内向と非コミュ

連休の三日間かけて脳をアルコール洗浄していましたにゃ。昼間から飲むと疲れますにゃー。今日はもうぐったり。


先日のエントリの最後に、補足するとか書いたけど、アルコール脳洗浄の結果それも面倒になってきたにゃ。最低限の補足だけしておこ。


僕自身は明らかに内向タイプですにゃ。だから内向タイプをあまりDISりたくはにゃーんだよね。内向タイプは基本的に役立たずで夢見がちな非コミュなんだけど、これはこれで良い点もあるわけですにゃ。
というのも、外向タイプというのは外的世界に適応するのがうまいのだけど、おかしな社会、差別的な社会、弱者を犠牲にする社会にも適応してしまい、それが正しいと思ったりしてしまうということがありがちなのですにゃ。社会に適応するのが必ずしも正しいことにはならにゃーんだよね。
ニンゲンの内的世界にある普遍的妥当性を指標とするのが発達した内向タイプであるといえるわけで、


分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。 分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。 ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない。

バーナード・ショウ

ここでバーナード・ショウの言っている「分別のない者」ってのが内向タイプの積極的イメージだと僕は思うのですにゃ。世界に対する違和感って大事なことだと思う。


あと、内向タイプって、はてな村でいわれている「非コミュ」とも関連しているように思えましたにゃ。例えば非コミュ - オレ理論の定義によれば


非コミュ


他者との社会的関係性が能動的・受動的に関わらず、絶たれている、もしくは殆ど繋がっていない状態・その状態に陥っている者を指す。主に、当事者内における他者に対する心理的な態度・姿勢を定義したものであり、慣例的な社会的行動・コミュ行動を実行する能力の有無とは関係はない(この辺が はてなダイアリーでのキーワードの定義と異なる。つまり、コミュニケーションスキルの有無を基準としているわけではない)。学校、会社などにおいて、普通の人(非・非コミュ)と変わらない生活を送っていながら、クラスや職場の人々と深い交流・関係性を築くことができない、もしくは積極的に行わない場合も軽度の非コミュとしてカテゴライズされる。故に、一見、通常のコミュニケーションが行われているようでも、心理的な側面において、周囲との関係性が絶たれている(いわゆる"浮いている"状態)場合は非コミュと認定する。


ただし、一般的にコミュ能力は日常のコミュニケーション行動の頻度に依存するので、コミュ能力の欠如=非コミュとして認識されることが多い。


なお、重度の非コミュは精神病や犯罪、引き篭もりなどと共に述べられることが多いが、筆者はそのような非コミュの扱いに違和感を覚えていることをここに明記する。


ということで、これは先日のエントリで引用した


内向的な人間の特徴は、客体が優位に立つことを予防しなくてはならないかのようにふるまい、できるだけ外的な状況から逃げようとする。すなわち外的な状況そのものではなく、状況が自らの主体によって知覚された認識・見解こそが行動の基準となる。


内向的な人間にとっては、客体はただ主体的見解を形成するために触発させるだけの副次的なものとしてしか扱われないのである。


自らの意志に反して絶えず客体に威圧され、それによっていつまでも尾を引く不快きわまりない激情が誘発され、客体がどこまでも彼を追跡するのである。彼は「自分を保つ」ために、ぞっとするような内的作業を絶えず必要としている。

あたりにピタっとはまりそうに思えるんだけどにゃー。
「周囲との関係が絶たれている」という定義と、ユングのいう「外界からの関心・興味の引き上げ」というのはほぼ同じことであると僕には思えますにゃ。


ユングの言うとおり「主観的」という言葉がDISりに使われる社会というのは外向タイプ優位の社会といえますにゃ。内向タイプには生きづらい。
気が向いたら、非コミュ非モテ・内向タイプの相関関係について、内向マンセーの方向性でエントリをあげよかな。


ちなみに
socioarc | 非コミュ指数テスト
をやってみたところ、僕は

でしたにゃ。
このテストでいう「無関心型」ってのが内向タイプのことなんだよにゃ。