「情報学ブログ」の読み方・楽しみ方(追記アリ

へ僕がブクマコメをしたことを皮切りに、ツィッター上で情報学ブログの人とやりとりをしていましたにゃ。
その経緯については、

をご参照の程を。


で、とりあえず僕は情報学ブログの人とのやりとりは無意味なのでやめましたにゃ。
その判断理由について、以下に述べますにゃー。

1)情報学ブログは自分の発言に責任を持っていない

「痛いのやだ」「飢えるのやだ」という基本的な欲求から定量化がはじまってんの。まあ、そもそも痛みや飢えも定量的な側面を持つしな。
地下猫
http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/22497892869

ちなみに、まさか痛みや飢えが定量化できるなんて考えないよな。痛みの原因や飢えの原因の定量化ね。痛みは「原因の定量化」も微妙だが、とりあえずいいや。RT 「痛いのやだ」「飢えるのやだ」という基本的な欲求から定量化がはじまってんの。
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22498518548

はい、またも「僕は馬鹿ですみんな聞いてね」発言。痛みも飢えも定量化できないわけないだろ。いくらでも定量化の方法は考えつくぞ。ほんとに頭わりいのな・・・さて、出かけよ。 RT @infobloga:ちなみに、まさか痛みや飢えが定量化できるなんて考えないよな。
地下猫
http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/22498866297

おお、すごいすごい。天才出現。話すの無駄じゃないかって気がしてきたぞ。RT 痛みも飢えも定量化できないわけないだろ。
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22499119512

痛みの定量化も飢餓の定量化も、ちょっとググるだけでいくらでもでてくる。世の中のアタリマエの知識レベルはチミにとって「天才」なんだね。チミは本当にどうしようもない馬鹿だな。
地下猫
http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/22508383027

痛みの定量化はあるよ。でも、特定の目的のために使う主観的データ。それが君の言う「事実」なら、ホメオパシーの「治った」も事実な。 たしかに、ホメオパシー信者の説得は大変だわ。RT 痛みの定量化も飢餓の定量化も、ちょっとググるだけでいくらでも
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22581726391


以上のやりとりは、科学以前に確実性や定量性という概念があったという僕の主張から派生したものですにゃ。
地下猫「痛みや飢えも定量的な側面を持つ」
情報学「まさか痛みや飢えが定量化できるなんて考えないよな」
地下猫「痛みも飢えも定量化できないわけないだろ」
情報学「おお、すごいすごい。天才出現。話すの無駄じゃないかって気がしてきたぞ」
というやりとりからは、情報学ブログの人は痛みや飢えの定量化は原理的に不可能であり、そんな荒唐無稽なことを主張する僕を「天才出現」と揶揄していることは明らかですにゃ。


飢餓の定量化については、もちろん医学的にいくつか指標がありますにゃ。そして、医学的な指標とは定量的なものであることはいうまでもにゃーですね。
痛みの定量化については、現段階で実用レベルにあるものはにゃーようだけれど、原理的に不可能なものではにゃーですね。神経生理学の発達を考えると、近未来に実用レベルに達してもおかしくはにゃーでしょう。


ツィッター上でもこのあたりについて横からツッコミが入りましたにゃ。
すると、「まさか痛みや飢えが定量化できるなんて考えないよな」「(定量化はできる、に対して)おお、すごいすごい。天才出現。話すの無駄じゃないかって気がしてきたぞ」と発言した本人が、何の前触れもなく
「痛みの定量化はあるよ。でも、特定の目的のために使う主観的データ。」
といいだしたわけですにゃ。


対論者を馬鹿にしておいて、謝罪も訂正も一切なしで、自分の発言をちゃぶ台返し
しかも、飢えの定量化を否定していたことはスルー。
小見出しの「情報学ブログの人は自分の発言に責任を持っていない」は最大限に好意的な解釈で、実際には「恥知らずのウソツキ」「ウソをつくことを何とも思わない」あたりが適切な評価ではにゃーのかな。


情報学ブログの不誠実さというのは、他にもいろいろ指摘できるんだけど、僕としてはこの件がとどめとなって話す気が完全に失せましたにゃ。
「(定量化はできる、に対して)おお、すごいすごい。天才出現。話すの無駄じゃないかって気がしてきたぞ」
に対するブーメランということ。

2)情報学ブログは、科学を論じる素養がない

自分の発言についての不誠実というのは論者として確かに致命的だけど、その分野についての素養がにゃーってのもやっぱり致命的ですよにゃ。
「まさか痛みや飢えが定量化できるなんて考えないよな」
ってのは自然科学の基本的な方法論を理解していればでてきようのにゃー台詞ですにゃ。知ってる・知らないという問題ではなく、自然科学の方法論をまるで理解できてにゃーということ。

ほんと分かってないな。科学はそんな風に数値化できる現象だけを扱っているわけじゃない。今、問題になっているのはそういう話。RT 違わねえよ。基本的な確率の概念は科学以前にあり…
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22494010255

という馬鹿発言も彼にはあり*1、そもそも科学と定量化の関係がわかってないのではないかとまで推測されますにゃ。

で、定量化できるもの(あるいは他の基準を満たすもの)だけを真実とするべきというのは、どこから導かれるの?
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22498431530

という馬鹿発言もありましたにゃ。もちろん、僕がこんな馬鹿なことをいうはずもなく、軽くいなしてつっこまなかったのだけれど、これは馬鹿丸出しですよにゃ。
後で確認するけれど、彼にとって定量化とは科学の枠内の話らしく、これはつまり

  • 「科学だけを真実とするべきというのは、どこから導かれるの?」

という問いに等しいのだにゃ。
そう、あれですよ、「科学だけが真実か?」という石をなげればあたるくらいゴロゴロしている通俗的な反科学馬鹿のタワゴトなんだよにゃ。


情報学ブログの人ってのは、単にウソツキであるだけでなく、論のレベルがこの程度なんですにゃ。

3)情報学ブログは、強い相対主義の立場にあり、しかもそれを隠蔽している

ちなみに、本文で言う「相対的」って、事実が相対的だってこと。だから、最初から最後まで全部「事実」のあり方の話。一般的な話なのに加え、知らなくても文脈で分かると思ったけど…。
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22373080227

相対主義にはいろいろあるけど、「事実が相対的」ってのはすさまじいにゃ。


相対主義にもいろいろあって、文化相対主義や価値相対主義ってのは穏当なる相対主義にゃんね。僕もこれらは原則的に支持してますにゃ。
科学哲学において問題となるのはいわゆる「認識論的相対主義」であって、「原子とか素粒子とか、ホントにあるの? そういう科学的な認識って相対的なものなんじゃないの?」とかいっちゃう立場ですにゃ。相対主義のなかでも極めて強い主張といえますにゃ。
認識論的相対主義そのものの是非はここではおいておくとして、情報学ブログの「事実が相対的」ってのは、もともと強い主張である認識論的相対主義のなかでも最右翼といっていいんでにゃーかな。


「事実が相対的」なわけだから、情報学ブログの人は、標準医療のほうがホメオパシーや呪術医療よりも効果が高いという、この議論において多くの人が共有している前提を共有してにゃーんです。僕とのやり取りを見ればわかるけど、彼は一貫して標準医療のほうが実効性が高いということを肯定していにゃー。
彼がブログ他でいっているのは「科学の説明能力の高さ」であって、科学の実証性や実効性ではにゃーのですね。

繰り返しになるが、科学的に見れば、科学に基づいたものの見方の方が確実性が高いだろ。科学的に見なければ、そんなの分からん。トートロジー
情報学ブログ
http://twitter.com/infobloga/status/22428310381

情報学ブログに言わせると、確実性とか見込みとかいう判断はそもそも科学にコミットしてるんだと。
標準医療を含む科学の実証性・実効性というのは、科学の枠内で判断しているにすぎにゃーんだそうだ。
「なにそれ?」
って感じにゃんね。


で、呪術などの他の体系と比して科学に実効性が明らかに高いという一般的な認識を否定している記述は、彼のブログ記事にははっきりとにゃーようだ。ま、僕も彼のブログをずっと読んでいるわけでもにゃーから確信はにゃーのだが。
少なくとも僕は、科学の実効性の高さを情報学ブログが否定しているということを、彼のブログ記事からは読み取れなかったにゃ。直接やりとりしてはじめてわかってびっくりしてるんだにゃ。
こういう極端な相対主義を採用しているんだったら、ちゃんといっておいてくれにゃーと読むだけ無駄だし読んでもいらっとするだけだにゃ。

4)その他いろいろ

他にも馬鹿発言はいろいろあるけど、とりあえず主なところを箇条書きで

  • 「数値化できる現象だけ取り上げたら、その時点で科学だろ」

だそうで、「俺にはずっと彼女がひとりもいない」、は科学だそうです。
とにかく定量化とか数値化まわりのことがまったくわかってにゃーようだ。
定量化とか確実性という概念、見込みにもとづく行動というのは、日常生活においても行われているし、ストロースのいう「野生の思考」においても当然のことながらあるわけだにゃ。というか、定量的な見込みにもとづく行動をしなかったら、淘汰されて生き残ってにゃーだろな。
見込みにもとづく行動が科学の枠内にあるらしいので、これはつまり、極端な構築主義という立場にたっているようですにゃ。

  • 説明能力と実効性を切り離せると思っているらしい

科学の説明を僕たちが納得しているのは、その実効性が高いからだにゃ。仮に実効性を問題にしなければ、すべてを同一原理で説明しきる呪術や宗教のほうが説明能力が圧倒的に高いということが理解できにゃーようだ。

  • 「科学理論は近似に過ぎず事実そのものにはたどりつけない」という考えはプラトニズム

これは少しでも哲学をかじった人にはオオウケだろうにゃー・・・

  • 情報学ブログのほうが旗色が良い、あるいは僕が逃げにかかっている、と本気で思っているらしい

読者諸賢に判断を委ねますけどにゃ。

5)情報学ブログの謎

ここまで極端な相対主義、極端な構築主義にたっているにもかかわらず


○具体的にホメオパシーをどう説得すれば良い?


1. まず、あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める。
2. その上で、ホメオパシーが、科学とどう矛盾するのか(科学的に見たら、いかにおかしいか)ということを説明する。
3. 科学の方法論の方が優れている理由を説明する。特にホメオパシーのように「正しい」かもしれない仮説は無数にあり、それにとらわれない方が良いことを説明する。


http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-ecd7.html


とか言いだすというのが逆にわからにゃー。
ホメオパシーや呪術に比して標準医療(科学)の実効性が高いということを認めないのに、どこに「科学の方法論の方が優れている理由」が存在するというのでしょうかにゃ?


情報学ブログに、科学の実効性の高さを認めないのに、なぜ君は科学を受容するのか、と尋ねたら

自分が科学を受容しているのは、そういう社会に投げ込まれているから
http://twitter.com/infobloga/status/22490761117

という答えが返ってきて唖然としたのだけれど、「自分が科学を受容しているのは、そういう社会に投げ込まれているから」とうそぶく人物が、いったいどうやって「科学の方法論の方が優れている理由」を説明できるというのか? 僕には見当もつかにゃーです。


で、あまりにも謎なのでツィッターで何度も尋ねたわけですにゃ。
そしたら、
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-ecd7.html
でいったことに情報学ブログ的にはなっているらしいんだにゃ。はああ?
僕が尋ねたのは、科学は実効性が高いことを肯定しないうえに「自分が科学を受容しているのは、そういう社会に投げ込まれているから」という立場で「科学の方法論の方が優れている理由」を説明することなんだけど、そんなことは当該記事のどこにも書いてにゃー。
アタリマエだよにゃ。当該記事を読んで疑問に思ったことを突っ込んだら、情報学ブログが科学の実効性を肯定していないことも「自分が科学を受容しているのは、そういう社会に投げ込まれているから」ということもでてきたんだから。


・・・ところがどうやら、情報学ブログは本当に説明済みだと思っているようなんだにゃ。逆ギレして僕を罵倒までしてる・・・・ひいいいいい、馬鹿がここまでくるとこわいよー(泣


結局のところ情報学ブログの前提は、事実は相対的であり、治療実績などは科学の枠内での話であり、科学の受容はそういう社会に投げ込まれているからであり、すべては根拠のにゃー話ということだにゃ。
情報学ブログ最大の謎は、そういう立場なのに「科学の方法論の方が優れている理由」だとか「「相対主義を乗り越える」ことはまさにブログのテーマ*2」だとかいってしまうことにゃんね。
情報学ブログの立場からは、ホメオパシーを擁護することが必然的な帰結だと思うのですけどにゃー。

結論

  • 情報学ブログは極めて強い相対主義構築主義に立ちます。早川センセイへの擁護などでもそれがわかりますが、普段はそれを表に出さないようにしています。隠れた主張を読み取ろうとすると少し面白いかもしれません。
  • 情報学ブログではまるで実効性のない提案をします。これはもともと実効性というものを相対化しちゃっている芯の通った態度であるといえます。実効性のなさを楽しみましょう。
  • 情報学ブログのテーマは「相対主義を乗り越える」そうですが、そのテーマがどこにあるのか探す徒労感もたまらない楽しみです。僕には相対主義に溺死しているようにしか見えませんでした。
  • 情報学ブログに明らかな間違いを指摘しても認めることは稀です。間違いを指摘して反応を楽しみましょう。
  • 情報学ブログに間違いを指摘する際、彼がドヤ顔で専門用語をまちがった使い方をするのは楽しめます。僕は「オッカムの剃刀」「プラトニズム」などの彼の用法でさわやかなひとときを味わいました。

追記 2日18:30ごろ

情報学ブログよりブクマコメいただきましたにゃー

id:infobloga
地下猫が返答に窮して爆発 http://d.hatena.ne.jp/infobloga/20100902/1283414715

ということで、トラバもいただき、リンク先を見に行ったけど、やっぱり時間と手間の無駄でしたあああああああ。


この記事と情報学ブログのいくつかの記事を読んだうえで、僕が逃げてるとかいう判断をするお人に何をいわれてもぜんぜん構いませんにゃー。
あと
情報学ブログの人をみていると、自己欺瞞というのも才能ではにゃーかと思えますにゃ。
ま、
なんにしても情報学ブログとやりとりする必要はいっさいにゃーことが確認できたということにゃんね。

*1:この馬鹿発言は後で訂正はされている。意味不明の訂正だったけど

*2:http://twitter.com/infobloga/status/22418111752

まったく新しい透明人間モノのアイデア


透明人間になれたらどうするか? 
と問われると、僕のように幼児的な♂は「女風呂覗きたい」とか少年マンガに刷り込まれたようなことをすぐに連想いたしますにゃー。まあとりあえず、ろくでもにゃーエロネタ妄想が暴走するわけですにゃ。


実に困ったものですよにゃ。
ものごころついてからというもの、透明人間というと女風呂という安易な連想の檻に閉じ込められてきたのは僕だけではにゃーだろう。


しかし、この安易さを許さない設定を考えつきましたにゃ。

  • 勃起すると透明でなくなってしまう透明人間


どないだ!?


透明人間というのは全裸ですにゃ。
もしも透明人間と化して女風呂に紛れ込んだとしても、勃起したら透明でなくなってしまうとしたら!
チンコをたてた全裸の♂がそこに出現してしまうのだにゃー。


いったん勃起するとしばらくは透明に戻れにゃーが、射精すると瞬時に透明にもどるという設定も加えると、もっとオモチロイかも。
賢者タイムは透明な存在なんだよ!


女風呂でチンコをおったてていきなり出現することを逃れるためには、一方的に見るだけの存在でありながら、絶対に勃起してはならにゃーのだ。若い♀の肉体に骸骨を見透かす禅僧のごとく、目の前の女体を見なければならにゃー。
しかしそれが楽しいのか?
そこまでして女風呂に入りたいのか?
そもそも女風呂での透明人間の楽しさって何だ?


というあたりから物語をはじめるのだにゃ。
そして、ゆくゆくは性と実存(笑)にまで深く切り込んでいくのだにゃ。


若い娘を見るとすぐに勃起して可視化してしまう若い透明人間*1が、よくある♂に都合のよい小エロ恋愛マンガ風の失敗と思索をかさねたのち、最後にはイスラム社会に安住の地を見出す大団円なんて感動的ではにゃーだろうか?
だれかこのネタでマンガとかやってみにゃーか?


この設定ならもうあるよというなら、お教えくださいませ>諸賢


それにしても、透明人間というとデフォルトで♂だよにゃ。
やはり視線というのはつくづくチンコにゃんなあ・・・・。



最後に
原発ネタをはじめ、書くといっておいて書いてないネタがたくさんあるのですが、ついつい思いついたネタを優先いたしました。パソコンのある場所に冷房がなく、暑くて自分の存在がうっとうしいとはいえ、はなはだ申し訳ございません。やる気だけはありまつ。

*1:すぐ勃起する若者は実在するッッッッ

反省会


先程愛媛県警生活安全課より電話がありましたので報告します。

RAH体験談の投稿者の確認が取れた

主治医の氏名も確認が取れた

当該児童は医療機関を受診済み

投稿者は今回の件に関して、全国の皆さまをお騒がせして申し訳なかったと反省している

愛媛ホメオパシー事件報告 | Ego caedo, ergo sum


ということで、とりあえずほっとしましたにゃ。よかたー。


では前回エントリの反省会だ。推敲せずだらだらいくぞ。


事件を知ったのは15日の夜のことであり、公的機関は動いていない状態で何か自分にできることはにゃーかということで、報道機関への情報提供を思いつきましたにゃ。報道機関からの働きかけであれば、関係諸機関も動きがよくなるのでにゃーかとも考えた。
要は、関係諸機関へのパイプが太いところへ情報を流して、そこで動いてくれることを期待していたわけですにゃ。
また
ホメオパシーの危険性についてマスコミに意識してもらうことは有益であるという計算も確かにありましたにゃ。
まあこのへんはいいだろ。


自分の行動に疑問符をつけるとすれば、メール・ファックス内容を公開してテンプレ化し、情報提供を「煽った」という手法でしょうにゃ。ブコメでは「報道機関や関係諸機関にコネクションのある方は、この記事をテンプレとして使ってください」と書いてはあり、いわゆるチェーンメール化の可能性を考慮して抑制してにゃーわけではにゃーのだが、結果的に情報提供を「煽った」と言われても仕方がにゃーかもしれにゃー。


これは、僕よりもパイプの太い情報提供先をネット上での誰かが知っているかもしれにゃーという希望がありましたにゃ。次に、同様の事態がおこることをなるべく防ぎたいということもありましたにゃ。ホメオパシーの危険性はあらゆる機会をとらえていうべきだとも考えていますしにゃ。
それで、送信内容を公開したわけにゃんね。


つまり、いわゆるネットの「集合知」と「情報拡散」を使おうとしたということなんだけどにゃ。「集合知」「情報拡散」を恃むというのは、根っこのところではチェーンメールと同じなのかもしれにゃー。
緊急性の高いと感じられるトピックについてネット上で何か具体的な行動をとろうとすると、「チェーンメールに潜む何か」から距離をとるのはムツカシイ。個にゃん的には「チェーンメールに潜む何か」を嫌っていたつもりであるのに、そこに突っ込んでしまったような気がして座りがワリイ。まるで直径1センチのイボジができてしまったように座りがワリイ。


ネットとつきあっていくのであれば、「チェーンメールに潜む何か」のことをちゃんと考えていかなければならにゃーだろう。今まで僕は「嫌い」で済ませていたようだにゃ。だから直径2センチのイボジができてしまったように座りがワリイ思いをすることになるんだよにゃ。


児童相談所に通報したd:id:lets_skeptic
「客観的に考えれば、今回の連絡が単なる自己満足にしかならないだろうとも思ったのだが、論理よりも感情で動いた。」
といっていますにゃ*1
僕も感情で動きましたにゃ。何もしなかったら眠れなかった。


感情で動くのが悪いと思っているわけではにゃー。
近所でガキが虐待されていたら、それを何とかしようと思うのは当然ですにゃ。ネットで医療ネグレクトが可視化されると、虐待されている近所のガキをなんとかしたいという感情と同様の感情がでてくるでしょうにゃ。これは断じて悪しきことではにゃー。こうした感情を資源として生かす方法を考えるべきなのだにゃ。


何が最善かをうじうじ考えているよりは、感情にまかせて現実の行動を選択するほうがいいと僕は確信しているし、それを偽善といわれるにしても、結果オーライなら偽善と「真の善」の区別をする必要はにゃー。
なんかやる奴は偽善者だってことでいいんでにゃーの? 偽悪よりぜんぜんマシ。僕は偽善者であることをやめるつもりはにゃーよ。偽善をするとメシが美味くなるわけではにゃーが、偽善もしにゃーとメシが不味い。


ただ、やるならなるべく効果的に、現場の足を引っぱらにゃーようにやらにゃーと。
例えば今回のように、

  • 医療ネグレクトと思われる事例をネット上で見つけた場合、どのような対応をするのが効果的なのか

について普段から考えておく必要があるでしょうにゃ。僕はちゃんと考えてなかった。だから、直径3センチのイボジができたくらいに座りのワリイ思いをしているということだにゃ。
あるいは
「このような場合にはこのような対応を」という対策を練るのにネットの「集合知」を恃むべきなのかもしれにゃー。その上で緊急性の高い事例において、「チェーンメールに潜む何か」をあえて使うという選択もあるのかもしれにゃー。


昨日のエントリに賛同して行動していただいた方々は、これを読んで不快に感じているかもしれにゃー。みにゃさまには感謝しているし、その行動をおとしめるつもりは微塵もにゃーのです。
ただ、昨日のエントリを書いているその時からひっかかっているものがあり、それがイボジとなって刻々と大きくなっており、このままでは僕のケツが持たにゃーんです。とっちらかってまとまってにゃーものを、あえてそのままあげておこうかと考える次第ですにゃ。


なんにしろ、普段から考えてにゃーのに行動しようとするからダメなんだにゃ。
「哲学は死の練習である」というソクラテスの言葉はつくづく真理だよ。


暫定的な結論ね。

  • あの時点での選択としてやらないよりはマシだったと思う。が、批判は歓迎する。
  • またこういう事例を見たら、僕は何かやるつもりだ。ガキに何かあるのは本当に嫌だ。
  • その時に今回よりもうまくやるために、もうちょっと考えておく。よいやり方をいっしょに考えてください。


ああ、そうそう。書きわすれてたけど大事なこと。
今回の事例では母親のケアもちゃんと考えにゃーと。どうやら母親が「お騒がせして申し訳ありません」と謝罪するといういつものパターンになっているようで気になりますにゃ。
ホメジャなどのホメオパシー団体は、悪質なカルトといっていいという認識はちょっとずつ広まっているとは思いますにゃ。ただし、反社会カルトとしてのホメオパシー - 地下生活者の手遊びというエントリで書いたとおり、ホメオパシー団体を悪質なカルトとみなすのであれば、「末端信者」はあくまで被害者であり、馬鹿にしたり非難してはならにゃーというのは大事だと考えますにゃ。

ホメオパシーによる医療ネグレクトを報道機関に通報しました(追記アリ


追記
本エントリの追加エントリとして

というエントリをあげています。併せてご覧いただければ幸いです。
追記ここまで。


以下の文章を印刷したものを読売新聞社愛媛新聞社にファクスしました。また、同内容のメールを毎日新聞社朝日新聞社にポストしました。
読売新聞社愛媛新聞社には情報提供用のファックス番号がHP上にあったので、ファックス送信を行い、読売新聞社愛媛新聞社の社会部記者と連絡がとれました。
特に、読売新聞社にはファックスを送って2分後にこちらにTELがあるという素早い対応をいただいたことを特にしるしておきたいと思います。


ブログ記事のソースなどを自分で確認し、僕にいまできうることを考えて実行いたしました。非力ゆえこれ以上のことはできません。
報道機関からの働きかけにより、関係諸機関に動いていただき、是非ともこの子が保護されること、ならびにこのようなことがもう起こらないことを心の底から願っています。


以下の文は、報道機関への情報提供用テンプレとして使えるものであれば、どんどん使ってください。>みなさま


【緊急】愛媛県で幼い命が失われようとしています。


私は静岡県○○市で○○をしている、○○○○○と申します。
(住所TEL番号を表記)
今回は、緊急に取り上げていただきたいことがあって筆をとりました。


腎臓に重い疾患を持つ10歳児が愛媛県にいるのですが、
親がホメオパシーという代替医療に傾倒し
必要な治療を施さない状態になっているようです。


http://ameblo.jp/aestheticsurgeon/entry-10591301825.html
詳しくは上記の記事をご覧ください。
「まぶたの匠・湘南美容外科 Dr. GO のBlog」というブログです。


http://www.rah-uk.com/case/wforum.cgi?no=3388&reno=no&oya=3388&mode=msgview&list=new
上記は相談記事のURL



ブログ作成者の医師の見立てによると
「当該児童は、腎移植後か、自己免疫性腎炎に罹患している可能性が高い。
 どちらにしろ、免疫抑制剤の自己判断での中止は、数日中に死の転帰をたどる可能性が高く、速やかな保護が求められる。」
とのことです。


ホメオパシーについては、最近、山口市助産師がホメオパシーに傾倒し、新生児にビタミンKシロップを与えなかったために乳児が死亡し、提訴される事件がおこったばかりです。
母親に相談されているホメオパシー団体は、新生児にビタミンK投与を行わずに死亡させた助産師が属していた団体と同じものです。近代医療を否定し、予防接種などを否定する団体です。


ブログ作成者の医師は愛媛県警に情報提供を行ったようですが、一刻を争う事件であると考え、報道機関の協力によってこの児童の生命を救うことができないかとメールを差し上げています。
幼い命が危険にさらされている重大性と緊急性を鑑み、報道機関におかれましては関係各機関への連絡と働きかけを何とぞよろしくお願いいたします。

ゼロリスクを求めるのが合理的な場合


先日のエントリの趣旨はそのまま、レトリックを替え、別の論点も加えて再び論じますにゃー。

統治者の視点と当事者の視点*1

科学技術社会論を専攻する平川秀幸氏によるリスク論講義ですにゃ。さすがにオモチロイにゃー。さてここから平川氏の発言を引用しますにゃ。


ゼロリスク世論にまつわる問題は、確率論的なリスク論の考え方は、統計的=集合的な見方、いいかえれば社会をマスで見る「統治者視点」であり、それは「100万分の1でも当たったらイヤだ」という個別の視点、いわば「当事者視点」とは相容れないということ。


つまり、リスクに対する当事者視点は絶対消えないわけで、だからこそ統治者側には、経済的補償や法的対応、さらには当事者視点に対する「感情の手当て」が不可欠。ところが得てしてリスクコミュニケーションでは、統治者視点のみを押し付ける形になり、感情の手当てとは逆方向になりがちだったり。


あらゆる選択や行為はリスクをともなうといえますにゃ。リスク発生はメタ的なもので、何も選択も行為もしにゃーことすらリスクになりますにゃ。もちろん、車で移動することにもガキをつくることにも、さまざまなリスクがありますにゃ。
例えば自動車事故に遭った場合、例えば生まれた子供に障害があった場合、カガクではとおりいっぺんの説明をするほかありませんにゃ。確率的には必ず一定程度の事故や生まれつきの障害はあるものですにゃ。カガクにできることはせいぜいメカニズムの説明であり、「なぜ俺が?」「なぜこの子が?」という、いわば実存的な問いに答えられるものではにゃーですね。
事故や障害についての、いわば「意味付け」とでもいうものが必要になってきますにゃ。ニンゲンは意味を病んでいる生き物にゃんからねえ。意味付けをなしうるのは、宗教や呪術であり、こうした営みは宗教や呪術はニンゲンがニンゲンであるかぎり、ニンゲンがリスクをとるかぎり必要なものといえるでしょうにゃー。
さて、
事故や障害などについての意味付けは心理的に必須であるとして、経済的な保障もまた必要不可欠ですにゃ。心は意味を食って生きるけど、身体はメシを食わなきゃ生きていけにゃーからな。それに、心理的な慰撫についても宗教だけに任してよいわけでもにゃーわけだ。社会的にどのように扱うかということは、「当事者」の心理に重大な影響を及ぼしますからにゃ。


確率的・統計的な統治者の視点においても、統治の目的が社会的紐帯の維持にあるかぎり、実存的な当事者の視点をシカトすることはできにゃー。
リスクコミュニケーションが往々にして統治者視点に偏りがちだという平川氏の指摘は重要なのではにゃーだろうか?

リスクをとるための前提

では当事者の立場から統治者の視点をシカトできるかというと、そうはいかにゃー。
というのも、経済的・社会的なリスク保障が可能なのは、統治機構がまともに機能していることが前提となるからですにゃ。
リスクを分散しシェアするために群れをつくるというのは、昆虫から魚類、そして類人猿、はてはニンゲンにいたるまでやっていることですにゃんが、特にニンゲンにおいては、複雑精妙な社会的な役割分担をしており、リスクマネジメントを社会制度化しているといえますにゃ。「人間はポリス的動物である」という言葉をリスクコミュニケーションの文脈で解釈すると、「人間は共同体(ポリス)でリスクマネジメントを行う」となるのでしょうにゃー。
つまり
共同体のセーフティネットが機能していることを前提として、はじめて積極的なリスクテイクが理性的・現実的な選択肢になるということにゃんな*2。共同体がリスク分散とリスクシェアをしてくれるからこそ、個々人が積極的なリスクテイクを行うことができ、その結果得られた富が共同体にフィードバックされて全体が豊かになってリスクマネジメント機能・セーフティネット機能が高まり、さらに大きなリスクテイクができる、というサイクルがニンゲンという生き物の基本的な「成長戦略」なのではにゃーだろうか。


つまり、僕たちがリスクテイクをするためには共同体が必要ということになりますにゃ。共同体を統治する視点をシカトすることは、個々人にとっても得にはならにゃーわけだ。
リスクを共有・分散してセーフティネットを張る共同体の存在こそが僕たちがリスクをとるための基盤であり前提であるということですにゃ。

許容されるのはどの程度のリスクか?

現実にリスクテイクの決定をするのは個々人にゃんが、リスクテイクするための基盤は共同体にありますにゃ。個々人が自らの意思決定によってリスクをとり、その結果として生命が失われることがあったとしても、それは共同体としてのリスクの許容範囲にはいっていることにゃんね。
僕は自家用車を所有し日常的に運転していますにゃ。事故によって死亡や高度障害になるリスクを理解してリスクをとっていますにゃ。そして自動車事故で個人が死ぬことは共同体のリスク管理に折込み済みであって、共同体のリスクマネジメント機能を脅かすものではまったくにゃー。個々人の生死は統計的・確率的な事象であって、それは運と愚行の問題なのだにゃ。共同体は補償すればいい。
つまり
問題となるのは、共同体のリスク処理能力の範囲を超えるリスク、あるいは共同体のリスクマネジメントを破壊するようなリスクということになりますにゃー。共同体のリスク処理能力を超えるリスク・共同体のリスクマネジメントを破壊するようなリスクは、とってはならにゃーリスクだにゃ。


1千万円の負債で破産する者にとって、借金は1千万でも1億でも1兆でも無限でも同じことにゃんな。処理能力をこえたリスクは、有限であっても無限と同じことにゃんよ。現実として無限リスクなど存在するはずもにゃーが、閾値を超えたリスクは無限リスクと同じことだにゃ。


閾値=共同体のリスク処理能力の限界、をどこに設定するかという話はもちろんアリですにゃ。しかし、閾値を超えたリスク=共同体のリスク処理能力を超えたリスクは、有限ではあっても無限大のリスクと同じことですにゃー。「逆さにふっても鼻血もでんよ。払えないものは払えない」というだけの話でしてにゃ。
統計的・確率的にシビアな統治者の視点*3においても、実存的な当事者の視点*4においても、共同体のリスク処理能力を超えたリスクテイクは認められにゃーだろう。

原発の具体的なリスクは?


大型原子力発電所の大事故が現実化すれば、早期の避難を行っても最大約1.7万人もの住民が急性障害で死亡し、晩発性のガンで死亡する住民も最大約41万人にのぼる。経済的には平均して約62.1兆円、最大約266.6兆円もの人的被害・物的損害が長期にわたって発生することになる。最悪の場合での被害額は日本の年間GDPの半分を超える。これはもちろん、多くの仮定に基づく試算に過ぎず、仮定のいかんにより結果が変わりうるものであるが、総じてこのような原子力事故の絶対的規模については十分に広く認識されてこなかったと思われる。


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00055987.pdf


前回エントリコメ欄で教えてもらった論文ですにゃ*5。論文の評価をする能力は僕にはにゃーのだが、体裁としてはまともな論文ではにゃーかと思う。ここは詳しい人のツッコミを待つとして、一応これをベースに進めますにゃ。
平均でも国家予算の3/4、最悪ではGDPの半分以上を長期にわたってもっていかれるという被害が現実化したら、これはまさに「プププ、日本終了のお知らせ」ではにゃーかと僕には思えるんだけど、みにゃさまはどう思う? 少なくとも日本という国家のリスク処理能力を完全に超え、さらにはリスクマネジメント機能を破壊するほどの被害なんでにゃーの?*6
僕たちはこの規模のリスクをとっているんだにゃ。


前回エントリの論点であった、リスクの規模についてはだいたいこんなものですかにゃ。
別論点にうつりますにゃ。

リスクコミュニケーションと意思決定

id:incompetent
とはいえ事故が起きたらまず死亡するであろう飛行機に人は乗っているわけでして。
スター id:enemyoffreedom id:fright id:kamm id:Dr_Caligari
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100705/1278299235


飛行機と原発では事故の規模がちがうだろというツッコミは入っていますにゃ。しかし、飛行機と原発のリスクには他にも重大な違いがありますにゃー。
飛行機に乗るってのは、自分の意思でリスクをとっているんですよにゃ。自動車を運転することも飛行機に乗ることもタバコをすうことも、自分の意思で選択してリスクテイクしているんですにゃ。
さて
原発が万が一「あぼーん」したとして、周囲数百キロが汚染されて立ち入り禁止区域になったり農業が禁止されることになるわけにゃんが、そうした広大な地域に生活している住民が、原発の建設についてなんらかの意思決定に参加できたでしょうかにゃ? 原発の建設地域においては、形ばかりにしても説明会などの「リスクコミュニケーション(笑」はあるといえるかもしれませんけどにゃ。やばい事故発生時の被害地域は建設地域をはるかに越えて広範囲を汚染するわけですにゃー。


大きなリスクをとれる前提には、共同体のリスク軽減機能がありますにゃ。しかし、リスクとはあくまで個々人が自らの意思においてとるものにゃんね。
自らの意思でとったリスクと、押しつけられたリスクでは、その意味合いはまるで違うモノ、まるでベツモノだにゃ。タバコがあんなに嫌われるのは、副流煙によるリスク押しつけが主原因でしょうにゃ。飛行機と原発では、規模も質もまるで違うんだにゃ。少し考えようよ。


個人でなく共同体全体でリスクをとる場合もあるでしょうにゃ。しかしその場合は、共同体におけるリスクテイクの意思決定プロセスに参加し、自分の意見を表明して討議する機会が与えられなければならにゃー。


原発は万が一の場合の被害規模がでかすぎることもあり、潜在的な当事者へのリスクコミュニケーションがまったくとれておらず、リスクテイクの意思決定への参加も完全に遮断されているのだにゃ。


自らが選択してとったわけでもにゃーリスク、リスクテイクの意思決定からも遮断されたリスク、つまりは押しつけられたリスクに対して
「そんなリスクは知らんぞ。そんなリスクはゼロでなければ納得いかん」
と対することは実に合理的かつ正当ではにゃーの?


・・・と、ここで読者諸賢の声が聞こえてきそうにゃんな。
「現代文明の恩恵を享受しているというだけで、結果的には原発に賛成していると同じことさ」
さて、どうかにゃ?

リスクコミュニケーションと情報公開

さきほど紹介した、原発被害のシミュレーション論文に以下の一節がありますにゃ。


科学技術庁原子力産業会議による試算(1960年当時)は当時非公開とされた。熱出力50万kWの原子炉の事故被害額が、最悪の条件下で3.7兆円(当時の国家予算の約二倍)と見積もられたためである。


そして、引用論文「はじめに」によれば、それ以降は政府機関が原発災害時の被害額を算定し公開することすらしていにゃーわけだ。


リスクコミュニケーションにおいては、情報公開がなによりもまず大切ですにゃ。原発を推進するのであれば、万が一の場合にどれだけの人的・経済的な被害が見込まれるかを算定してその情報を公開する義務があるのはアタリマエ。
見込まれる被害額を算定し公開することを政府が本当にやってにゃーのなら、こう断言していい。

  • 原発についてのリスクコミュニケーションを行う意思は政府にはない

ということだにゃ*7


見込まれる原発の絶対的リスクを広く公開し、被害が見込まれる地域の住人、つまりは潜在的な「当事者」すべてに説明をし、リスクテイクの意思決定プロセスに参加してもらうという手順をふむ。そうしたプロセスを経なければならにゃー。原発のような大規模リスクをともなう技術を推進するのであれば、本来はここまでやらなければならにゃーはずだ。
ここまでやってはじめて、「現代文明の享受は原発容認を意味する」といえるのではにゃーのか? この大規模リスクを提示されたら、生活レベルをおとしてもよいと考えるヒトはけっこう出てくるのではにゃーのか?


何かあったら致命的なのに(*8、その情報がろくに公開されてにゃー技術。リスクの隠蔽が無関心を経由して消極的容認を生みだしている技術なのだにゃ、原子力って。そして、原子力はゼロリスクだと言っていたのは、他ならぬ政府だったんだにゃ。


ゼロリスク談義で思い出す一コマ。97年くらいだと思うが、当時の科技庁で東海地震予想震源域にある浜岡原発の安全性に関して地元住民との討論会があった。そのとき政府側のとある科学者が曰く「みなさん、どんなものにもリスクはあるんです。そのことをご理解いただけなければ話が成り立ちません!」


それに対する地元住民側からの反論。「どんなものにもリスクがあるというのは、私達がずっと言ってきたことです。それを否定して、原発は絶対安全と繰り返してきたのはあなたたちではないですか!?」。「ゼロリスク神話」の実態を物語る珠玉のやり取り。


http://togetter.com/li/2037

まとめ

ゼロリスクを求めることは愚昧だと一般的に流通していますにゃ。もちろん、ゼロリスク要求がどうしようもにゃー無知無見識にもとづくことも多いのは承知していますにゃー。
しかし
リスクコミュニケーションが往々にして統治者視点に偏りがちだということも考慮しなければならにゃーし、ゼロリスク要求が無知に基づくものでもなく笑いものにできにゃー状況は確かにあるってのも大事なんでにゃーかな。

  • 見込まれる被害の大きさが共同体のリスク処理能力という閾値を超える場合
  • リスクテイクの意思決定に参加できない場合
  • リスクコミュニケーションの前提である情報公開がなされない場合


日本における原発という技術にはすべてあてはまってにゃーかね?


おまけ 僕は後出ししてにゃー(ぷんすか

id:inumash はてな
id:tikani_nemuru_M なんつーか“前提の後出し”が多すぎやしませんか?これで2回連続ですよね?“現実の無限大被害がない”のはその通りだと思いますが、なら“∞”なんて単位を使うべきではないですよ。
スター id:contrapunct id:ChieOsanai id:mobanama id:vivagoat id:blackshadow id:h-hirai id:y_r id:nabesems id:shinpei0213 id:nekoluna id:narwhal
はてなブックマーク - リスク管理における“A(発生確率)×B(被害)=∞”という無意味な計算式 - 想像力はベッドルームと路上から


ありゃー、僕が「前提の後出し」? しかも何度も? しかも、信頼している論者まで何人かスターをつけていらっしゃいやがりますにゃーorz
数学記号の用法については是非があるとして、後出しなんてやってにゃーんだけどにゃー・・・・。論証しますかにゃ。


1)ゼロリスクも被害無限大も現実にはありえないことは常識。常識を前提にしちゃいかんの?


2)前回エントリブクマコメで、「発生確率Aと被害規模Bは独立変数じゃねえだろボケ」とかいうdisがあったけど、もちろん僕はそんなこといってにゃーですね。
「施設が大型化して集中管理する→Aは減少、Bは増大、A×Bも減少」とは書いたので、AとBが相関するということは明示してあるわけですにゃ。で、【実際に】Aがゼロリスクになることはありえないとも明示しているわけだにゃ。だったらBが【実際に】無限大になんてなるわけにゃーことも少なくともほのめかしとるね。


3)「最悪の事故が起こった場合、日本社会に破局が訪れるかもしれませんにゃ。Bに「∞(無限大)」を代入すると、A×B=∞ になっちまいますにゃー。」と書いてありますにゃ。明らかに日本社会の破局と無限大をからめた記述にゃんね*9。現実の被害無限大などというデムパをいうわけにゃーです。

ここからは「じゃあなんで日本社会の破局=無限大なんだよ」というツッコミがあるだろうけど、そこについてはすでに解説ずみ。


馬鹿のくせに省略するんじゃねえ! というお叱りは受けるとして、意図的な前提の後出しなんて、そんなハヅカチイことやんにゃーですよ。


最後に、前回エントリブクマコメで是非とも答えておきたかったツッコミ


id:harutabe
まあ、リスク管理を考えれば他人に向かって「ドヤ顔」なんて言えないよな

にゃっはっはっは、これは巧い!
しかしね、harutabe、ここで見込まれる「被害」は僕が赤っ恥をかくことだけであり、僕が恥をかくなんてことは世の中で一番どうでもよいことのひとつだにゃ。その辺のアリンコの命のほうがよっぽど大事。つまり、リスク極小なのよ。

*1:ゴロがいいな、これ

*2:セーフティネットが強力なほどリスクテイクは積極的に行われることになるだろうが、あまりにもセーフティネットが強力すぎるとリスクテイクの必要が減少するということもありえるだろう。まあ、均衡点はあるだろうけれど

*3:これをもって「まっとうな保守の視点」と僕は考える

*4:サルトル的なサヨ視点」とでもしておく。異論は受け付けます

*5:いつも「と」には面白いデータを教えていただいてもらって感謝

*6:広大な国土とまばらな人口密度のメリケンやロシアでは、ここまで破滅的なリスクとはならんだろう。ああした国ではリスクが処理能力を超えてないかもしれないので、「無限大リスク」という判断にならんかもね

*7:前回エントリへつけられた、id:swan_slabのコメント http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100705/1278299235#c1278350553 も参照のこと

*8:官僚の生態では、何かあったら致命的であるが【ゆえに】

*9:この点はinumashもつぃたー上で了解ずみ

リスク管理を考えれば原発には疑問


追記20時50分ごろ
ブクマコメなどで反論をいただいているようなので、ブクマコメ・コメントの増加が終わった頃に反論エントリをあげますにゃ。数日以内にはあげられるよう努力しますにゃー。現時点での反論を見るに、馬鹿の晒しあげになりそうにゃんが。
まともな反論を心待ちにしつつ。
追記ここまで


id:tikani_nemuru_M
食品にノーリスクを求めるのは馬鹿げているが、原発に絶対確実な安全性を求めるのは当然だぞ。スリーマイル島チェルノブイリもなかったことになってんの? 原発反対を無知に基づくものとみなすのは大問題だね。 2010/07/03


id:ktasaka 原子力
↓じゃああなたは同じ「0リスク」を「火力」「石炭」「水力」に対して言える?原発で起きてる警報の大半は前者と同じ事象なんだけれど、0リスクを求める人の大半は、なぜか前者には盲目無言なんだぜ。
上記ブクマへのスター id:contrapunct id:arvante id:repose id:amajam id:kalmalogy id:choroma id:contrapunct id:narwhal id:k-takahashi id:inumash id:e_p_i id:nekora


id:inumash 社会
現実に“絶対確実な安全性”なんて存在しないと思うけどなー。そんなものがあるのは人間の頭の中だけ。んでもって、人間が現実の事象に対して“絶対確実に安全”なんて考えてしまうこと自体がリスクだよね。
上記ブクマへのスター id:ryankigz


http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/32994


元エントリ(まとめよう、あつまろう - Togetter)では、海洋ウランの「総量」は廃棄する量より遥かに多いから核廃棄物を海に捨ててよいとかいうすさまじい発言があったりするにもかかわらず、「原発反対=感情的」という思い込みbotのごときカキコがブクマが散見されるので、おっかなくなって書いてみましたにゃ。
シロウトなので専門的な見地からの反論を心待ちにしておりますにゃー。


では本論。

この本はていねいなよい本でしたにゃ。環境問題は基本的にトレードオフ(=一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反の状態)であり、ノーリスクなどということはありえにゃーことを豊富な事例で説得していますにゃ。例えば、遺伝子組み換え食品に対するわけのわかんにゃー恐怖感も、こうした言論活動で弱まっていけばいいと思いますにゃー。

これはこれでいいんだけど、食品と環境についてのこの論法を、よく考えもしにゃーで巨大技術、特に最悪の事態が起こったときのリスクがパねえ技術にそのまま適応されても困るのですにゃ。inumashクン風にいえば、そんなふうに考えてしうこと自体がリスクにゃんな。


「現実に“絶対確実な安全性”なんて存在しないと思うけどなー」
然り! そんなことは話の前提だにゃ。ドヤ顔でいうような話ではにゃー。
僕のいいたいことは、ブクマコメでも何人かすでに言及しているにゃ。


id:summer-forest
「火力」「石炭」「水力」と「原子力」で求められる安全さの度合いが違うのは、それぞれの「最悪の事態」を考えれば当然だと思うけどなぁ。/あと日本だと地震が起きるのも不安の種?


id:akkakka
弱い敵国がやけになって原発攻撃されたら周辺含め、日本の国土は一巻の終わり。原発の重大なデメリットだと思うが。


id:steel_eel
最悪の事態が−∞の値をとると感じられるので、それが発生する確率が微小でも関係なくヤバイと感じるのだよね。本質的なリスク計算が不可能な問題だと思われる


id:Mu_KuP
原発そのものの批判はしない。が、人間が未来永劫ノー事故で扱えるエネルギーではないと思う。/油田爆発、チェルノブイリ、バケツ臨界。リスク評価とコスト至上主義が、いつか原発システムを滅ぼす。


id:type-100
リスク管理の方法として、発生確率が極小でも被害が甚大ならやらないという方針は十分ありえる


僕たちの生活にエネルギーは必要不可欠だから、エネルギーを利用するためのリスクをとるということには何の異存もありはしにゃー。
一般論として、リスクを減らすためにはコストがかかりますにゃ。コストが高くなることを防ぐためには、リスク管理のできる施設で大量に処理をすればよいということになるのも一般論にゃんね。もちろん、大量処理する施設においては、リスクは極限まで低くなるように設計され運用されることになりますにゃ。


ここで、以下の2つの「トレードオフ」を考えてみましょうにゃー。

  • A→天災・人災などによる事故の発生確率。ゼロになることはない。
  • B→最悪の事故が起きた場合の被害の大きさ

リスクの大きさというのは、乱暴にいえばA×Bなんだよにゃ。
で、

  • 施設が大型化して集中管理する→Aは減少、Bは増大、A×Bも減少

ということになると一般的に考えられますにゃ。
これらの要因の他に、コストやリターンなどを考慮してある程度の均衡があれば、その技術と技術の規模は実用的であるといえるでしょうにゃ。個にゃん的には、たとえA×Bが減少したとしても、Bがでかすぎる技術には問題が大きいと考えますにゃ。リスクを分散することが最良のリスク管理だと考えますにゃ。


で、原発だにゃ。
現在の持ちえる技術を結集し、その運用も慎重を極めているということをとりあえず信用するとして、Aは極小に近いとしましょうにゃ。しかし、Aはゼロになることはにゃー。
しかし
問題はB、最悪の事故が起きた場合の被害の大きさなんだにゃ。最悪の事故が起こった場合、日本社会に破局が訪れるかもしれませんにゃ。Bに「∞(無限大)」を代入すると、A×B=∞ になっちまいますにゃー。
Bの見積もりによっては、A×Bの増大もありえるわけで、原発という技術には長期的に運用する妥当性がにゃーという結論も合理的なんでにゃーかな?


「じゃああなたは同じ「0リスク」を「火力」「石炭」「水力」に対して言える?」
と問われたら、「火力」「石炭」「水力」はBが限定的なのでゼロリスクを求める必要がにゃー、と答えますにゃ。原発に「0リスクを求める人の大半は」チミらよりもリスクについてちゃんと考えているんじゃにゃーのかな?>id:ktasakaと彼のブコメにスターをつけたお歴々。


廃棄物処理技術も現段階では確立してにゃーこと、原子力という幻想 - シートン俗物記にあるように将来性もにゃーこと、などなどを鑑みるに、原子力発電は、コスト・リスク・リターンの均衡から外れた技術ではにゃーかとシロウトながら判断していますにゃ。
つなぎの技術以上のものではにゃーでしょう。

消費税エントリの補足と応答、そしてオマケ


では予告通り、前回エントリの補足と応答など。前回エントリのコメ欄を併せて読んでいただいたほうが面白いとは思いますにゃ。
あと、後ろのほうにオマケとして「分裂勘違いクン晒しあげ劇場」を上演しておりますにゃー。

ブクマコメに応答1

まず、ブクマコメで応答の必要のあるものをとりあげましょうかにゃ。

id:metalbabble
意地汚い豚は誰かというと納税以上の利益を享受する奴全般がそうだろ 税金を消費するだけの貧乏人も老人も障害者も公務員も豚

あのにゃ、仮に完全に公平な税制というものが実現し、その税制のもとで社会が豊かになったら、全員が「納税以上の利益を享受」ってことになるんだけど。理想の税制と社会の関係が実現したら、チミの言い分だと全員豚になるにゃ。
チミな、脳があるなら使ってご覧?

id:Yagokoro
結局税に関してはポジショントークばかりな現実。みんな払いたくはない。貧乏人は金持ちからもっと取れと言い、金持ちは俺らばかり不公平だと言う。

具体的な反論なしでポジショントーク呼ばわりというのは、実に安易で下品なものいいにゃんな。僕に下品と言われたらオシマイだぜ。保守には品格がにゃーとな(げらげら
税負担をOECD諸国の標準並にしようよという主張をポジショントーク呼ばわりできるなら、どんな主張でもこの論法で一蹴可能にゃんな。これなら無敵だにゃー。
無敵と言われて嬉しいかい?

id:andalusia これはひどい, economics, neta
逆進性なんて相対的なもんだから、極端な話、消費税上げてそれを全て均等に定額給付金配れば、格差是正側に働くよ。/ あと、配当に回るから金持ち優遇ってのは頭悪い。内部留保と配当金は等価だよ。

えーっと、所得税率が下がり続け、法人税減税と消費税増税がセットになって政策イッシューになっているというのがここでの文脈ですにゃ。本文にもそのあたりは書いてあったはずだけど、読んでる?
あと、「内部留保と配当金は等価」って本気? 内部留保って狭義には利益剰余金のことで、これに配当が含まれるはずもにゃー。広義には「内部留保は配当金を含む」というのは成り立つと思ったけどにゃ。僕の頭が悪いの?

id:imakita_corp blog
釣りじゃなさそうなのでたぶんこの人は税制とか色々と勘違いしてると思う

担税力に応じてニーズを満たすための支出をみなで負担するものが税だと思っているけど、違うの? 具体的な反論ができにゃーけど、気にくわないから何か言ってみただけでにゃーのなら教えてくださいにゃー>旭日旗アイコンのチミ

id:takaneh これはひどい
「意地汚い豚」って低所得者層を指してるんじゃないんだ。日本はアメリカに比べれば金持ちを優遇してないでしょ。消費税はみんな一律で支払う税金だから公平。累進課税低所得者保護のため。

えーっと、中身を読んでから「これはひどい」をつけたほうが恥をかかなくていいと思うにゃ。メリケンよりも日本のほうが金持ち優遇だと書いたんだけど・・・
それに、「担税力に応じて税を負担する」とも書いたんだけど・・・・。税率が一律だから不公平だという簡単な理屈がわかんにゃーかね?

ブクマコメに応答2

id:honjitsutosan
総合課税化や教育費の低負担化には賛成だけど、法人税のくだりは一経営者としてうなずけない。また、マスコミのせいばかりにするのはいかがなものか。彼らが果たすべき責任を果たし切れているとは思わないけどさ。

まず問題は、菅直人もその財政のブレーンたる神野直彦もそんな発言はしていにゃーにもかかわらず法人税減税と消費税増税がセットにされていることですにゃ。ここしばらくのマスコミの論調では、消費税に逆進性があること自体が隠蔽されている感すらありますにゃ。この件に関してマスコミは本当にヒデエと思う。


で、零細企業の経営補佐(要は雑務だけど)のような立場でメシを食っているものとしていえば

  • 法人税を払っている企業は半分もなく、ほとんどの零細企業には法人税減税の恩恵はない
  • 価格転嫁しにくいポジションで商売をしている零細企業にとって、消費税は外形標準課税といってよい。すごくキツイ


経営を安定させるためには儲けを内部に留保できるほうがよいけれど、中小零細にとっては4割の税率はキツイというのはわかりますにゃ。だからオーナーやオーナーの家族に報酬・給与を多くだして会社は赤字にし、余剰を個人あるいは家族でストックして波に備えるというのは基本にゃんね。オーナーなどの報酬・給与にかかる社会保障所得税よりも法人税負担のほうが小さければ、法人税を納付する企業がガンとふえるかもしれませんにゃ。そして、そのほうがもしかしたら健全な姿なのかもしれにゃーとは思いますにゃー。
現在は研究開発費なんかは非課税になっていますよにゃ。そのほかにも雇用の安定などのような企業の社会的責任を果たすことをうながす法人税の非課税措置はありなのではにゃーかとシロウトなりに考えたりはしますにゃ。まあ、税が複雑になるのはよくにゃーんだけど。

id:tanaka-daisuke
社会保障負担は労働者賃金への帰着割合が大きいから、社会保障負担を100%合算して負担率が低いという議論は微妙。


社会保障負担は企業の財布においては労務費なんですよにゃ。つまり給与と社会保障負担は同じ財布ですにゃ。だから確かに「社会保障負担を100%合算して負担率が低いという議論は微妙」というのは正しい*1
社会保障負担割合が大きくなった場合、企業としては賃金をカットするか雇用を抑制するかということになっちゃうんだにゃ。
ただし
賃金には下方硬直性があるとか、日本の社会保障は年収130万ラインで加入義務が生ずるけど国際的な標準は60万くらいだとか、そもそも法令違反で従業員を社会保険に加入させてにゃー企業がざらだとか・・・労災に未加入とかトンデモな企業すらけっこうあるのが現実ですにゃ。労務管理における法令違反ってやり放題なのがこの国の現実で、労働者とマジメやっている経営者がワリをくっているわけにゃんな(タメイキ


大手企業でも擬装請負の問題があったりして、違法な負担逃れまで考慮すると日本の企業は制度のタテマエ上の負担をしているとはいえにゃーですよね。
税の問題は公正さの問題なんだから、違法な労務管理が横行している日本企業の負担率を額面通り受けとるのもまた「微妙」ですにゃ。


前回エントリでも労働法制の遵守にはちょっと触れていますにゃ。
というわけで前回の主張を少し訂正すると

とでもしておきますにゃー。

給付付き税額控除など

今回いろいろと調べていて、給付付き税額控除についてなかなかよさげな資料を見つけたのでリンクしておきますにゃ。


制度の説明や目的もしっかり書いてあるし各国の制度の紹介も詳しいにゃ。個にゃん的にこの資料でオモチロかったのは現行の所得税の「所得控除」は実は金持ち有利にできており、これを税額控除にすれば累進制を高めなくても「負の所得税」を給付する財源がでるんじゃね、というあたりの分析でしたにゃ。


負の所得税というのはミルトン・フリードマンの言いだしたネオリベ税制だと捉えられているようですにゃ。しかしフリードマンは福祉を負の所得税だけで完結させようとしたわけだけれど、実際には負の所得税と他の貧困対策の複合的な政策が成果をあげているようですにゃ。ガキを抱えてフルタイムで働く貧困層にとっては、たぶん日本よりメリケンやエゲレスのほうが保護が厚そうだにゃ。リンクした資料を見ればわかる。日本の現状は本当にヒデエ。
僕は改良主義者なので、とりあえずはエゲレスやメリケンのようなアングロ自己責任主義国家における貧困対策程度のことはやってみろと主張したいところにゃんね。給付付き税額控除を実現するなら、給付額などのデザイン次第で消費税増税には賛成しますにゃ。適切な再配分がなされる増税ならOK。


ベーシック・インカムにしても、現金給付「だけ」で福祉をまかなうっていう主張はネオリベがいっているわけで、負の所得税にしろ、BIにしろ、他の施策と組み合わせるつもりがあるかどうかは大きな論点にゃんね。


給付付き税額控除(負の所得税)は、BIよりも受容されやすく、社会保障との一体的なデザインもやりやすいとは思われますにゃ。ただ、納税番号制は必要になってくるでしょうにゃ。

おまけ1 id:fromdusktildawnのブクマコメへの反論

まずはブクマコメ。

id:fromdusktildawn
「他の国の多くは総合課税」←デマ。欧米の主要国ではほとんど分離課税だよ。http://bit.ly/aNpEOK。2年後以降は日本20%、英18%、米8〜20%、独26%、仏30%。/分離課税は個人投資家だけで、GSとかの法人は総合課税。

リンクしたデータに古い部分があったのは確かだけど、デマといわれるようなものではにゃーな。
まず、
ふろむだ氏のリンク先にとぶと、メリケンは総合課税であるということは明らかですにゃ。
また
すでに指摘があるけど、「2年後以降は」というのは詭弁にゃんな。なにせ現在は日本は10%の税率だにゃ。


1999年に経済危機を理由にして所得税定率減税が実施されましたにゃ。当初は「恒久減税」というふれこみだったんですよにゃ。で、この時に証券に関する所得についても減税されて、キャピタルゲインなどの証券での儲けへの課税も10%になったわけですにゃ。
ところが、社会保障にあてるとかいう話で給与所得などの定率減税は06年をもって廃止されましたにゃ。証券の儲けなどの減税には手をつけにゃーままにね(げらげら
で、
この減税措置を廃止するとかいいながら、ずるずると続けているわけですにゃ。政権交代してここに手をつけるかと思っていたら、鳩山はこの減税を続ける旨の発言をしていましたにゃ。菅がどうするつもりかは今のところわかんにゃーけど。


で「分離課税は個人投資家だけで、GSとかの法人は総合課税。」の部分は書き換えてあり、もとは「証券での儲けに関する日本の税が突出して安いというのもデマ」とかいう内容のことでしたにゃ(正確な記憶ではないかもしれない)。


 大門実紀史参議院議員の求めで財務省が計算したところ、上場株式等の譲渡益・配当課税額は、日本はおおむね欧米主要国の2分の1から4分の1に軽減されていることが明らかになりました。


 例えば1億円の配当への課税額は、日本は1000万なのに対し、アメリカは2308万円、イギリス2278万円、ドイツ1859万円、フランス2799万円で、日本はフランスの35%です(比較の単純化のため収入をすべて配当所得とし、夫婦子ども2人世帯で計算)。


株のもうけ 税金がフランスの35%って本当なの?


配当所得で計算しているとはいえ、欧米諸国より突出して恵まれているとしか思えにゃーのだが・・・


というわけで、メリケンが総合課税であることとか、あてにならにゃーこれからの減税廃止を既定事実のように書いていることとか、ふろむだ氏のブクマコメには相当に問題がありますにゃー。一見するとちゃんと根拠のある批判にみえるからスターがいっぱいついているけどにゃー。

おまけ2 id:fromdusktildawnのコメ欄への反論

ふろむだ氏は、前回エントリのコメ欄にご光臨なさっていますにゃ。「議論の正確性については興味があります」というご理由ですにゃー。

fromdusktildawn
日本の個人投資家の譲渡益課税って、税収規模からすると、消費税と比較してどうこう言えるようなものじゃなくって、譲渡益課税が増えようが減ろうが、消費税云々の議論とは別だったりしません?それとも、税収額を増やすのが目的ではなく、単に道徳の問題として、譲渡益で儲けるのは正しくないからそこに重税をかけろ、と言う議論ですか?
2010/06/10 18:31

この後、証券課税の減税規模が1兆円だということがわかってこの話題は立ち消えになったんだけど、実はここを読んで僕はビックリしていましたにゃ。
「税収額を増やすのが目的ではなく、単に道徳の問題として」というくだりを読んで、なんじゃこりゃ! と。
公平・公正が税制の生命線だとばかり僕は思っていたんですけどにゃー。それどころか、市場メカニズムだって公正でなければ信認されにゃーですよ。


経済倫理においては、極端にいうと

  • A)たとえ経済成長を阻害したとしても原理的な公正をもとめる

  • B)たとえ公正さを犠牲にしても経済成長を優先し、結果的に弱者が救えればよいとする

という対立がありましてにゃ。僕自身はどちらかというと経済成長重視のBの立場なんだけど、あくまで公正を求めるというのが間違っているとも思えませんにゃ。
ここで重要なのは、もし原理的に杓子定規に考えると公正さと効率(経済成長)が互いに矛盾するように思ってしまうかもしれにゃーけど、それは錯覚だということにゃんね。不公正な市場での経済成長と公正な市場での経済成長のどちらが効率的かを考えれば、むしろ、公正さと経済成長はお互いをその手段とするといったほうがいいのではにゃーかと。少なくとも、公正さと経済成長を両立するのが政治の役目にゃんね。
だから、穏当な見解としては
「公正さを目的とするので、その手段として経済成長を重視する」「経済成長のために、公正さを確保する」ということになるはずなんだにゃ。


仮に株式譲渡益への課税額がたいしたことがないとして、不公正な税制をほっておくのは税制全体への信認を毀損してロクなことにならにゃーのは当然にゃんがねえ。税を語る際に「単に道徳の問題」なんていえることにビックリにゃんよ。これはこれでお花畑にゃんなあ・・・・
自分のことを現実的だとみなしているお歴々に、ニンゲンは道徳的な生き物であり、それは制度設計における前提だという「現実」が見えてにゃーということはしばしばあるんだよにゃ。道徳嫌いお花畑とでもいえばいいかにゃ?


ところで
証券での儲けへの減税規模は、キャピタルゲイン課税だけでもだいたい1兆円ですにゃ。配当への課税減税もふくめれば、もっとでかいでしょうにゃ。

この1兆円というのは、だいたい

  • 消費税0.5% あるいは 法人税2%

くらいですかにゃー。キャピタルゲインへの課税率を、分離課税のままでいいからフランス並にすれば、法人税を4%くらいさげる財源になりますかにゃ。これなら僕も特に文句なんていわにゃーですよ。

マスコミの論調についてはぼくも不満があるけど、さすがに「捏造」だとは思いませんよ。

菅とそのブレーンは所得税増税論者ですにゃ。それが、税制を見直すと発言すると消費税増税と報道しちゃうのは捏造レベルだにゃー。視聴率優先のテレビだけじゃなくて、新聞もそういうことしているんだにゃ。

fromdusktildawn
消費税の逆進性は、議論の余地のないようなものじゃないですよ。
経済学者同士で、けっこう複雑な議論があるみたいですよ。
2010/06/11 08:25

消費税ってのは消費にかけるよね、アタリマエなんだけど。つまりそれは生産年齢以外にもかかる税金ということですにゃ。金持っている老人からも税金をとれるというのはいいことかもしれにゃーけど、担税力のにゃービンボー老人やガキからも税金をとる税制にゃんね。
大竹文雄氏が「生涯スパンでみれば消費税に逆進性はない」という議論をしているようだけど、少なくとも貧困層の子育て世代にとって消費税の逆進性は凶悪なものだってのには議論の余地なんてにゃーだろ。


また、大竹氏の議論における前提とは「生涯の収入を死ぬまでに過不足なく使い切るモデル」であって、財産を残すのであれば消費税の逆進性は否定しようがにゃーわけだ。
また
所得税課税後の消費税支出を用いて大竹氏は議論しており、累進的な所得税があるからこそ消費税が結果的に逆進性を免れているわけにゃんな。
詳しくは大阪大学社会経済研究所教授 大竹文雄 「消費税は本当に逆進的か」のゴマカシ 違った見方 穿った見方/ウェブリブログをご参考に。


つまり大竹氏の議論は、金持ちが死後に財産を残さず、しかも累進的な所得税を前提とすれば、一生涯で見た場合は消費税に逆進性はない、という無理に無理を重ねた議論なんだよにゃ。
何にしても、貧困層子育て世代にとって消費税というのが凶悪な税制であるということに議論の余地があるとは思えにゃー。ビンボー人のガキを直撃する税制であることは否定しようがにゃーだろう。
しかし
そのあたりに意図的に目をつぶっているのか理解できにゃーのか、(多分大竹氏の議論と氏への反論をふまえた上で)ふろむだ氏は以下のようなことを言いだしますにゃ。

fromdusktildawn


「稼いだけど使わずに死んでしまって残った金」が大きければ大きいほど、「消費税の生涯負担率」が低くなります。
そして、金持ちほど、「稼いだけど使わずに死んでしまって残った金」が大きいので、「消費税の生涯負担率」が低くなるのだから、消費税には逆進性がある、というのが、消費税に逆進性がある派の人達のロジックであることが多いように思います。


しかし、これこそまさに、「税制全体のデザインにはふれずに消費税増税「だけ」」を議論している典型例ではないでしょうか。


「稼いだけど使わずに死んでしまって残った金」にかかる税金の額の大きさによって、消費税に逆進性が生じるかどうかが変わってくるのですから。


もし、「稼いだけど使わずに死んでしまって残った金」にかかる税率が、消費税率よりも大きいなら、消費税には逆進性が生じる、という議論は難しいのではないでしょうか。


現状、相続税率は10〜50%なので、消費税率よりもずっと高いので、税額控除さえなければ、消費税には逆進性が生じないはずです。
http://www.nta.go.jp/taxanswer/sozoku/4155.htm


つまり、消費税の逆進性は、単に相続税の税額控除が生み出しているものであって、相続税の税額控除が小さくなれば、消費税は逆進性どころか、累進性が生じるのではないでしょうか。
2010/06/11 08:25

・・・・えーっと、こちらのいったことを理解してにゃーようです。あるいは、消費税の逆進性を問題にしているヒトたちのいっていることがまったく理解できてにゃーというか。
いいかい、ふろむだセンセイ。
僕をふくめた多くの人は、消費税「単体」では逆進性が高い、ということを問題視しているんだよ。累進的な所得税なり相続税なりという所得再分配機能の高い税制を組み合わせれば、その逆進性を緩和できるなんてことは最初から明らかなの。
わかりきったことをドヤ顔で言うって芸風はあんまり好きではにゃーんだけど。
消費税増税「だけ」が政策イッシューにまつりあげられることを問題視していることは何度も何度も明言しているのに・・・・


だいたい相続税の納税義務者って、財産を残して死んだ金持ちではにゃーぞ。財産を相続する金持ちの家族にゃんぜ。課税客体は確かにストックだからストック課税とはいえるけど、相続所得という特殊な所得にかかる税だというのもいえるんだにゃ。払うのは財産相続を受けるものなんだから、ふろむだセンセイの議論はまるで明後日の方向を向いているんでにゃーの?


コメ欄で「ねこねこ」にも「相続税と他の税制を絡めると、どんな税制も擁護できる」といわれたことへの再反論 2010/06/11 10:24が実に珍妙でしたにゃ。
先に、消費税の逆進性は相続税で相殺できるという旨のことをいった同じ口で、所得税がゼロであったら相続税100%でも累進性がなくなるとかいう超論理。


さらに「ねこねこ」に
「議論をミスリードして貧困層を苦しめるために、わざと混同させていて、やり口が卑劣すぎます。」
といわれると

fromdusktildawn
そもそも、ここで私が何を書こうが、日本の税制に与える影響はほぼゼロだという確信が、ぼくにはあります。
まず、このコメント欄を読む人なんて、ごくごく少数だし、読んだとしても、ぼくの展開する議論の筋道を念入りに追いかける人はさらに少数です。
税制に与える影響がほぼゼロであれば、貧困層を救うことも苦しめることもできるわけがないです。
2010/06/11 10:41

はあ?
「ねこねこ」の批判しているのは、「議論をミスリードして貧困層を苦しめる側のロジックだ」ということだろにゃ? 日本の税制に強い影響力のある人物がここで議論しているなんてデムパな前提は誰にもにゃーだろうに。
でな
「このコメント欄」はまあまあ面白くなっているので掘り返して読むヒトを増やし、さらにふろむだセンセイの議論の筋道とやらを「念入りに追いかけ」て晒しあげているわけだにゃ。

fromdusktildawn
まあ、いずれにしても、ここは、そういう議論はできないorするつもりのない人達が集まる場所だ、ということはだいたい感触として分かりました。

そういう議論ができる人達の所に行って議論することにします。
さようなら。
2010/06/11 10:41

こんなくだらにゃー捨て台詞を残さなければ、僕もこんなに突っ込んでにゃーんだけどね。
前回エントリのコメ欄で複数回発言をしていただいたコメンターのなかでは、ふろむだセンセイが断トツで低レベルだった、良い悪いとか政治的立場とかの問題でなく低レベルだった、と煽りでもなんでもなく判断しているにゃ。社会保障や税制についてこのレベルだとは正直思ってなかったにゃ。

*1:厚生年金なんかは半額企業負担だから、支払いよりもリターンのほうが多いという議論も実は微妙なんです