なにものよりも おのれ自身に擬する銃口を


トラバがきてにゃーのでしねよ カス!経由で知ったのだけど、http://rodless-hermit.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_3002.htmlにおいて、lever_buildingと僕とのやりとりが論評されていますにゃ。
ここから結論部を引用するにゃ


そうそう、これ書いてからちょっと上の人のブログを遡って読んでみたんですがまぁこれは… なんだろうこのキモいまでの日本社会への敵意。 在日なの? これだけ嫌いならとっとと出てけばいいのに。 僕も社会不信なところはあるけどさ、どう考えたら北朝鮮がパラダイスに思えるのか分からない。 あの国のパフォーマー達の不自然な笑顔が全てを物語ってないか? 感性がやばいぞ。


さて、ここで「在日」呼ばわりされているのはlever_buildingであって僕ではにゃーわけだ。むしろここのブログ主「杖無き隠者」に僕は好意的に見られているといってよさそうだにゃ。
それがにゃんとも腹立たしい。
「このキモいまでの日本社会への敵意。 在日なの? これだけ嫌いならとっとと出てけばいいのに。」
などと発言する輩に好意的に見られるなど、僕もヤキがまわったのかもしれにゃーな。僕は「在日認定」される側にいたつもりだったのだけれどにゃー。


よいかね、「杖無き隠者」クン
まず、lever_buildingの「敵意」は日本社会に向けられたものとはいえにゃーことはわかるかにゃ? 彼の「敵意」はある種の「かんがえかた」に向けられたものであることは字を読めればわかるはずなんだけどにゃ。日本語が満足に読めにゃーくせに、よくもまあ日本人様ヅラできるものにゃんな。
さらにその決定的な誤読の上にのっかって、「キモイ」という生理反応。
さらには、「キモイ」から「在日」に、「在日」から「出てけばいいのに」という連鎖。
見事な差別主義の豚連鎖だにゃー。
こんな輩に賛同されても立つ瀬がにゃー。


さて、以下は一般論。
ある日本人がおり、生まれた時からいままでずっと日本の社会に生きているとするにゃ。彼にとって社会とは日本の社会であり、社会に対する批判的思考というのは、当然ながら日本社会に対する批判的思考になるのが道理だよにゃ。批判的思考力を持つ日本人であれば、日本社会を批判することになるのは必然であるのに、日本社会を批判すると「在日認定」、つまり「非国民」呼ばわりする輩は後を絶たにゃー。頭蓋骨にウンコでも入ってるんだろか?
自らに向かうものでなくては批判とはいえず、批判こそが思考の核であることをかんがみるに、この手の連中が否定しているのは、考えることそのものなのだにゃ。


思考することを知っているものであるのなら、日本人であれば日本を批判し、男性であれば男性を批判し、異性愛者であれば異性愛者を批判するはずだにゃ。それが考えるということの核心にあるはず。
なぜ自らに銃口を向けないのか? 
自らに銃口を向けることのにゃー社会性は、アリやハチの社会性と異なるものではにゃーのに。
この手のアリンコどもはいくらでも涌いてくるから始末におえにゃーな。


他者を想定しない根源的な自由がニンゲンにあるとしたら、それは自分自身に銃口を突きつけるところにしかにゃーはずだ。
鮎川信夫の詩を引用する。


兵士の歌


穫りいれがすむと
世界はなんと曠野に似てくることか
あちらから昇り むこうに沈む
無力な太陽のことばで ぼくにはわかるのだ
こんなふうにおわるのはなにも世界だけではない
死はいそがぬけれども
いまはきみたちの肉と骨がどこまでもすきとおってゆく季節だ
空中の帝国からやってきて
重たい刑罰の砲車をおしながら
血の河をわたっていった兵士たちよ
むかしの愛も あたらしい日付の憎しみも
みんな忘れる祈りのむなしさで
ぼくははじめから敗れ去っていた兵士のひとりだ
なにものよりも おのれ自身に擬する銃口
たいせつにしてきたひとりの兵士だ
おお だから……
ぼくはすこしずつやぶれてゆく天幕のかげで
膝をだいて眠るような夢をもたず
いつわりの歴史をさかのぼって
すこしずつ退却してゆく軍隊をもたない
……誰もぼくを許そうとするな
ぼくのほそい指は
どの方向にでもまげられる関節をもち
安全装置をはずした引金は ぼくひとりのものであり
どこかの国境を守るためではない
勝利を信じないぼくは……
ながいあいだこの曠野を夢みてきた それは
絶望も希望も住む場所をもたぬところ
未来や過去がうろつくには
すこしばかり遠いところ 狼の影もないところ
どの首都からもへだたった どんな地図にもないところだ
ひろい曠野にむかう魂が
……どうして敗北を信ずることができようか
かわいたとび色の風のなかで
からっぽの水筒に口をあてて
消えたいのちの水をのんでいる兵士たちよ
きみたちは もう頑強な村を焼きはらったり
奥地や海岸で 抵抗する住民をうちころす必要はない
死の穫りいれがおわり きみたちの任務はおわったから
きみたちは きみたちの大いなる真昼をかきけせ!
白くさらした骨をふきよせる夕べに
死霊となってさまよう兵士たちよ
きみたちのいない暗い空のあちこちから
沈黙よりも固い無名の木の実がはじけとび
四月の雨をまつ土にふかく射ちこまれている
おお しかし……
森や田畑やうつくしい町の視覚像はいらない
ぼくはぼくの心をつなぎとめている鎖をひきずって
ありあまる孤独を
この地平から水平線にむけてひっぱってゆこう
頭上で枯れ枝がうごき つめたい空気にふれるたびに
榴散弾のようにふりそそぐ淋しさに耐えてゆこう
歌う者のいない咽喉と 主権者のいない胸との
血をはく空洞におちてくる
にんげんの悲しみによごれた夕陽をすてにゆこう
この曠野のはてるまで
……どこまでもぼくは行こう
ぼくの行手ですべての国境がとざされ
弾倉をからにした心のなかまで
きびしい寒さがしみとおり
吐く息のひとつひとつが凍りついても
おお しかし どこまでもぼくは行こう
勝利を信じないぼくは どうして敗北を信ずることができようか
おお だから 誰もぼくを許そうとするな。


この詩は鮎川の詩の別のキーワードである「必敗者」とその自由のことをうたったものだと僕は思う。この詩につけくわえるようなことはにゃーのだが、それでも自由については近々もう一本エントリをあげるつもりですにゃ。他者をDISった以上、吐き出せるものは吐き出しておくべきだよにゃ。

おまけ

それと、関連したエントリにゃんが、おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがーで言われていることについて特に異論はにゃーのだが、あえて「在日」ってのは素敵なことなのではにゃーのかと言ってみたい。
中世の神学者、サン・ヴィクトルのフーゴーはこんなことを言っているようですにゃ


祖国が甘美であると思う人は、いまだ繊弱な人にすぎない。
けれども、
すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。
がしかし、
全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。

「兵士の歌」と同じことを言っていると僕は読みましたにゃ。


在日のトモダチは何人かいるけれど、僕の知る限りでは複雑でタフな奴ばかりですにゃ。総連系民団系を問わず、日本にも、北朝鮮にも、韓国にも、さらにいえば在日の社会にも独特な距離感をもっていますにゃ。少なくとも、アリンコのような社会性を振り回したりはしにゃーな。
在日にとっては、世界は現実的に「流謫の地」なのではにゃーかと思いますにゃ。排除は憎むべきことだけれども、それによってニンゲンが鍛えられるということは確かにあるのかもしれにゃー。
世界が現実として流謫の地であることは、悪くにゃーのかもしれにゃー。M.フーコー福祉国家批判とも関連が出てくるところかもしれにゃーのだが。