安全装置としての愚行権

mojimojiから再反論をいただいたにゃ。すでに寝言の域に達しているようですにゃ。
どうも行き違い感が結構あるので、これ以上続けるのなら、すまにゃーけどこちらからの問い掛けにちゃんと答えてほしいにゃ。答えて欲しい問い掛けには番号をふっておくから。ああ、もちろん、mojimojiからの問い掛けて僕が答えてにゃーと思われるものがあったらそう言ってね。問われたことから逃げるつもりはカケラもにゃーので。お互いにそのほうが話が早いと思うのですにゃ。


僕が主張してきたことの中に、愚行権を侵害するようなことは含まれておりません。


誰かが、mojimojiは愚行権を侵害しているといったんか?(1)


ここでの「愚行」は、人間の可能性の条件として捉えられているのであって、「バカでいる権利」みたいな話とは全然違います


へえ?
愚行権は私的領域でのみ成り立つ、と僕が書いたことは覚えているかにゃ? 引用されたミロの議論では、領域設定がされてにゃーようだけどにゃ。


私的領域で愚行をする権利はにゃーのかね?(2) タバコすう権利はにゃーのかね? ウンコ食べるとかは?


もちろん、馬鹿よりは賢いほうがいいに決まってるにゃ。少しでも賢くなりたいと僕も日々思っているよ。馬鹿に開き直りたくはにゃーですね。
でもさ
どっかのえらそうな奴らが居丈高に僕の私生活に干渉してきたり、あるいは権力が私生活の馬鹿ぶりに口をだしてきたら「馬鹿で何がワリイ」と言うほかにゃーんだが。権力に対して「バカでいる権利」を主張できにゃーんだったら、愚行権なんて実際に何の意味もにゃーだろうが。mojimojiのロジックでは、最終的に「真理」に従わなければならなくなるだろ。愚行権を形骸化させてるのはチミのほうさ。


人々が「愚行」を通じて自らを作り上げていく、新たな考えを生み出していく、そういう可能性に開くためには、単に「愚行」が許される(強制によって禁止されない)以上のことが必要だということも主張されます。さまざまな人々がなぜ、いかなる「愚行」を行ったのか、そういう自由な思想と言論の流通を認め、一人一人がそうした異なる考え方に触れながら、個々人はそれぞれに自分の考えを作り上げていく。そういう枠組みがあるわけです。


だから、愚行を批判するのは勝手にやってくれ、といってるだろ? 
もちろん忠告も説き伏せも説得も懇願も好きにすればいいだろが。
誰かが愚行批判をやめるべきだとか言ったかい?(3)


tikani_nemuru_M氏のように「バカはほっておく」というスタンスも、討議の空間から切り離すという意味ではまったく同じであり、愚行権を擁護するどころか、その前提を掘り崩している。そこでの愚行権は、まるきり形骸化してしまっているわけです。


エホバ信者の認識枠組みと、非エホバの認識枠組みは、ゾーニングして仲良くやっていきましょう、なんて話は無理なんですよ。最初から。


うんうん、寝言は寝て言ってくれ。
誰が「バカはほっておく」スタンスなんだい? 誰がゾーニングして仲良くやっていきましょうなんて言ってるんだい?(4)
他者危害という行為に介入せよと僕はいっているだろ。ここが読めにゃーってのはさすがにひどすぎ。人格でも思想でもなく、行為を問題にすることは、「バカをほっておく」ことになるのかい? それに、繰り返すけど愚行批判をやめろなんて僕はいってにゃーしな。


 エホバの証人の信者からすれば、そもそも「何が愚行か」が問われているわけです。で、あちらにすれば、みすみす永遠の命を失うことになる輸血なんてことが「愚行」なのであり、許しがたいわけです。あまり考えたくないですが、次のような状況を考えてみましょう。エホバの証人の信者が多数派であるような社会があるとし、そこではたとえば次のような主張がなされるわけです。「成人の非エホバ信者には愚行権があるから、自由に輸血したらよい、しかし、子どもにまで同様の愚行を強要するのは、子の「永遠の命」を毀損する他者危害行為であるから、親権の認められる範囲を超えている」。立場を入れ替えただけで、同じことをしてるわけですよ。


 また、子どもに問題を限定することも、根本的な解決にはなりません。仮に、15歳未満の子どもだからという理由で輸血をした場合、その子はエホバの信者になる権利をあらかじめ毀損されていることになります。エホバの教義に「15歳以前の輸血では汚れない」とでもされているなら別ですけども、そんなことはないわけですから。その子に輸血することは、その子を永遠にエホバから遠ざけることを意味します。輸血をした以上、エホバの教義の中では救われることはありえないわけですから。タバコや酒を禁止する、なんて話とは訳が違うんですよ。


はい、寝言。
先のエントリでもリンクした2008-02-29のコメント欄から引用


NATROMNATROM 2008/03/01 09:01
参考にした「自己決定権の限界〜エホバの証人輸血拒否事件をめぐって〜」では、「なぜ親の刑事責任が問われなかったのか非常に不可解である」とありますね。日本では親の裁量の範囲がきわめて大きいと思います。虐待事例になかなか公権力が介入できないことの一因でしょう。


話は変わりますが、輸血されたら永遠の命がもらえなくなるってのは、神が禁じていることを知りつつ自らが輸血を選択したらの話だそうです。明確に輸血拒否の意思を示していたのに勝手に輸血されたってのはOKってこと。もちろん、エホバの証人に入信するまえに輸血されたことがあるってのもOK。それを考えると、親も子も輸血を拒否していたのに医師から輸血されても、復活できなくなるわけではなさそうです。


エホバの証人の方々もおおっぴらには言えないでしょうが、こういうガイドラインが出来て良かったと思っている人もいるのではないでしょうか。以前だったら輸血を拒否して死んだら、将来の復活を信仰していたとしても悲しみが軽くなるわけではないでしょう。川崎事件で輸血を承諾しなかった親もめちゃくちゃ悩んだと思います。ガイドライン後は、「私たちは信仰を貫こうとしたのに勝手に輸血をされた」と言えます。将来の復活がなくなるわけでなし。


知らないこと自体を責めるつもりはにゃーし、リンクしていたとはいえたくさん張っていたし、しかもコメント欄のことだからにゃ、読んでなかったのも目をつぶろう。
だけどさー、知りもしにゃーことを断言しちゃうのはさすがにいただけにゃーな。ハズカチイぞ。


ついでに言えば、僕は成人のエホバ信者でも輸血すべきだ、と思いますね。仮に、ある医師が、成人のエホバ信者の命を救うために輸血をしたとすれば、僕はそれを擁護するでしょうね。tikani_nemuru_M氏だったら、「愚行権の侵害だ」といって批判するんでしょうが、バカげた話だと思いますね。


これも先ほどの話から、無理やり輸血されてもエホバ的には救いがなくなるわけではにゃーので、実はそれほど問題にならにゃーかもしれにゃー。また、僕は医療パターナリズムを必ずしも否定しにゃーので、このケースで医師を責めることはしにゃーね。
ただし
mojimojiが成人と子どもを分けることの意味がわかってにゃーということは確認できたにゃ。つまり愚行権がわかってにゃー。


成人(いわゆる精神病者をのぞく)は、自己についての適切な決定をする能力があると「みなす」ことが重要なんだにゃ。
はっきり言って僕はガキだ。精神年齢は低い。うちの三歳児といい勝負だにゃ。
もちろん、バカ大人は僕だけではにゃー。石を投げればバカ大人にあたるだろ。
でもな
どんなバカでも自己について適切な決定をする能力があると「みなす」ことが人権思想の根拠だろ。よって、その「みなし」にしたがって、成人の自己決定は尊重されるべきなんだにゃ、たとえそれが愚行に見えようとも。この「みなし=愚行権」はとても重いもののはずなんだけどにゃ。
なぜなら、

  • 「啓蒙の暴力」を最小化するための安全装置がこの「みなし=愚行権」だから

なのですにゃ。
しかし
ガキという存在は、僕より賢いガキなんざいくらでもいると思うけど、たとえ賢くても自己決定の能力があるとはみなされにゃー。そして、被保護の対象とされるわけですにゃ。十全な自己決定をガキに認めるわけにはいかにゃーんだよ。ガキに対して啓蒙の暴力をふるうのが大人の務めなのよ。
能力や人格なんて客観的に確かめることができにゃーから、年齢で線引きするしかにゃーんだよね。成人とガキはキッチリ分けて別扱いをしなければならにゃーんだよ。


 虐待やネグレクトについては、少なくとも悪意と呼びうるものがあるかと思いますが、医療ネグレクトは違うわけです。その意味で、これを「医療ネグレクト」と呼ぶことは、誤解や混乱を招くと思いますね。現にtikani_nemuru_M氏において招いているように。


これが今回のキング・オブ・寝言。
虐待について基本的なところを知らなかっただろ?(5)


「虐待やネグレクトについては、少なくとも悪意と呼びうるものがあるかと思いますが」
はあ?
悪意が意識化されている虐待やネグレクト(以下、虐待とだけ書く)なんてかえって少数派なんでにゃーの?*1 しつけ という名目とか、無意識的なものがでてしまうとか、そういうものも多いはずにゃんが。ガキへの虐待という他者危害は、心理的には自傷行為の類いだろうにゃ。
虐待というのは行為であって意識ではにゃーのだよ。
すんごく基本的なところのはずにゃんが、にゃるほど、ここがわかってにゃーんだから話が食い違うはずだにゃ。虐待の「構成要件」に悪意を入れるというロジックでは、多くの虐待が虐待とみなされることはにゃーだろう。


僕なら、「啓蒙の暴力」を恐れず、子どもを助けよう、同時に親を助けよう、と思います。しかし、一人よがりな啓蒙による悲惨を招かないためには、最大限、相手を目的として語りかける、真理をめぐって争う、議論する、という態度が重要なわけです。それでも、完全に回避することはできませんが。しかし、対話の営みに徹底的にこだわることによってのみ、その可能性は開かれるわけです。それしか道はない、と思いますね。少なくとも、やることはやっておいて、自分は「啓蒙の暴力」を免れているかのような顔をしたくはないなぁ、と思います。それこそ、危険の兆候ですから。


ダウト!


このロジックであれば、mojimojiはこの母親と向き合う必要があるはずなんだにゃ。
NATROMがこの母親の行為をあげつらって、いわば「レイプ」したと仮にいうのであれば、mojimojiの十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君のブログ。みたいな。は「セカンドレイプ」以上のものではにゃーだろうに。108回も「バカ」を使っているらしいし。


NATROMが「ブログのタイトルの「自分探しの旅」というところにヒントがあるように思うが、そこから考えるべきなのだろう。」と発言したことをmojimojiは批判しているけれど、「バカ」「間違っている」と自分が連呼することはどうなの? NATROMとmojimojiのどっちがこの母親にヒデエこといってるのかにゃ? 僕だってこの母親の行為しか問題にしてにゃーつもりにゃんが。
「自分は「啓蒙の暴力」を免れているかのような顔をしたくはない」ことを示すためにバカバカいうわけ? それって啓蒙の暴力に開き直っているだけなんでにゃーのかね?


NATROM(や僕)が行為を問題にしているのに対して、mojimojiは思想や能力を問題にしちゃっているのだにゃ。それが啓蒙の暴力に片足つっこんでいるのは自覚しているようだけど、開き直るなよ。


一人よがりな啓蒙による悲惨を招かないためには、最大限、相手を目的として語りかける、真理をめぐって争う、議論する、という態度が重要なわけです。


「相手を目的と」するパターナリズムが啓蒙の言い分であり、そのロジックでは啓蒙の暴力は暴走するだけ。「真理をめぐって争う」ことこそが啓蒙の「同一性」中心主義ではにゃーのかね?


啓蒙の暴力に自覚的であるのはご立派なことですにゃ。啓蒙の大切さについては、僕だって頭ごなしに否定するつもりは本当はにゃーしね。啓蒙が必要な局面があるとわかっているからこそ、安全装置である愚行権と私的領域を強調しているんだにゃ。
チミの啓蒙には安全装置がにゃーのだよ。また、チミの「疑似科学批判の批判」はただの精神主義にしかならにゃーぜ。「相手のためになる批判、相手を目的とした批判」って、具体的にどういう批判だ?(6) この質問に答えられなければ、チミの発言は空念仏にゃんぞ。
なんなら、件の母親を説得してみてくれにゃ。ホメオパシーのたまり場につっこむのもいいにゃ。mojimojiの「相手を目的とした」カコイイ批判が見たい。
要求するつもりはにゃーよ、ただの希望。

*1:虐待の原因についての統計を見たわけではないけど