寝言はいいかげんにしてくれ

劣化する一方のmojimojiからさらに反論をいただきましたにゃ。寝言は寝て言えと前回もいってあるはずにゃんがねえ(げんなり
最初にいっておくけど、自分の人生をかけて青臭いことを言うのは嫌いではにゃーが、安全圏から他人の生命をかけて青臭いことをいう欺瞞は許し難い。


「相手を目的として語る」とは、直接語りかける場合には、相手は説得可能であることを前提として、相手を説得するという目的を保持して語るべきだ、ということを言っています。


「相手を目的として語る=相手を説得するという目的を保持して語る」なの? orz
こんなアッタリマエのことをいってたの? 脱力が括約筋にまで及んで脱糞しそうだにゃ。
でな、説得っていうのは、相手がぐうの音もでなくなるまでボコボコにすることだって含むんだぜ。ぐうの音も出にゃーってことは、説得されてるってことにゃんからな。
さて、では「説得」してあげよう>mojimojiクン


自分の方が説得される可能性


とmojimojiクンはおっしゃっておいでですにゃ。
このセリフって

  • 基本的に自分が説得する側であるという認識がなければでてこない

ものですよにゃ。
この、「自分(mojimoji)は説得する側・啓蒙する側にたっているという前提は、十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君のブログ。みたいな。以来、mojimojiが一貫してとっている立場ですにゃ。mojimojiは何度も何度も件の母親の認識が愚かであるとか間違っているとか言い続けているにゃんからね。一方、僕は医療ネグレクトという具体的な他者危害に介入せよと主張しているわけだにゃ。


その場合でも、相手がなぜそのような認識を保持しているのかを理解できる可能性があります。相手に同意しないとしても、です。たとえば、「疑似科学を憎んでバカを憎まず」の後半に書いたようなことがありうるわけです。こういう態度こそが、啓蒙の暴力の暴走とやらを、止める可能性を持ちます(こういう態度「だけが」とは言いませんが)。


 僕が考えていることはこういうことです。で、「また、実際にビリーバーさんがその考えを変えることは、それが重大なものほど期待できなくなってきますにゃ。認知的不協和ってやつが働いちゃうんだよにゃ」とか言ってる人が、こういうことを考えていないというのも明白なことです。まぁ、理解できないことだとは思いませんが、時間のかかることだと思います。


「相手がなぜそのような認識を保持しているのか」を理解することは大事にゃんねえ。だからこそ僕は呪術ネタを繰り返し書いているのですにゃ。疑似宗教と堕落した神話 - 地下生活者の手遊びというエントリでは

  • 呪術的・宗教的心性こそが人類の心の基底にある。われわれ人間は理性的な生き物ではない。

とも言っているしにゃ。このことは何度も書いてるだろ。
ビリーバーさんも疑似科学批判者も、心の基底においては同様に非理性的であり、根本的には対等なのさ。馬鹿はお互い様だとわかっているから、相手の「認識」を改めようなどという思い上がったことは最初から頭ににゃーんだよ。



そして、愚行権というのはこの辺から帰結する考え方なんだにゃ。
「馬鹿はお互い様でオツムの程度は同等なんだから、お互いに寛容にいきましょうや。ただし、危害を加えるのはナシね」


僕は確かに愚行権のことを「馬鹿をする権利・愚劣でいる権利」と書いたにゃ。しかしそれは、私的領域における行為について、「客観的」に何が賢くて何が愚行かを決定することができにゃーからだ。どんな行為だろうと、それを愚行と見なす誰かが存在するだろうにゃ。例えば、あらゆるスポーツは愚行だ、と僕は半ば本気で思っているしにゃ。しかし、いくらスポーツが愚行であると僕が考えているとしても、愚行であるという理由でそれを禁止したりすることはやっちゃいかんだろ。
スポーツ好きの「認識」を改める、なんてのもいい迷惑だにゃ。
つまりね、愚行権っていうのは、「馬鹿はお互い様」の寛容の原理をレトリックを用いて定式化したものなんだにゃ。


以上の論点についてはhttp://www.avgas-bb.com/wp/?p=95でも指摘されているよにゃ。


それとな、重大なことほど認知的不協和が強くなるってのは、認知的不協和の定義からしてアタリマエだろ? アタリマエのこと書くと、「こういうことを考えていないというのも明白なこと」に何でなるんだよ。ダイジョブ? オツム弱いんじゃない?



 それはつまり、愚行権があるから、母親の認識そのものは批判しない、ただ、子どもに対する虐待だけは止める、こういうことですね。それって僕が前の記事の「「啓蒙の暴力」に無自覚なのはどっちか」の節で書いた批判がそのまま当てはまりますね。「成人の非エホバ信者には愚行権があるから、自由に輸血したらよい、しかし、子どもにまで同様の愚行を強要するのは、子の「永遠の命」を毀損する他者危害行為であるから、親権の認められる範囲を超えている」、というのとまったく同様の「啓蒙の暴力」を振るっているわけです。


これも頭の悪さ全開。
この妄想理屈のどこがどう愚行権に対する批判になっているわけ?
「何が他者危害とされるかということが異なる社会では、他者危害の対象が異なる」というアタリマエのトートロジーだろ? 他者危害の概念は変わりえるけど、それがどうかしたの?


そして、「愚行権」を掲げて「母親の考えを変える必要はない」と述べるだけでなく、実際に説得を試みもせずに、しかし、子どもだけは取り上げて自分の認識に沿って処置を施すわけです。その処置は本当に正しいのか、を問う審級は、ここには存在しません。ここで愚行権は、母親に対して説得を試みないことの理由になっており、そうである以上、ここでの子どもに対する介入を反省する機会は、自身の内省以外にはどこにもありません。ですから、(6)に関連して述べたことからすれば、愚行権(というよりも、tikani_nemuru_M氏の愚行権の使い方)こそが「啓蒙の暴力」に対する安全装置をはずしてしまっていることになるわけです。


馬鹿にも程がある。
いいか、チミを啓蒙してやる。チミは馬鹿だ。水準以下の馬鹿。
チミは決して啓蒙する側になんている能力はにゃーよ。


いいかあ>馬鹿
「その処置は本当に正しいのか、を問う審級は、ここには存在しません。」
じゃあなんでチミはこの母親を馬鹿だの間違っているだのと言ったんだ?>馬鹿
チミはどういう「審級」に基づいて件の母親を馬鹿だの間違っているといったんだ?>欺瞞馬鹿
「自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて」他者を馬鹿だの間違っているだのということはよくても、他者危害だと判断することは啓蒙の暴力なのかよ>ダブスタ欺瞞馬鹿


 範囲を子どもだけに限定しようと何であろうと、自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて介入することを正当だとみなすならば、それは最悪の「啓蒙の暴力」です。愚行権に基づいてtikani_nemuru_M氏が主張していることは、安全装置であるどころか、安全装置の解除になっています。開き直りはむしろそちらです。


チミはここで、他者危害という判断に基づく緊急の介入を否定していることはわかってるな? これは決定的な欺瞞にゃんぞ。
自己欺瞞の海で溺れる愚昧な馬鹿にもわかるように教えてやるにゃ。
明らかに児童虐待が疑われる事例にチミが出くわしたとしよう。顔を知っている程度の近所だが、何らかの事情で児童虐待を知ってしまったとする。
この場合、チミには1人の市民として、あるいはオトナとして、しかるべき機関に報告する義務があると考えられるにゃ。しかし、チミと虐待親とが「自他の認識をぶつけ合う」必要がどこにある? そんなことをしたらかえってまずいことになることくらいわかんにゃーのか? 「認識のぶつけ合い」とかいうチンケなチミの理想に酔っぱらっている間にガキが死ぬだろが。


「範囲を子どもだけに限定しようと何であろうと、自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて介入することを正当だとみなすならば、それは最悪の「啓蒙の暴力」です。」だと?
他者危害ってのは、典型的には犯罪なんだよ。
刃物を持った成人がいきなり部屋に上がり込んで来たときに、「自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて」警察を呼んだり、バットで相手の手足をたたき折ったりしてはいけにゃーのかね? 本屋の店主が万引きを見つけたら、万引き犯と「自他の認識をぶつけ合」わなきゃならにゃーのか?


子どもの酒やタバコを禁止するときに、「子どもだから愚行権がない」「大人になってからしなさい」と言うだけで済ませるとするならば、おそらく最悪の教師と言うべきでしょう。むしろ、なぜ子どものうちに酒を飲んではならないのか、タバコを吸ってはならないのか、ともに問い、議論する姿勢がなければならないでしょう。もちろん、議論の末に子どもが納得しないとしても、依然として酒もタバコも認めないわけですが。


「議論の末に子どもが納得しないとしても、依然として酒もタバコも認めないわけですが」
最初から結論が決まっているものを「議論」というのかにゃ? 結局認めにゃーのなら、議論する「ふり」をするだけ欺瞞だにゃ。そんなのただの「カッコつけ」以上のものではにゃーだろうが。もちろん、話のわかる相手に理由を述べることは結構なことだけど、「ダメなものはダメ」の何がワリイんだ?
例えばこの話では、問題は疑似科学ですらない - 地下生活者の手遊びのコメント欄にypcpn8が銃の例を出しているにゃ。家に銃があったとしたら、僕も自分のガキには絶対に銃に触ってはならぬと厳命し、禁をやぶったら体罰も辞さにゃーだろう。説明は相手の発達段階に応じて行うだろうけどにゃ。とにかく、理屈もクソもなく禁止が前提。


説得する姿勢が必要であることは、自明と言ってもいいような気がしますね。tikani_nemuru_M氏の立場からすれば、「子どもだから」で済ませることになるのでしょうが。

ああ、僕は「子供だから」という理由でいろいろと禁止するぜ。どっかの欺瞞馬鹿は二歳児や三歳児と銃の扱いについて話し合うみたいだけどにゃ。



少なくとも、不可逆的な決定に関しては大人と子どもを分けただけでは意味をなさない、という批判は依然として有効です。


不可逆的な決定に関してこそ、大人は子供を守らなければならにゃーんだよ>ガキ


こうしてみても、愚行権って、全然歯止めになってませんね。


馬鹿の理解したつもりになった愚行権は、歯止めにならにゃーかもね。
mojimojiの馬鹿と無責任に歯止めがかかってにゃーのはわかったけどにゃ。



タバコを吸うことが、たとえばタバコを禁止したい人から「愚行」と称されたとしても、健康リスクを理解した上で嗜好品としてタバコを吸っている人においては愚行でもなんでもありません。


はあ?
相変わらず、主観的認識で愚行か否かをわけているけど、これはチミの主張の馬鹿馬鹿しさをよく表しているよにゃ。
リスクを理解すれば愚行ではなく、リスクを理解してやっていれば理解してなければ愚行だ、ってのは実にこう観念的ちゅうか、認識至上主義ちゅうか、ひと言で言えば馬鹿なんだけどにゃ。この馬鹿理屈なら「わかっちゃいるけど、やめられない」は愚行でなくなるんだけどにゃー。わかっちゃいるけど麻薬打つのも、わかっちゃいるけど泣きわめく妻子を尻目に博打三昧も愚行ではにゃーのかね? いっとくけど、多くの依存症(アディクション)においては、まさに「わかっちゃいるけど、やめられない」状態にゃんぜ。


他方で、件の母親がやっている「愚行」は、近代医学を信奉する人間からみて「愚行」なだけでなく、母親の本来の目的からしても(結果的に)「愚行」です。この区別には依然として関心がないようですが。


他者危害しか問題にしてにゃーので、区別の必要がにゃーのだが。


 質問(3)について。子どもについて介入するのであれば、「愚行批判をしなければならない」と述べています。


すでに潰した論点にゃんな。批判している間にガキが死ぬ。


 質問(4)について。「他者危害」以外のケースについて「バカはほっとけ」なのでしょう?


ぶっぶー
「他者危害」以外のケースについて「バカはお互い様」だにゃ。
それとな、批判は勝手にやってくれと何度言わせるんだ?


 質問(5)について。虐待やネグレクトに自己欺瞞的な側面があることなら知っています。で、それは自己欺瞞なのであって、自己欺瞞である以上、逆に言えば、それが危害であることは承知している、ということです。


ホントにぜんぜんわかってにゃーな。
チミは無意識が行動に影響を与えるということがわかってにゃーのかね?
認知的不協和ってのも自己欺瞞なんだぜ。無意識的には危害であるとわかっていても、それが意識化されにゃーからこその自己欺瞞なんだよ。
チミの認識至上主義って、穴だらけのウルトラ馬鹿理屈。まったく使い物にならにゃーんだわ。



これと比較して、件の母親の場合、ホメオパシーの教えるところの治療を行えば子どもの状況が改善することは素朴に信じているわけですよね。これ、同じものですか?もちろん、なかなかよくならなくて「ホントによくなるのかな」と疑い始めたときに、「いや、きっとよくなるはずだ」と思い込もうとする欺瞞的な態度はありえるでしょうが、この場合の欺瞞は虐待やネグレクトの場合の欺瞞とは違いますよね?それとも同じに見えますか?


行為は同じだろ?
虐待は行為であって認識ではにゃーのよ。何度言わせるんだ?
チミの認識至上主義って、本当にダメダメのカス理屈だよね。
ガキの命を賭けてそういう青臭いガキ理屈を開陳してタノシイ?


「このロジックであれば、mojimojiはこの母親と向き合う必要があるはずなんだにゃ」。その時間を割く気がないのでやりません(ということは、最初から言っています)。やる場合には、そのようにやる、ということ(も最初から言っています)。


もちろん、チミが指一本動かすつもりもにゃーことを確認したかっただけさ。
でもさ、ネットでは意固地になっているだろうけど、リアルで児童虐待を疑う事例に遭遇したら、認識のすり合わせなんてしてにゃーでしかるべき機関に知らせてくれよにゃ。僕の心からのお願い。


「どちらがヒデエことを言っているか」は、まぁ、見る人によるとしか言いようがないですね。ちなみに、バカを108回使った文章を読んで「バカをバカにしている」と読む人は、よほどお粗末な読解力と言う他ないです。


そうにゃんね。NATROMのエントリを読んで、わけのわかんにゃー解釈をする馬鹿も実際にいるしね。


「NATROM(や僕)が行為を問題にしているのに対して、mojimojiは思想や能力を問題にしちゃっている」について。能力を問題にしていないことは「バカへの信を問う」で述べています。で、事実に対する認識は問題にしてるけど、思想を問題にはしてませんね。ちなみに、僕は思想を問題にするときにはしますけれど、その場合には、正しさにおいては問題にするわけではありませんので悪しからず。また、事実に対する認識を問題にせずに行為だけを問題にするなら、それはマズイでしょう、というのが、先の記事の趣旨ですよ。


これは確かに誤読でしたにゃ。ごめんなさい。
他者の内面を問題にしているという点で、思想・能力と認識は同じことにゃんがな。


あとな、他者の内面を問題にするのはシューキョーだぜ。公的に他者に介入できるのは具体的な行為に関してだけ、というのが非宗教的な自由民主主義の基本なんだにゃ。チミは知らなかったみたいだけどね。

  • 追記

そういえば、mojimojiのブログのコメント欄にコメントすることができなくなっていますにゃ。
ブログデザインを変えたから、きっと間違ってコメント欄が使えなくなっちゃっているだけだよね。
議論を至上価値とするmojimojiが、コメント欄を使えなくするわけがにゃーもんな。