神ならばわれを殺せ。死の練習と自由について


「哲学は死の練習である」とソクラテスは喝破していますにゃ。不断の思索と行動によりニンゲンは自らの魂を鍛えることができること、そして自らの死によって大いなる自由を手に入れることができるという逆説を説いているのでしょうにゃ。
ソクラテスのいう「死の練習」と自由について、その最良の例と確信する事例を今昔物語集から拾ってみますにゃ。7月8日に公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ やねごんの日記に難癖をつけて以来、自由について考えてきたけれども、「殺す自由」というものがあるのならばどういうものなのかを考えたくもありましたにゃ。


今昔物語集 巻第二十六 に 「美作の国の神、猟師の謀に依りて生贄を止むる語」という物語がありますにゃ。「しっぺい太郎」などの民話のもとになった話と思われますにゃー。この物語の全文と現代語訳については以下のブログを参照のこと。
ここでの現代語訳は僕がテキトーにやりますにゃ。


この物語の詳細についてはリンク先を参照してもらうとして、状況を簡単に説明しますにゃ。
猿神の支配する地があり、そこでは年に一度、嫁入り前の娘を生贄として猿神に差し出すきまりがありましたにゃ。ある夫婦の娘が次の生贄にされることが決まり、家族そろって泣き暮らしているときに、東人がその里にやってくるにゃんね。


然る間、東の方より、事の縁有て、其国に来れる人有けり。此の人、犬山と云う事をして、数たの犬を飼ひて、山に入りて猪・鹿を犬に噉ひ殺さしめて取る事を業としける人なり。亦、心極めて猛き者の、物恐ぢせぬにてぞ有りける。


この語りが上手い。古典として残った説話というのは、無数の語り手によって語られていくうちに洗練されたものですにゃ。オリジナリティとか作家性とかいうものも否定はしにゃーが、多くの人の手による洗練というものの力も非常に大きいものがありますにゃ。2chなんかでも、あっという間にある種のホラ話が洗練されて完成度の高いものになりますよにゃ。百年単位で無数の人の手によりじっくりと洗練されたのが、こうした説話ですにゃ。
話がそれたにゃ。
ここで登場した「犬山」という男がカコイイ!
まず、話は美作の国、今の岡山ですにゃ。時代は平安時代にゃんね。当時は東人というだけで、アウトローのイメージがあったと思われますにゃ。しかも、彼は「犬」を使っての狩りを生業とするものであり、「山」の民であることがわかりますにゃ。
ここで彼が山の民であることは重要ですにゃ。というのも、ここで猿神に支配されている土地とは「里」になるからですにゃ。wikipedia:常民から引用すると


常民(じょうみん)とは、民俗伝承を保持している人々を指す民俗学用語である。「庶民」の意味に近いが、様々な定義がある。この言葉を最初に使用した柳田國男は、明確な定義を示したことはなかった。

現在は使われないが、元来は「山人」に対する「里人」を意味していた。民俗学創始者・柳田は、初期研究において村などに定住せず山々を巡り歩いた山人を研究していたが、彼ら山人に対して一般の町村に住む人々を指す意味で「常民」を使用した。しかし、研究の対象が里人に移るに至って、意味は変わっていった。


とのことで、学術用語としての「常民」の曖昧さはともかく、「山人」と「里人」の2種の人々がいたということはまあ間違いにゃーところだろ。そして、この「里人」というのは民俗伝承を保持し共有する人々といっていいでしょうにゃ。言い換えれば、オキテに守られ、そしてオキテにしばられている人々なのですにゃ。
娘を生贄に決められた夫婦は、オキテにしばられてどうすることもできず、ただ泣き暮らすほかはなかったのですにゃ。ここで現われるのがアウトローの犬山、犬で猟をする山の民というだけで、語りを聞いているものの期待は高まったことでしょうにゃ。さらにその風貌は「心極めて猛き者の、物恐ぢせぬにてぞ有りける」というだけで十分伝わりますにゃ。
この男は、生贄に決められた娘をみそめてしまい、親にあって話をするにゃんね。


世に有る人、命にまさる物なし。亦、人の財(たから)にする物、子にまさる物なし。其れに、只一人持給へらむ娘を、目の前にて膾すに造せて見給はんも、糸心疎し。只死に給ひね。敵有る者に行き烈れて、徒死為る者は無やは有る。仏神も命の為にこそ怖しけれ、子の為にこそ身も惜けれ。亦其の君は今は無人也。同じ死にを、其の君、われに得させ給ひてよ。われ其の替に死に侍なむ。其れは己に給ふとも苦しとな思ひ給ひそ


この論理展開が粗いけれども見事なのだにゃ。
世の中に命より大事なものはなく、子どもより大事な宝はない。一人娘を目の前で殺されて食われるくらいなら、いっそ死んでしまえ。だが、敵を目の前にして無駄死にするものがどこにいるというのか? 神や仏も命が惜しいから恐ろしいのだ。子どものためにこそ命が惜しいのだ。娘さんはもう死人も同じじゃないか。同じ死ぬのなら、娘さんを俺の嫁にくれ。俺がかわりに死んでやろうじゃないか。


この男は、きっと山で死にかけたことがあるのではにゃーだろうか? あるいは里人との交流のある山の民として、共同体と個人ということを常日頃から考え抜いていたのではにゃーだろうか? つまりは「死の練習」をやりつづけていたのではにゃーだろうか?
娘はすでに死人も同然であり、おまえらのような情けない親は死んだほうがマシなので死人であり、俺も代わりに死んでやるから死人であり、だから神も仏も怖いことなどないのだと説く。ここでこの男が説いているのは、流謫の地に自らをおく者の論理、自らに銃口を突きつける者の論理、自らをゼロにして自由を獲得する、いわば絶対自由の論理ですにゃ。ついでに言えば、娘を俺の嫁にくれというロジックも見事にゃんな。


さて、この男はいろいろと謀略を仕込み、生贄の日を迎えますにゃ。
謀略は成功し、猿神をまな板のうえに引き倒して犬山は叫ぶ。クライマックスにゃんな。


「汝が人を殺して、肉村を食ふは、此く為る。しや頚切りて犬に飼ひてん」と云へば、猿、顔を赤めて目をしば扣きて、歯を白く食ひ出して、涙を垂りて、手を摺れども、耳にも聞入れずして、「汝が多くの年来、多くの人の子を噉へるが替りに今日殺してん。只今にこそ有るめれ。神ならばわれを殺せ」


この箇所を読むたびに目頭が熱くなると白状しておきますにゃ。もーサイコー。
「おまえが人を殺して食ったので、こうしてやる。おまえのそっ首たたき落として、俺の犬に食わせてやる」
「おまえはずいぶん長い間、たくさんの人の子を食ってきた。今日はかわりに俺がおまえを殺してやる。さあ、覚悟しろ。神ならば俺を殺してみろ」
「俺が代わりに死んでやる」といったとき、犬山という男は何かを突き抜けてしまった。そのときに神殺しの自由を得たのだと僕は思いますにゃ。だから「神ならばわれを殺せ」と言えた。
語りを聞いていたヒトタチもここでカタルシスどっぴゅんどっぴゅんだったと思われますにゃ。


さらに、ある宮司に殺された猿神がのりうつり、さらに命ごいをしますにゃ。
「もう生贄は求めない。生き物も殺さない。男に罰も与えない。娘にも両親にも手を出さない。だから殺さないでくれ」
宮司たちも男に、「神がこうおっしゃっている、おそれおおいことだ。許しなさい」
しかし男は言いますにゃ


「われは命惜しからず。多くの人の替りに此を殺してん。然して共に無く成りなん」


俺は命は惜しくない。多くの人に代わってこいつを殺すんだ。こいつとともに死んでもよい。
民族派のテロルの論理ですにゃ。テロルの論理というのは、一人一殺とか、一殺多幸とかいう形式なのではなく、「俺は命は惜しくない。多くの人に代わってこいつを殺すんだ。こいつとともに死んでもよい。」なのだと僕は思いますにゃ。
ユーミンシュシュギを肯定する身として、テロルは政治的には肯定しがたいのだけれど、己の死を前提とした束縛なき絶対自由の立ち位置からなされることは、それがなんであれ心情的にも倫理的にも否定できにゃーです。なにより防ぎようがにゃーしな。
また、僕たちの暮らす今の社会が、形をかえた猿神支配の里であることを考えれば、やはりこうした自由とテロルを否定することはできにゃーのです。
人を殺す自由はいらにゃーが、猿神を殺す自由を得たいものですにゃ。