保守派なら民族教育は公費で


だいぶおそくなったけど、自由主義なら民族教育は公費で - 地下生活者の手遊び への応答に対する再応答ですにゃ。


民族教育以前の問題として

教育というのは、そもそもガキどもが将来において自分で食えるようになるために行われるものですにゃ。また、ガキどもが大人になったときに、自分で食えるようになってもらわなければ、社会の側も大弱りなので、教育を行うことは社会の側にもガキの側にもその親にとってもメリットがありますよにゃ。


そして、自分で食うということは現実には他者との協働*1によるものであり、他者との関係性を基盤に行われる仕事というものが、僕達の幸福感の重要な源泉のひとつでもあるわけですにゃ*2


つまり、教育を受ける権利・働く権利・幸福になる権利、というのはひとつづきのものであり、各人が教育を受け・働き・幸せになるということは社会全体にとっても必須ということになりますにゃ。個々人の幸福と社会全体の利益が教育において双方矛盾なく実現されるわけにゃんね。


義務教育を公費で行うことについて文句を言うヒトは、だからほとんどいにゃーわけだ。
誰にとってもメリットがあり、やらなければ誰にとっても困ったことになるわけですからにゃー。
個々人の幸福を重視する立場と社会の利益を重視する立場のどちらからも、基本的な教育を公費で賄うことに反対することにはなんにゃーわけだ。


では、どこまでが基本的な教育か?
現代日本を含むいわゆる先進国においては、高校教育は半ば義務教育に近いものになっているのではにゃーかと思われますにゃ。なんせ、高校卒業してにゃーと、ガソリンスタンドやコンビニでのバイトすらさせてもらえにゃーことがフツーにありますにゃ。高校を出てにゃーと、就業がヒッジョーに制限されますにゃん。
つまり、
高校に行きたいガキが行けにゃーってのは、ガキとその親が困るというだけでなく、社会の方にとっても実に困ったことになるというのがここでの前提にゃんね*3
ガキの教育にカネを惜しんだ結果、就業が変に制限されてしまって個々人の能力が活かせず、生産性が低いままであってはガキも不幸だが社会も困るわけ。これからジジババが増えていくってのに、個々人の生産性があがらなきゃ社会のほうがまいっちんぐマチコ先生。おちおち歳もとっていられにゃー。


ちゅうわけで、高校【無償化】というのはバリバリの保守の視点からも基本的に正しいのだにゃ。個々のガキの経済状況に関わらずそれなりの教育を受けさせて労働能力を底上げするのは社会の側にとっても必要なことなのだにゃ。企業を経由した「日本型福祉」とやらが破綻しちゃった以上、政府が直截的に教育機会を保証するしかにゃーのよ。


と、この辺りまでが前提ですにゃ。
では本論に入りますにゃー。

民族教育を考えるために

以前の民族教育エントリへ寄せられた応答で、再応答が必要と判断したものは3つですにゃ。


この3つの応答に対してざっくりと応答するにあたって、というかマジョリティの文化とマイノリティの文化を考えるにあたって、

の2つの記事は必読だと考えますにゃ。是非とも読んで欲しい記事だけど、とりあえずここで重要な論点を挙げますにゃ。

  • 民族文化は変容しうる
  • 外部からの介入(=文化の客体化)は民族文化の変容を往々にして阻害する


リンクした記事の文脈における【文化の客体化】とは、女子割礼に対する西欧の人道主義的介入によっておこり、柔軟に文化が変わっていくことを妨げる要因とされていますにゃ。
この【文化の客体化】という概念は民族教育をめぐる問題に適用できるんじゃにゃーのかというのが、この記事のモチーフにゃんね。

id:swan_slabブコメに応答

cf.http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20080606/p1 (「民族」の人権という考え方について)参考まで。それに加えて教育権論争(国家vs親)も参戦することになる難しい問題と思います。

ブコメでリンクされた記事、http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20080606/p1 において提起された問題は、

  • 1)保護されるべきだ、とされた中間集団の内部で、内部の個人に対して人権抑圧機能を持っているケースで問題が顕在化
  • 2)政教分離原則を掲げる国家において、特定の文化や宗教を国家が特別扱いすることにより、政府の政治的な中立性が損なわれる危険性


さて、(1)の「中間集団の内部で、内部の個人に対して人権抑圧機能を持っているケース」に対しては、その人権抑圧機能を固定化するものこそ【文化の客体化】なのではにゃーのかと考えますにゃ。
在日朝鮮民族アイヌ・ウチナンチュに対して日本政府が一貫してとってきた同化政策とは、【文化の客体化】としかいいようがにゃーと僕は考えますにゃ*4
で、今回の朝鮮学校【無償化】外しというのも、露骨な同一化政策にゃんね。筋違いの懲罰的措置が朝鮮学校の【文化】をますます客体化しておりますにゃ。
しかし
朝鮮学校が今のままでよいと考える在日のヒトタチって、例えば僕のツィッターTL上にもほとんど見られにゃーですね。そして、日本政府が無償化外しのような嫌がらせをしてくるのなら、かえって朝鮮学校を変革することの足かせになるという旨の声も聞こえるんですよにゃー。まさに【客体化】の問題が顕在化しているのではにゃーかと。


これは(2)とも関連するんだけど、以前のエントリで書いたように

  • 日本における普通教育とは、日本民族教育である

のですにゃ。いただいたid:Mukkeのトラバ記事からの孫引きによれば


……国家が公式の教会を持たないことは全く可能である。しかし,国家は,公教育や自らの公共サービスにおいてどの言語を使用するかを決定する時に,1つの文化を少なくとも部分的に体制化せざるを得ない。国家は裁判所での宣誓を宗教的なものから非宗教的なものに換えることはできる(し,またそうすべきである)が,裁判所での英語の使用をやめていかなる言語も使用しないことにすることはできない。


ウィル・キムリッカ(角田猛之/石山文彦/山粼康仕監訳)『多文化時代の市民権――マイノリティの権利と自由主義晃洋書房,1998,p.167。


swan_slabは特定の文化を特別扱いすることを問題視しているけれど、僕はむしろ「日本文化の特別視」の自明性に疑義を持っているのですにゃ。日本社会において日本語という言語が主要言語であることは動かにゃーだろうけれど、その特権性を相対化してもいいのではにゃーかと。日本人として、朝鮮語・朝鮮文化という隣人の言語・文化を特別視せよというのではなく、自らの言語・文化を相対化してよいのではにゃーかと主張しますにゃ。


文化の客体化を招くことでかえって朝鮮学校の問題点を固定化するおそれがあること、および日本語・日本文化の特別視が無反省に前提になっていて、それこそ政府の中立性が損なわれているのではにゃーかという点で、朝鮮学校【無償化】外しは批判されるべきではにゃーでしょうか?


あとは、前提部分で述べた理屈ですにゃ。社会が持続的に成長するために、教育の直接給付をする必要があるという話にゃんね。
それと、教育権については今回はパスしますにゃ。すんごく好きな話題なんだけど。

ラリー(コメント欄)に応答

以前の民族教育エントリのコメント欄での「ラリー」のコメント
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110218/1297965006#c1298586938
への応答ですにゃー。


別に僕は「なんでもありの教育の自由」を求めているつもりはにゃーのです。
前提の部分でも書いたように、まずは個々のガキがハッピーになること、そしてそれは社会が豊かになるためにも必要なことだと考えますにゃ。


少数民族の子供の民族アイデンティティー獲得が大切であることには同意しますが、それと同時に、マ イノリティーに属する子供だからこそ、その子供が暮らす国の主流社会でも、ディスアドバンテージを抱えることなくマジョリティと同等に生きていけるための 教育確保も、なおさら重要なのではないでしょうか。

然り。
だからこそ、ここでは【無償化】外しが文化の客体化を招き、朝鮮学校生徒がディスアドバンテージを抱えることがさらにすすんでしまうことを批判したいわけですにゃ。
ほとんどの在日韓国・朝鮮人にとって、日本社会で生まれ育ち、この社会で骨を埋めることはほとんどデフォルトですにゃ。だから、外部からのおかしな圧力(客体化)がなければ、それなりに合理的な選択に落ち着くのではにゃーだろうか? 自分の子孫の実際の生活よりも抽象的な文化が大事だ、と抜かすお方はいても多数派にはならにゃーだろう。
それに、ほとんどの大学が朝鮮学校卒を大学入試資格として認めていることからも、現在の朝鮮学校カリキュラムは日本社会で生きて行くことを前提とし、適応したものになっているのではにゃーかな?
無償化外しなどの【客体化】促進をやめれば、朝鮮学校のカリキュラムは今よりさらに日本社会に適応的なものになるのではにゃーだろうか。在日韓国・朝鮮人の主役はすでに3世以降であり、僕の知っている限りでは彼らは教条的ではなく柔軟だにゃ。
ただし、
差別・排除がひどければひどいほど【在日同胞】の関係は生きる上での資源として切実な意味を持ちますにゃ。同胞の間で仕事を回さなければ生きていけにゃーからね。日本社会が差別的であればあるほど、文化の客体化がすすむほど、在日社会内部のネットワークが生きる資源として重要なものになっていくわけだにゃ。文化だけじゃなくて、いろんなものが【客体化】されて固定されてしまうわけにゃんね。



諸外国の公立校での民族語教育を、在日朝鮮人の民族教育を受ける権利の根拠とするのは適切か。という疑問。

ここに関しては、別に朝鮮学校を特別扱いしろと言っているのではなく、他の外国人学校と同じように扱えと言っているだけですにゃ。


アイデンティティーとはそもそも国が積極的に教育の場に持ち込んでまで責任を負うべき事柄なのか、という疑問。アイデンティティーって民族性だけじゃないですよね。例えば、性別、性的志向もそう。

ジェンダーや宗教に関して公権力がニュートラルでいることはできても、言語・民族文化に関してニュートラルでいることは不可能だということは先ほど孫引きした キムリッカの議論からも明らかですにゃー。
つまり、自由主義の公権力は、宗教やジェンダーについてはニュートラルであることを心がけねばならず、民族文化や言語についてはニュートラルでありえにゃーことを徹底的に自覚する必要があるということですにゃ。その意味では、まさに自由を現実のものとするためにこそ、マイノリティの民族文化・言語アイデンティティを積極的に認めていくことが必要なのではにゃーだろうか?


歴史的な経緯とか帝国主義の遺物という観点を持ってくると、教育を受ける権利とかっていう普遍的なテーマで議論してもあまり意味が無いような気が。。。

ここでいう【文化の客体化】は日韓併合から今回の無償化外しまで、連綿と続くことの一環にゃんね。「歴史的な経緯」とは過去のことではにゃーのだ、ということは重要だと思いますにゃー。


で、これもあとは前提部分で述べた話ですにゃん。お互いに勉強して働いてハッピーになろうよ、というだけでしてにゃ。

id:Mukkeのトラバへの応答

なるトラバをいただきましたにゃー。
キムリッカの引用は使わせてもらっているにゃ、さんきゅーね。


まず、特定の民族の国家であると規定された国家があるってのは教えられるまで知らなかったにゃー。言われてみれば、民族運動と結びついて独立した国家にはそういう規定があっても不思議ではにゃーな。これは実はスタンダードな国家規定で、逆に、旧帝国主義国家にはこういう規定がにゃーということかもしれにゃーですね。


地下猫さんの仰るように,先住民族(日本だとアイヌ民族琉球弧の人びと*5が該当する)への民族教育は公費で賄われて当然だ。朝鮮民族先住民族ではないが,オールドカマーの場合,日本による植民地統治期に土地を収奪され,困窮して「本国」に流入したケースが多いことから,これは植民地責任ということで,公費で民族教育を引き受けるべきだろう。

 だけど,それ以外の非先住マイノリティに対しても,民族教育を全額負担で行う必要があるのだろうか? 僕にはそこが疑問に思える。彼らは自発的にわが国にやってきた人びとではないのだろうか?

さて、本題はここにゃんね。
日本社会へのニューカマーとしては、日系ブラジル人が代表ですにゃ。


で、この話については、すでに

において言及されていますにゃ。
こんな新聞記事もあるにゃー。


 移民問題に詳しい静岡文化芸術大准教授のイシカワ・エウニセ・アケミ(40)は国の「地方任せ」に問題を感じている。「永住者として日系ブラジル人を受け入れながら、その子どもたちの教育を考えずにきた」と。

 実際、20年近くも前に「労働力確保」の国策として日系人を受け入れ始めたのに、文科省がその子どもたちの教育指針をまとめようと専門家らの検討会をスタートさせたのは、なんと先月だ。

 日本経済の成長の陰で、置き去りにされてきた子どもたち。国の支援を心待ちにする現場のあがきが、今日も続いている。


http://www.chunichi.co.jp/shizuoka/hold/emigrant/CK2007101302056741.html


国策で永住者として迎え、ガキの教育についてもほとんど【棄民】扱いにしか思えにゃー。 トラバ記事でid:fut573のいっているように、ニューカマーの高校進学率が60%ってのはさすがにまずいだろ? ガキにとっても親にとっても社会にとってもいいことにゃーわけだ。


ここで言及している言語権とか教育権とかに限らず、ジンケン遵守というものは優れて現実的な【相互安全保障原理】かつ【協働作業による利益増大の前提】だと僕は考えておりますにゃ。お互いを騙して利用しようなどというのでなければ、ジンケンを守ることは自分と相手を守り、そしてまあたいていは協働作業による利益を大きくしてくれるものではにゃーかと思ってんの。


この場合でも、日系ブラジル人のガキの言語権を尊重した教育をしてあとで本人に税金で払ってもらったほうが、ガキにとっても日本社会にとってもメリットがでかいのではにゃーかと思うのですにゃ。ポルトガル語の素養があるガキってのは日本社会にとっても大きな財産にゃんぞ。ブラジルは資源大国にゃんからな*5
というわけで、ここでは言語権の尊重は双方のメリットと主張しますにゃ。

おわりに

ながくなっちった。
今回はあえて、保守派の・マジョリティの・統治者の視点として合理的な選択は何か、を前面に出して書きましたにゃ。もちろん、保守というのはまともなひとつの立場であって、ニンゲンを使い捨てにしてよいというのは豚であって保守ではにゃーわけで、豚ではなく保守であり、社会を持続的に安定的に成長させようというのなら、民族教育や言語権(ジンケン)に対してはこのあたりが合理的な態度なんではにゃーかな。
しかしまあ
なんで僕がこんな保守バリバリのことを書かなきゃならんとは、憂さ晴らしに「盗んだバイクで、飛ばすぜハイウェイ、オールナイトのステージ。Baby We were Born to Run !」*6してえよ。

*1:協働にもいろいろなレベルがあるし、あってよい。だが少なくとも他者と完全に隔絶した仕事というのは存在できない

*2:まあ、不幸も関係性から生まれてくるんだけどな

*3:高校教育という選択肢だけの問題でなく、若年層へのまともな職業訓練〜就業へのコースが確立されていないことを問題視するというのも当然ありえる

*4:差別こそが【文化の客体化】のもっともたるものとも言えるだろう

*5:なお、朝鮮学校が日本社会にもたらすメリット、という視点については 朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット - Whoso is not expressly included を参照

*6:馬鹿ロック三連発 尾崎豊「15の夜」 Johnny「ジェームス・ディーンのように」 Bruce Springsteen “Born to Run”