エコフェミ切り捨てに関連して

うーん、どうやら風邪ひいた。鼻水ズビズバ。


先日のエントリ(追記を長々と入れたよー)に関連して簡単に。
エコ・フェミ再考 - キリンが逆立ちしたピアスに日本のフェミにおいて、エコフェミが排斥されたことについて触れられていますにゃ。
で、上野はエコフェミを批判するにあたって、「男女分業として、「男は会社・女は家庭」を押し付けている現実のこの社会を、正当化するもの」としたらしい(確か、上野・青木論争は読んだことがあるはずなんだけど、内容はまったく覚えてにゃーです)。
リンク先においては以下のように原因が分析されてますにゃ。


 エコ・フェミが、上野らとの論争で負けたのは、この「欺瞞がある」という疑念を振り払えなかったからではないか。「私たちは、男たちみたいに環境破壊しません」と言ったとき、その自分の生活が男たちの環境破壊によって支えられているその構図を、どう批判するのか。それは、現在の先進国や、エコ志向を謳う多国籍企業にも向けられる問いである。


僕のエコフェミに対する印象は、話題になっている きくちゆみ氏 に対する「うさんくせえ」とかいった印象と近いものでしたにゃ。エコフェミって、女性原理=自然で、母性称揚で、ロハスで、全体論的(ファシズムじゃなくてホーリズム)で、要するに一見反科学でぐだぐだのオカルトに見えたんだよにゃ。
若き僕としては、エコフェミというのは反科学的であるだけでなく、男女二元論を推し進める方向にあると判断して「ダメだ、こりゃ」と結論づけた覚えがありますにゃ*1。現代世界を「男性原理」がもたらしたものとし、「女性原理」を万能薬のごとくもち出す論法は間違いであると今でも確信できますにゃ。
宗教がダメだから理性だ、とか、一神教がダメだから多神教だ、とかいう理屈はなににしろどうしようもにゃーと思う。


ただし、
エコフェミあるいはオカルト反体制にみられる、今の体制を「全体として否定する」という感覚はアリなのではにゃーかとは思い直しておりますにゃ。もちろん、そういう論法は粗雑で杜撰で困った混じり物がいろいろとはいってくることは承知の上だし、かえって食い物にされてしまう恐れもオオアリなんだけど・・・・
自らの「癒し」と政治や自然環境の「癒し」を重ね合わせるっていう典型的な心情は、いろいろ危険がでかすぎるかにゃー・・・・
うーん、やっぱりこれはデメリットがありすぎるかにゃー・・・・・・
しかし、なんとなく無下に却下できにゃーし、エコフェミの切り捨てってのは確かに何か重要なものを捨てているような気もする・・・・・・困った・・・