そして、ついには一輪の花となる@風姿花伝

この花は、まことの花にはあらず@風姿花伝 - 地下生活者の手遊びおよび一期の堺ここなりと、生涯にかけて@風姿花伝 - 地下生活者の手遊びのつづき

三十四、五


三十四、五
このころの能、盛りの窮めなり。ここにて、この条々を窮め悟りて、堪能になれば、さだめて天下に許され、名望を得べし。もしこの時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくは、いかなる上手なりとも、いまだまことの花を極めぬ為手と知るべし。もし窮めずは、四十より能は下がるべし。それ、後の証拠となるべし。


拙訳
このころの能が最盛期である。ここでこの文章の本意をつかみ、能を自らのものにすれば、まちがいなく天下に認められ、名声を得ることができよう。もしもこの時期に、世間の認知度も不足し、名声もそれほどでないのであれば、どれほど巧みであっても未だに真実の花を極めた役者ではないと理解しなければならない。極めることができなければ、四十を過ぎてから能(の芸)は衰えていくだろう。このことが、花を極めていなかったことを証明することになるのである。


三十台半ばで芸能者として最盛期を迎え、まことの花をえるそうですにゃ。言い替えれば、この時期に最盛期を迎えないようではその後に芸は衰えるばかりであり、どんなに華やかにみえてもまことの花を得たとはいえにゃーということにゃんね。
この年齢は、体力的なもの・容貌・経験・技術、ようするに心技体のバランスがもっともとれた時期といえるのでしょうにゃ。これは芸能に限ったことではにゃーのだが、三十台半ばで自分なりの方法論を確立していなければ、専門化としてもゼネラリストとしても結局は使いものにならにゃーのだという恐ろしいことを述べているようにも思えてしまいますにゃ。能天気な大器晩成志向を粉砕されているようでガクブルですにゃ。
これはごくごく個にゃん的な感覚だけど、10代から積み重ねた30代の切れる奴がガクモンでもビジネスでも純粋な戦闘力がもっともありそうな気がしますにゃ。


ところでこの時期をエリクソンのライフサイクル説にあてはめるのは、ちょいと無理がありすぎなのでパスしておきますにゃ。エリクソン説においては、この成人前期は「特定の相手と深く付き合って自我同一性を確固とする」時期にあたるわけですにゃ。このあたりの話を「芸とのケコンだー」などとこじつけるのは僕の筆力ではかなわにゃーですね。

四十四、五


このころよりは、能の手だて、おほかた変わるべし。たとひ天下に許され、能に得法したりとも、それにつきても、よき脇の為手を持つべし。
(中略)
このころよりは、さのみに細かなる物まねをばすまじきなり。おほかた、似合いたる風体を、やすやすと、骨を折らで、脇の為手に花を持たせて、あひしらひのやうに、少な少なとすべし。たとひ脇の為手なからんにつけても、いよいよ、細かに身を砕く能をばすまじきなり。何としても、よそ目、花なし。もしこのころまで失せざらん花こそ、まことの花にてあるはべけれ。


拙訳
この時期から能の方法論が大きくかわるだろう。たとえ天下に認められて能を自分のものにしたとしても、それ以外によき後継者を持つべきである。
(中略)
このころからはそれほど細部にかかわる物まねをするべきではない。だいたい身丈にあった演技を、らくらくと無理せずに、後継者に花を持たせ、相手にあわせるようにして抑制して演じるべきである。たとえ後継者がいなかったとしても、それこそ、ディティールに拘泥した能をしてはいけない。どうあっても観客の目には花と映らない。もしこのころにまでも消え去らない花があったとしたら、それこそまことの花に違いあるまい。


「脇の為手」とは単なる脇役のことではなく、後継者という説が有力とのことで、その解釈を拙訳において採用しましたにゃ。というのも、この解釈に拠ることがエリクソンのライフサイクル説における


中年期
他者が育つことを助けることができるようになる。それは、自分の子供のみに限らず、部下、後輩などや社会的なものに及ぶ。これに失敗すると、自分のためだけに力を使うようになるため、停滞が起きる。

これにバッチリですからにゃー。


なににしろ、「何としても、よそ目、花なし」だそうですからにゃ。容色の衰えはいかんともしがたいのでしょうにゃ。この時期は年に似合った芸風をこなすことが肝要のようですにゃー。


to have a flower or to be a flower

また、このころになっても失せてにゃー花こそが、「まことの花」と言っているにゃんね。
この「まことの花」なんだけど、例えばE.フロムが「愛するということ(原題:TO HAVE OR TO BE?)」で述べていた論旨にも関連するように思われますにゃ。

生きるということ

生きるということ

フロムのこの著作について深く突っ込む余裕はにゃーのですが、かるく触れておきますにゃ。

  • フロムは持つこと(to have)と、あること(to be)は二つの根本的な存在様式であると考えた
  • 持つ様式においては、所有されるのは主体と切り離された手段であり、人を豊かにしない。
  • ある様式においては、主体は能動的で世界に開放されており、人間そのものが豊かになっていく

この本は、精神分析の見方でマルクス疎外論をヒューマニスティックに料理したものなのではにゃーかと思いますにゃ。*1


この著作の中で、ある様式 の代表のひとりとされているマルクスの言葉(資本論第三巻の終わり近くの言葉)が引用されていますにゃ。孫引きになるけど紹介しますにゃ。引用者が適時改段。


自由の領域は、必要と外的効用に強制された労働が要求されなくなったときに、ようやく始まる。
中略
社会化した人間が合同の生産者として、自然とのやり取りを合理的に調整し、自然を共同で管理し、盲目的な力によるかのごとく自然に支配されることをやめること、およびこの仕事を成し遂げるに当たって、エネルギーの費消を最小にし、人間性に最もふさわしく、最もよく値する条件のもとで行うこと。
しかし、それはあくまで必要性の領域である。それを越えた所から始まるのが、かのそれ自身を目的とする人間的な力の発達であり、真の自由の領域であるが、それはしかしあの必要性の領域を基礎として初めて開花しうる。労働時間の短縮は、その基本的前提である。
P210


「それ自身を目的とする人間的な力の発達」こそ「真の自由の領域」なのだけれど、これこそ「ある様式」からの帰結なのですにゃ。「それ自身を目的とする人間的な力の発達」というのは、まさに to be といえますにゃ。*2


さて、ここで話を最初に戻しましょうにゃ。世阿弥の話をするきっかけとなったのはそもそも君らに個性などない - 地下生活者の手遊びで、個性と個体差は違うと述べたことですにゃ。
個体差とは僕たちに与えられたものであり、それが花であるとしても、僕たちはその花を所有しているにすぎないのではにゃーだろうか? 世阿弥のいう「時分の花」とは、所有している花のことなのではにゃーのか?
それに対して、獲得された個性とは、それ自身を目的とする人間的な力の発達によって可能となったことは、まことの花とは、自らが一輪の花になってしまうことなのではにゃーだろうか?


フロムは、持つ様式が現代社会においてあまりにもありふれており、ある様式が理解されにくいと述べていますにゃ。しかし、世阿弥にとっては、ある様式こそが基本だったのではにゃーだろうか。能は肉体の業であり、「真似る」ことこそ「学ぶ」ことですからにゃ。僕たちは肉体を(つまり個体差を)所有しているかもしれにゃーが、その肉体を自由に動かすことがいかに困難かは、ちょっとでもダンスやスポーツの経験がある者にはわかることですにゃ。

五十有余


五十有余
このころよりは、おほかた、せぬならでは手だてあるまじ。「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申すことあり。さりながらまことに得たらん能者であれば、物数はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。


拙訳
この時期からは、大概、何もしないというほかにやりかたはあるまい。「麒麟も老いては駑馬に劣る」という諺もある。とはいえ、本当に会得した能者であれば、演じられる曲目はなくなって、善し悪しの見どころは少なくなっても、花は残るであろう。


この「何もしないというほかにやりかたはあるまい」ってのがスゲエ。
「花鏡」にも同じような記述があって


五十有余よりは、せぬならでは、手だてなしなしと言へり。せぬならでは、手だてなきほどの大事を、老後にせむこと、初心にてはなしや


拙訳
五十歳をすぎてからは「なにもしないというやり方のほかにやり方はない」と言われる。何もしないというやり方以外には、適当な方法がないほどの困難なことを、老後にすることは初心でなくてなんであろうか


ここは有名な「初心忘るるべからず」のところの記述ですにゃ。
エリクソンによればこの時期は


自分の今までの人生を、どんなことがあったとしてもこれでよかった、これしかなかった、と思えるようになる。社会的に成功を収めたからといって、この統合ができるとは限らないし、また、過去に問題があったからといって、統合が出来ないというものでもない。これに失敗すると、このままでは死ねない、と死ぬことに恐怖を感じ、また絶望する。


とのことであり、獲得すべきは「統合」なのだそうだけど、見事に統合を成し遂げてしまったのが世阿弥のいう境地なのでしょうにゃ。
東洋的な賢者の境地って、何かこう胡散臭えものがただよってしまうように感じる中二病の僕だけれど、「何もしないというやり方以外には、適当な方法がないほどの困難なことを、老後にすることは初心でなくてなんであろうか」ってのはちょっと想像外のものがありましたにゃ。
世阿弥に言わせると、そのように自らが死ぬまで初心を忘れず、上達の行き止まりを見せることなくして一生涯を暮らすことが、能の奥義にして秘伝なのだそうですにゃー。
その覚悟において自らが一輪の花となり、真の自由を獲得して、一輪の花としてその生をおえるのですにゃー。

*1:また、人道主義的な反体制が神秘主義と親和性が高いことを示す著作でもあると思われますにゃ

*2:「そのためには労働時間の短縮が前提である」、かー。蟹工船とか資本論にリアリティがある世の中になっちゃってますよにゃー