呪術、宗教、資本主義:トリアージをめぐって

メモ的に酔っ払いの思いつきを
なぜトリアージの話に「ひっかかる」ヒトが多いのかについて。
トリアージというのは、「パイの大きさ」が一定であることを前提とした生き死にに直接かかわる医療資源の奪い合いを、少しでも多くのニンゲンが納得できるようなルールで運営しようという話ですよにゃ。


資源が増えていく、という資本主義の論理は、人類史上せいぜいここ200年の話ですにゃ。それまでは、基本的にはずーっと「パイが増えない」ということがジンルイの前提だったのではにゃーのだろうか?
呪術思考・神話思考においては、むしろ「パイが増えない」のが前提ですよにゃ。「パイが増えない」ことを前提として社会も成りたっている。神話・呪術というのはゼロサムゲームを前提としていることが多いにゃ(特にマナとか)。


例えば、神話における創造というのは、世界が今の姿でつくられたいきさつを説明するものですにゃ。そして、世界が発展し拡大していくもの(つまり資本主義的な世界観にがっちするもの)として作られたという神話を僕は見たことがにゃーですね。だからこそ神話には「始源」が必要とされるわけだけれど。
そこでは、生産力の増大というものがにゃー世界ですにゃ。正確にいうと、生産力の増大が前提とされていにゃー世界。つまり、神話の提示する世界というのは、【トリアージ=間引き】が日常的に必要となる世界であるといえるのではにゃーだろうか。


一神教の場合は、全能の創造神であるがゆえに、創造をおえると世界から姿を隠すことになる(特に理神論)。多神教の場合は、創造神は創造を終えると、統治神に席を譲ることになるんだにゃ。創造神は創造を終えると消えるわけですにゃ。


先のエントリで、「パイが増えない」からヒトが死ななければならにゃーことが「かわいそう」だからこそ、ヒトは生産力の増大に向かうのだということを書きましたにゃ。資本主義が現実的に世界中で支持されているのは、【トリアージ=間引き】を要求する現実を僕たちニンゲンが否定したいからなのではにゃーのか?


ひるがえってみるに、宗教というものも、【トリアージ=間引き】を否定するための運動だといえるのではにゃーだろうか?
間引きが日常化している社会で、間引きをどう考えるかということは圧倒的なリアリティをもった問題であると僕は思う*1
神話・呪術と宗教とを区分する基準はいくつかあるのだけれど、【トリアージ=間引き】を前提とするのが神話・呪術であり、前提としながら否認するのが宗教というのも成りたつのではにゃーのか。


トリアージ=間引き】を説明するのが神話・呪術、それを否定しようとする志向性が宗教だとすると、生産力の増大によって間引きの必要性が小さくなったときに宗教が力をなくしていくのはわかる気がするにゃ。
また、経営学が呪術に陥らにゃーことを願いたいところにゃんね。

*1:4月初旬にやっていたチンパンジーの子殺しなんかが根っこなんだろか