寄生生物の生きる権利と善きサマリア人法


とりあえず今回で、中絶について考えていた理屈っぽいところをまとめますにゃ。

寄生生物として

映画エイリアンの第一作目。怖かったよにゃ。
あのエイリアンのモチーフは、「望まれぬ妊娠における胎児」という話を聞いたことがありますにゃ。そういえば、「ローズマリーの赤ちゃん」という映画もあったよにゃ。あれは悪魔の子をむりやり受胎させられる話だったっけ。
エイリアンの怖さってのは、体内に寄生する生き物であるというところですにゃ。まさにレイプされて妊娠し、その「胎児」のせいで破滅するということの恐怖があるのでしょうにゃ。母子家庭の貧困率OECD諸国でダントツの我がニッポンにおいて、妊娠して出産することが母親にとって著しい不利益、ことによると破滅的なものを意味することがありえるのは容易に考えることができますにゃ。もちろん、母親だけでなく、周囲、特に先にいるガキとかにとって著しい不利益であることも十分にありえるのでしょうにゃ。


ある生物がほかの生物の体内または体表を生息場所とし、おもに栄養面においてその生物に依存して生活することをいう。寄生する生物を寄生生物または寄生者、寄生される生物を宿主(しゅくしゅ)または寄主(きしゅ)という。共生の一形態であるが、両方が利益を受け合う相利共生や、一方だけが利益を受ける片利共生とは、宿主が多少とも有害な影響を受ける点で区別される。寄生者による障害としては、組織が破壊されたり、各種の腸、口腔(こうこう)、鼻腔などを詰まらせたりする器械的障害のほか、寄生者がなんらかの物質を出して宿主に有害な作用を与える化学的障害、宿主のアレルギー反応による障害がある。障害の程度は、寄生生物の種類、個体数、個体差などによって異なり、ときに宿主の死を招くことがある。


日本大百科「寄生」の項より冒頭部を引用


この「寄生」についての記述、哺乳類の胎児にもあてはまらにゃーかな?
ウィキペディアの「寄生」の記述にも「胎生の動物においては胎児は母親の胎内にあって母親から栄養等の補給を受けているから、胎児は母親に寄生しているということもできる。」とありますにゃ。


寄生と共生については、宿主に害があるかないかの違いのようですにゃ。まるで害虫と益虫、腐敗と醗酵のように恣意的な尺度にゃんね。宿主に害をもたらすのは寄生であり、害をもたらさないものは共生*1ですにゃ。
つまり、
宿主(ここでは母親)に害をもたらす胎児は、母胎に寄生しているといってしまってかまわにゃーでしょうにゃー。

バイオリニストの比喩と善きサマリア人

バイオリニストの比喩、といわれる比喩がありますにゃ。


ある朝女性が目覚めると、熱狂的なファンに拉致されて、さる有名なバイオリニストの体に自らの体を接合されてしまっていた、という状況から始まるものである。このバイオリニストは、他者の臓器を頼ってかろうじて生きられる状態にあり、女性の身体とバイオリニストの身体の結合をといてしまうことは、バイオリニストの死を意味する。この場合、この女性はバイオリニストのために自らの身体を接合されたまま、彼の生命を救う義務があるか、というのがトムソンの問いである。


結論としては、彼女にバイオリニストの生命を救う義務はない。つまり、自らの身体を過度の危険にさらしてまで他者の生命を救う義務は、道徳的に要請されるものではあっても、法的に義務付けられるものではない。従って、仮に胎児に生命権があり、それが女性との接合状態(妊娠)においてしか保障されえなくとも、女性はこの胎児を救済するため妊娠を継続させる義務はない、とトムソンはいう。


トムソンのこの理論は生命倫理学における中絶の議論において、ある種の古典的地位を獲得しており、医学的事由(生命保全、身体・精神の健康)や倫理的事由(強姦による妊娠)に基づく中絶の正当化根拠の説明としては、ある程度成功しているとされる。


http://wwwsoc.nii.ac.jp/genderlaw/download/06/203.pdf(PDF書類) より 引用者が適時改段


さて、■ - リプロな日記によると、トムソンの「バイオリニストの比喩」は、自己決定権を論じたものではなく、


この論文の真髄は「善きサマリア人議論」にあるということを海外の複数の学者が言っています。端的に言えば,「善きサマリア人になることを法的に強制するのはおかしい」ということです。


「善きサマリア人法」をウィキペディアでひくと


「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。アメリカやカナダなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている。


とのこと。立法化されたら医療訴訟などにおいて大きな意味を持ちそうですにゃ。
この「善きサマリア人法」については以下の議論も重要ではにゃーかと。


Judith Jarvis Thomsonは、有名な論文"A Defense of Abortion"で、普通の人間ならまずできるごく小さな親切を施す最小限の善きサマリア人と、いかなる自己犠牲をも省みない超人的な善きサマリア人とを区別してみせて、「善きサマリア人法」は前者になることを義務づけることはあっても、後者になるよう強制しはしないと指摘します。なぜなら、誰か(たとえば胎児)のために、他の誰か(たとえば女性)が自分の命や人生をすべて投げ打つことを法的に強制されるとしたら、それは一種の奴隷制度となり、万人の平等に反してしまうからです。


身の危険を顧みず強姦犯に立ち向かっていくことを、乗客たちに強制することはできません。(できるのは、彼らの善意が少しでも実を結ぶように、法律だろうと、制度だろうと、その障壁となりそうなものをことごとく撤廃していくことくらいです。)そうしていく責任は、社会の側にあります。


さらにトムソンが優れているのは、その“法”を命じるのは誰か、という点にも目を向けたことです。自分自身は絶対に“超人的な善行を期待されるサマリア人”の立場にはなりえない人々が、そうした立場になりうる他の人々に対して「超人的な善行を成せ」と強制することの非倫理性をトムソンは突いたのです。1970年代始め、女性差別反対の声が世界中を席巻しており、バイオエシックスがようやく羽ばたこうとしていた時代のことでした。


■ - リプロな日記より

寄生者としてのバイオリニスト

この比喩におけるバイオリニストは、「寄生者」といえますにゃ。この比喩をバイオリニストの側から言い換えると

  • 他者に寄生して生きる権利は、ニンゲンだろうがニンゲンでなかろうが誰も持っていない


以前に僕は「ガキはフリーライドしてよい」と述べたことがありますにゃ。ガキも弱者も、社会に頼って生きることは当然だと思いますにゃ。それこそ、何のための社会なのか、ということですからにゃ。
しかし
ここで問題にしているのは、一個人に対するもの、しかも生物学的に寄生といいうる事態に対して「他者に寄生して生きる権利」などは誰ももってにゃーと言っているのですにゃ。ここは重要だから誤読しにゃーでね。「社会の寄生虫」などという比喩的な意味では使ってにゃーからね。



もし、バイオリニストに寄生する権利がある、ということになったら、それはこの女性を奴隷とすることになりますにゃ。もし何かの賠償義務を負い、そのために働かなければならにゃーとしても、自分の時間を持つ自由というものはありますにゃ。もし犯罪をおかして刑務所に入れられたとしても、身体に他者をつながなければならにゃーということにはなりませんにゃ。寄生して生きる権利を誰かに認めるということは、寄生されるものに「奴隷となれ」と命ずるに等しい。
つまり、寄生する権利を認めるということは、誰かを奴隷にするということですにゃ。


さらにいっておくと、胎児に寄生する権利があるのならば、母体にとっては自殺=他殺になりますにゃ。僕は自殺の自由を認められにゃーのですが、自殺と他殺が同じものだとも考えられにゃーです。しかし、胎児に生存の権利があるのであれば自殺=他殺ですにゃ。奴隷の自殺というのは、主人の財産権を侵害することになるので、奴隷の自殺は禁じられていましたにゃ。自殺が必然的に他者の権利を侵害するという点では、胎児の権利があると仮定された場合の母体はまさに奴隷にゃんね。


さて、トムソンの「バイオリニストの比喩」を紹介したPDF書類での森脇健介氏の議論によると、バイオリニストの比喩は自己決定権の圏内における議論であり、レイプや医学的自由における中絶を正当化することには成功しているということらしいですにゃ。
しかし、リブロの日記によればこれは「善きサマリア人法」の議論だということであり、だとするとこの比喩における問題の射程はレイプや医学的自由における中絶を正当化することにとどまるものではにゃーでしょう。
妊娠にいたる理由がなんであっても、自らを破滅させうるものを体内に寄生させなければならない、という強制をすることの是非が問題となっているのではにゃーでしょうか。

まとめ

3/26のエントリにおいて

  • 経済的理由における人工妊娠中絶を単純には否定できないこと
  • 日本の社会は(たぶん世界のどの社会も)胎児に僕たちと同等の権利を認めていないこと
  • 共同体として優生思想にコミットすることを避けるためには、胎児の権利には意味がないこと

4/2のエントリにおいて

  • ニンゲンの始期について単独の理由から決定することは現実に不可能であること
  • いくつかの理由を組み合わせて、恣意的に胎児の権利の発生時期を合意するしかないこと

4/8のエントリにおいて

  • 胎児の権利とは仮面をかぶった性道徳であること
  • 中絶を減らしたければ女性の自己決定権を認め、社会的・経済的地位の向上に努めるべきであるということ

本日のエントリにおいては、善きサマリア人法にふれつつ

  • 胎児がいかなる存在であろうと、他者に寄生して生きる権利はないこと
  • 寄生する権利を認めることは、奴隷をつくりだすということ


以上から、
胎児にジンケンを認めるなどというのは問題外でまったくお話にならず、限定的な胎児の権利についても、無意味であるうえに♀を奴隷化するものであるということになりますにゃ。
しかし、
それでも生命尊重とか宗教感情をシカトするつもりはなく、また中絶を施術する医師の負担などを考慮すると、ある一定のラインで胎児の権利という虚構を、虚構であることを理解しつつ認めてもよいのではにゃーかと考えますにゃ。

*1:宿主に益をもたらさない片利共生というものもあるので、宿主にも益があるものが共生とはいえない