反体制運動とオカルト
「護憲運動」のお歴々が9.11陰謀論に感染していて困ったもんだという話がありますにゃ。そのあたりの事情がよくまとまったものとしては、「陰謀論系ニセ科学批判」の可能性について - 玄倉川の岸辺なんかがありますかにゃ。
僕は政治的には民族派アナキスト江戸時代大好きセクトであり、憲法に抵抗権・革命権を明記したら国家の交戦権を認めてやるぞ改憲派なんだけど、護憲運動の悪口をあまり言いたくはにゃーんだよね。それにしたって情けにゃーのは引用元の言う通りであるとは思いますにゃ。
9.11陰謀論にせよ、水からの伝言にせよ、出来の良くにゃーオカルトですにゃ。
しかし、いわゆる反体制運動とオカルトは、もともと切っても切れにゃーものなのかもしれにゃー(政治運動はオカルトでもいいじゃん、と思わにゃーでもにゃー僕がいる)。
エリアーデ「オカルティズム・魔術・文化流行」より引用
ボードレール、ヴェルレーヌ、ロートレアモン、ランボーから、現代の作家、アンドレ・ブルトンやその弟子たちに到るまで、これらすべての作家たちは、オカルトをブルジョワ的体制とそのイデオロギーに対抗する強力な武器として利用した。彼らは現代の公的な宗教、倫理、社会慣習、美学を拒否する。P91
彼らがグノーシス派その他の秘密結社に関心を寄せたのは、彼らの並外れたオカルトの知識のためばかりではなく、そのような団体が教会から迫害されてきたからであった。P92
ボードレールからアンドレ・ブルトンに到るまで、フランスの前衛作家や前衛芸術家にとってオカルトに掛り合うことは、西欧の宗教的文化的価値に対する最も有効な批判と拒絶のひとつを表していたのである。P93
政治運動を大きな文脈で捉えたいのならば、つまり政治の刷新には文化における刷新が必須であると考えるのであれば、現代における支配的な価値観を拒絶するよすがとしてなんらかのオカルトをもってくるのはロジックとしてありえるし、「敵」を全体として否定するというのは政治運動としてはアリだし、僕としてはあまり責められにゃーですね。ニンゲンは呪術思考から完全に逃れえることは不可能であり、理性至上主義もひとつの宗教になっちまいということもありますしにゃ。ドーキンスなんか悲惨なことになっとるし。
文明批評において、一神教の野蛮さに対する多神教の優位、ということが語られることがありますにゃ。多神教の肯定的評価というのが、エリアーデのいう「西欧の宗教的文化的価値に対する最も有効な批判と拒絶のひとつ」という側面もあるのでしょうにゃ。ちょうどwikipedia:多神教優位論という項目があるので、そこから引用してみますにゃ。
多神教優位論(たしんきょうゆういろん)とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など『アブラハムの宗教』とよばれる一神教、若しくはその他の一神教の教えを本質的に劣等なものとみなし、対抗して多神教の優越性を主張する思想のことである。とりわけ現代では反イスラーム主義などの影響で多神教の「寛容性」を主張し、一神教を「攻撃的」であると決めつけて批判する場合が多い。
多神教優越主義者は、一神教は「唯一の神」を信奉するため他宗教に対し本質的に非寛容であると主張し、対して多神教は多くの神を認めているため他宗教に対し寛容であると唱えている。
近年の日本では、アメリカの対テロ戦争への協力を通じた反イスラーム意識の勃興とナショナリズムの高揚が相まって、日本古来の宗教である神道や外来の宗教ながらも深く日本に根付いた仏教などのキリスト教・イスラム教に対する優位性を語る主張が一部で支持を集めつつある。梅原猛や養老孟司などは盛んに仏教や神道のキリスト教、イスラム教に対する絶対的優位性を説き、一神教を本質的に不寛容であると決め付け攻撃している。
多神教優位論なんてものは、理性至上主義と同じように身贔屓の寝言にすぎにゃーと僕は疑っているけれど、それはここでは突っ込まにゃー。ただ、この問題に関心のある向きは「一神教と多神教をめぐるディスコースとリアルポリティーク」、『宗教研究』第345号 | 論文 | 研究活動 | 小原克博 On-Lineをご覧いただきたく思いますにゃ。
そしてまた、この一神教・キリスト教と西洋自然科学というのは、思想史的にいって密接な関連があるということもよくいわれていることですにゃ。それに、環境運動とか反戦運動の関連から、巨大科学技術への批判的な視線というのがでてくること自体は当然であると考えられますにゃ。
ここで、科学技術について「キリスト教的なもの」として拒絶される素地がでてくるように思われるのですにゃ*1。体制=一神教=科学技術=悪=支配のイデオロギー、という感じで連関していくと同時に、オカルトというのは、この「支配のイデオロギー」に対抗するものとなってしまう。
ところが、20世紀以降、自然科学というものに「キリスト教的なもの」という意味合い以外のものがオカルト側からみると入り込んできているのですにゃ。
先日のエントリでも引用したデューイに関する文章にゃんが
自然界の真理にかんしもっぱら確定性と固定した法則とに探求の目を向けてきた科学において、ハイゼンベルグにはるか先立ってダーウィンが不確定性の原理を導入したことをデューイは明らかにしたという評価が、デューイ論においてなされている。
にゃんせ、名前が「不確定性原理」だろ? 不確定性ですよ、不確定性。教条的で暴力的で一神教的じゃにゃーんだよ、にゃんとなく。だからきっとエコで平和主義でしなやかで連帯を求めているにちがいにゃーのだ、にゃんとなく。お仲間に相対性理論とかゲーデルの不完全性定理とかあるんだにゃ、にゃんとなく。
実際、量子力学や相対性理論がなければ、ニューエイジなんてものはなかったか、少なくともあんなに流行ってなかったのではにゃーだろうか。
ここで、科学のイメージが分割するにゃんね。
と
こんな感じで科学が分かれてしまったんではにゃーだろうか?
で、この「良き新しい科学」が反体制のヒトタチにオカルト的に受容されて蔓延するわけにゃんね。支配者のイデオロギーを十把一からげに否定できて便利にゃんからなあ。
この、科学を分割して、自分にとって都合の良いところは肯定して、都合の悪いところを否定する、って論法は、実はオカルト反体制の側にかぎったことではにゃーんだ。科学技術批判に対して、科学と技術を切り離して科学を弁護するという「逃げ(としか僕には思えにゃー)」論法も同じようなもんだしにゃ。
科学に2面性があることは確かではあるし、ダブスタ抜きで科学に向きあうのは実は結構ムツカチイことなのかもしれにゃー。
また
この「良い新しい科学」のイメージが疑似科学の温床となっている一面もありそうですにゃ。
で、科学側から疑似科学だと批判されたときには「悪しき旧い科学」側、つまり体制側からの攻撃とみなし、自分たちのもち出す科学技術(水で走って酸素を出す自動車とかな)は「良い新しい科学」としておけば、どんな批判にもびくともしにゃーぞ。特に、現段階で異端とされる説とか技術ほど、反体制としての正しさを証明するものとなってよろしいということになるから始末におえにゃー。
すべてを貫く矛と、すべてを阻む盾を装備しちゃっているわけだにゃ。
反体制というものはもともとオカルトと親和性があり、ラディカルにやろうとするほどいろんな「体制的」な「敵」が複合していっちゃって、オカルトにブーストがかかってしまうという一面があるんでしょうにゃ。
追記:5月16日早朝
コメント欄にも書いたけど、「反体制運動が現実の拒絶で何がワリイ」とまず僕は思いますにゃ。だからオカルトと親和性が高いことは、困ったもんなんだけど無下に否定できにゃーわけです。それに、僕は出来の良いオカルトは肯定するし。
政治的運動において、オカルト的なものが少しでも認められたら即却下というのは、教条的にすぎるのではにゃーだろうか? 例えば人権思想にしたって、人間存在の神聖性に基盤をおく最広義の呪術的・宗教的発想であり、役に立つ出来の良いオカルトと僕は判断しているわけで。
これも「線引き問題」なんじゃにゃーだろうか?
オカルトの混じらにゃー合理的で科学的な思考における対話を重視する政治運動というのは一方の極にあるイデアで、オカルトも陰謀論も何でもアリの烏合の衆の野合の運動というのが一方の極にあるイデア。
疑似科学と科学の間に明確な線引きができにゃーように、「まとも」な運動とダメな運動の間に明確な線引きはできにゃーのだと思いますにゃ。ちゅうか、線引き問題についての私見 - 地下生活者の手遊びで引用した谷川俊太郎の詩「灰についての私見」にある
どんなに白い白も、ほんとうの白であったためしはない。一点の翳もない白の中に、目に見えぬ微小な黒がかくれていて、それは常に白の構造そのものである。白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐくむと理解される。存在のその瞬間から白はすでに黒へと生き始めているのだ。
ということなのではにゃーかと思う。
「疑似科学と科学の哲学」の結論部で伊勢田がいうように、複数の指標を複合的に用いて、「線を引かずに線引き問題を解決する」方向でいくしかにゃーように思われますにゃ。特に、政治運動については各々がその判断をする必要があるのではにゃーかと。
PSJ渋谷研究所X: 憲法9条と911陰謀論をめぐって3【追記あり】とかhttp://d.hatena.ne.jp/demian/20080514/p1とか読んで考えたことを書いてみましたにゃ。
特にPSJ渋谷研究所Xで言われている
せめてものルールとして「あるテーマで集まるイベントぐらいでは、せめて共有できてない主張はしまっておく」というぐらいの慎みは発揮してもらわないと、まんべんなく迷惑だろうな、と思うわけですよ。
具体的には「9条世界会議」みたいな場では、陰謀論の宣伝なんかは、さすがに勘弁してくれ、と。
ってのは具体的な指標としてもっともだよにゃ。