自由主義なら民族教育は公費で

民族教育は公費で行うのが当然

日本も批准している国際人権規約(B規約)に


第二十七条
 種族的、宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。

との文言がありますにゃ。
他にも、子どもの権利に関する条約、人種差別撤廃条約にもこうしたいわゆる「マイノリティの文化アイデンティティ享受権」とでもいうものを保障しておりますにゃー。参考:http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/jouyaku.htm


で、この規約に基づいて多くの自由主義諸国では、民族(語)教育を全額公費で行っているわけだにゃー。この民族(語)教育は、公立学校内で行われているようですにゃ。
例えば、

の10〜12分くらいのところでも少数民族の民族(語)教育が全額公費で行われるのが当然だということがわかるでしょうにゃ。リンク先を見れば、ドイツおよびマレーシアにおける少数民族言語教育が政府の責任において全額公費でなされていること、そしてそれは当然のこととみなされていることが一目瞭然ですにゃ。
注意すべきは、例えばドイツにおけるトルコ人とか、マレーシアにおける中国人とか、別に先住民族はにゃーってこと。先住民族の言語教育を「征服民族政府」が保障するなんてトーゼンもいいところであり、現時点での「トーゼン」はマイノリティの民族(語)教育を公費で行うことなんだよにゃー。


人権後進国メリケンにおいてもトーゼンのことながら、
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/23-1/uchida.pdf
にあるとおり、先住民の民族語教育は無償にゃんな。


ところで、日本では公立学校における民族語教育がまったくといってよいほど行われてにゃーんだな。朝鮮語はもちろんのこと、アイヌ語、沖縄語などの先住民族言語も公立学校においてほとんど行われてにゃー。
彼らの民族教育についての責任も日本国政府にあるのは当然なのに、日本国政府は在日の民族語教育について公立学校においてまったく何の手当もしてにゃー。


在日韓国人日本国籍をとった元朝鮮籍・韓国籍のヒトにも朝鮮学校に子弟を通わせる者がいるが、これは民族語教育がほとんど朝鮮学校においてしかなされてにゃーことに大きな原因がある。朝鮮共和国(北朝鮮)のショーグン様には違和感を持ちつつ、民族(語)教育のために朝鮮学校に通わせた在日の親御さんも多いだろうってこと。僕の知り合いにそういうヒトいるにゃ。
これって
日本国が在日の民族(語)教育の責任をほっかむりして、在日の子弟を朝鮮学校に「追いやった」という解釈もできにゃーことにゃーのよ。


仮に、朝鮮共和国が日本にとっての「敵性国家」であり、朝鮮学校が敵性国家の思想教育をしているとして、その敵性国家の思想教育に在日の子弟を追いやっているのは、日本国が少数民族の民族(語)教育にほっかむりしているから。日本国自らが批准した条約を守ってにゃーから、在日は朝鮮学校に子弟を通わせざるをえにゃー、という側面が確実にあるんでにゃーの?
もしも
日本国が公教育において責任をもって在日への民族(語)教育をしていたとしたら、朝鮮学校はどうなっていたんだろうにゃー?


ま、何にしても日本国政府は、自らが批准した条約の趣旨にもかなった行為として、在日への民族(語)教育を公費でやる責任を果たすべきにゃんな。それは世界の多くの国が当然のようにやっていることでもあるにゃ。

本来ならば公立学校で在日(アイヌ・ウチナンチュなど)への民族教育を行う態勢をつくるのがスジにゃんが、カネも手間もえらくかかりますからにゃー。将来的には公立学校でそれらを行うとしても(特に帰化した元在日の方達への民族教育のルートを確保する必要があるように思う)、現段階では在日への民族(語)教育については、ノウハウと人的資源がある朝鮮学校に公費を支給してお願いするしかにゃーんだろな。
日本政府がやるべきことをお願いするわけだから、運営に口をはさめるようなスジではにゃーと思いますけどにゃー。


あ、いわゆる朝鮮高校「無償化」については、基本的に学校組織への支給ではなくてガキども個々人への支給だから今書いていた理屈以前の話ではやいところ無償化しなければんらにゃーけどな。

普通教育とは民族教育である

公立学校の普通教育ってのは、実は民族教育のことにゃんね。これは特に初等教育において明らかですにゃ。
例えば、正月にはコマ回しや凧揚げ、節分には豆まき、3月3日はひな祭り・・・などはすべて日本民族の風習にゃんね。で、これらの風俗文化は初等教育において学校行事に組み込まれ、日本の民族文化をガキどもが学んでいくわけだにゃ。
つまり
公立学校の普通教育においては、ごくごく当然のように日本民族教育が行われているわけですにゃ。別にそれがワリイといっているのではにゃーよ。しかし、普通教育=日本民族教育、という自覚が必要ではありますよにゃ。


なら、在日、アイヌ、ウチナンチュなどへの「普通教育」が彼らの民族教育となるってのも道理なのだにゃ。日本国ってのは「日本民族の国」ではにゃーのだよ、憲法にもそんなこと書いてにゃーし、そもそもそんなもん近代国家ではにゃーの。

表現の自由との関連

表現の自由を成立させるためには、表現する中身としての「思想・信条・良心の自由」が保障されなければならにゃーよね。内心の自由ってのは絶対的自由であるとはいえるんだけど、その内心の自由を成立させるための基盤として「学問・教育の自由」があるともいえるわけですにゃ。
勉強できなきゃ思想もクソもにゃーし、思想がなければ表現する中身もにゃーわけだ。学問・教育の自由がなければ、表現の自由は実質的な意味を持たなくなりかねにゃーってこと。


で、
民族教育を受ける権利ってのは、この教育の自由のど真ん中なんだよにゃー。
ここを否定しちゃうと、表現の自由もクソもにゃーぞ。

その他

昨年に書いた記事 朝鮮学校無償化に反対するのはゲス - 地下生活者の手遊び
に、未だにアホなコメントがつくのでまとめて書いてみましたにゃ。以前に記事を書いたときと比べて改めたところもありますにゃん。なにせ、当時は「言語権」という考え方をしてなかったからにゃー。
ほかにも いろいろいいたいことはあるけど、この問題に関しては

が非常によくまとまっていると思いますにゃ。馬鹿のわめくほとんどの論点はこれでつぶせるのではにゃーだろうか。


根本的にはこの社会をどうしたいかのイメージの問題なんだろうにゃー。

  • いろいろなヒトが好き勝手なことしている社会が自由で豊かな社会

というのが僕の望ましいイメージで、そのためには教育にコストをかけるのが前提となるということにゃんな。


ま、表現の自由が好きな向き、市場が大好きな向きには、民族教育の責任というものが社会にあることは当然にわかっているはずという確認でしたにゃ。移民の議論もここが前提な。
国際人権規約ってのもさ、市場ベースの自由主義と相補的な関係にあるものですからにゃー。それだけにとどまるものでもにゃーけど。