも悪くはにゃーだろう。ルソーの一般意思のヤバさを考えるのもオモチロイけど、せっかくだからサルトルに突っ込ませていただきますにゃ。


レヴィ=ストロースに「野生の思考」を書かせたのは、実はサルトルだという話がありますにゃ。少なくとも、執筆の動機のひとつであることは間違いにゃーだろう。「野生の思考」の訳者後書きにそのあたりの顛末が書かれており、とりあえずサルトルのほうから人類学をdisったということらしいですにゃ。
具体的には、「未開人」が「複合的認識」をもち、分析や論証の能力をもつということをサルトルは認めなかったのですにゃ。つまりは西欧世界の特権性を主張してしまった。ストロースにいわせると


自然学を築こうとしたデカルトは、人間を社会から切り離した。人間学を築こうとするサルトルは、自分の社会を他の社会から切り離す。
「野生の思考」P300


サルトル植民地主義を激しく非難しましたにゃ。「図解雑学 サルトル」にもそう書いてある。ヨーロッパ中心主義を否定したはずですにゃ。しかしサルトルは「未開人」の思考を自分たちの思考とまるで異なるものだと見なしてしまったのですにゃ。


なんでこんなことになってしまったのか?
ユングが内向思考型の弱点について述べた箇所を引用しますにゃ。


客体との結びつきが欠けているため彼の意識は主観的になり、その結果彼には、ひそかに自分の人格と最もつよく結びついているものが最も重要に見えてくる。
「タイプ論」 P416


サルトルが西欧文明を特別視するのは必然だったのかもしれませんにゃー。


さらにタイプ論から引用をつづけますにゃ


内向的思考の場合には自らの空想イメージを展開できるようにするため、事実を自分のイメージの中にむりやり押し込めたり、事実をまったく無視してしまう危険性をもっている。この場合そこに表されている理念がもうろうとした太古的なイメージに由来するものであることは否定できない。こうしたイメージは神話的な特徴を帯びているが、これはたとえば「奇抜」であるとか、よりひどい場合には突拍子もないと思われてしまう。というのはその太古的な性格が神話的モチーフに精通していない専門研究者には見抜けないからである。
「タイプ論」 P411


以上がユングいうところの内向思考型の一般的弱点にゃんが、レヴィ=ストロースはまさにその点を突いてサルトルをdisっていますにゃ。


サルトルが安易な批判をたくさん重ねて未開人と文明人の区別を強調するのは、彼が自分と他者の間に設定する基本対立を、ほとんどそのまま反映している。ところが、サルトルの著作におけるこの対立の表現法は、メラネシアの野蛮人のやり方と大差はなく、また実践的惰性態の分析は、アニミズムの言語をそのまま復活させただけのものである。
「野生の思考」 P300


先のエントリで、他者不在の自由をさして胎児だとか信仰だとかいったけれども、最もふさわしいのは「神話的」という言葉だったかもしれにゃー。始源の世界における制約なき完全なる自由というのは神話的モチーフの典型なのですにゃ。
ま、最初から神話のことを語っていたら、「社会のことをいっているんだ」と言われたかもしれにゃーけれども。


サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。
「野生の思考」 P300


レヴィ=ストロースは言いますにゃ。自らのコギトの虜囚となり、サルトルは神話的なものに呑み込まれてしまった。
そうすると結局はどうなってしまうのか?


内向型の思考は、しだいに永遠の妥当性をもった原イメージへ近づくよう理念を発達させる点において、能動的総合的である。ただし客観的経験との結びつきが弱まるとこの理念は神話的になり、その時の時代状況に対しては真実味がなくなってしまう。したがってこの思考が同時代人にとって価値を持つのは、これがその時代になじみのある事実と明白に納得のいくように結びついている間だけである。ところがこの思考が神話的になると、何の価値もない自己満足的なものになってしまう。
「タイプ論」 P417


まさにこうしたことがサルトルとその思想におこってしまったのではにゃーのだろうか?


さて、id:lever_buildingとのやりとりのまとめのつもりで書いたんだけど、いろいろと補足しなければならにゃーことも出てきましたにゃ。けれど長くなったしここでいったん筆をおきますにゃ。ちかれた。

*1:ユング心理学においては、自我はコンプレックスだが自己は元型であって、ぜんぜん別物。乱暴にいえば、自我は機能的なものだけど、自己は存在論的なもの