合理・非合理についてのユングの見解とプレコックス感


24日のエントリ精神分裂病統合失調症)診断におけるプレコックス感と臭いについて思いつきを書いたところ、幻影随想: 勘というのは、経験と理論に裏付けられた立派な才能であるというトラバをいただきましたにゃ。
というわけでトラバに応答させていただきますにゃ。


24日の僕のエントリでは、プレコックス感を臭い【のみ】に求めているようにしか読めませんよにゃ。こういう主張が懐疑的に受け取られるのはアタリマエといえますにゃ。
というわけで訂正しますにゃ。

これならぐっと穏当な主張になったのではにゃーかと。
以前に引用した「かくれた次元」に、


セント・ルイスの精神科医であるキャスリーン・スミス博士は、ネズミが容易に分裂症患者と非分裂症患者のにおいをかぎわけることを示した。

とあるのも論拠としてあげておきますにゃ。まあ、この実験がどの程度妥当なものなのか、あるいは追試されたかどうかすら知らにゃーけど(←無責任)。


また、25日のエントリでは、黒影の論じた「勘」を、1人のニンゲンの頭に放り込まれた知識の「科学化学反応」と結びつけて論じようと思って書きはじめたんだけど、自然科学の方法論そのものの方向へ話が飛んでいってしまったわけにゃんね。
ふりかえってみると、25日のエントリの内容は幻影随想: 人はなぜ信じるのか―迷信と疑似科学―の補完的な内容になっていますにゃ。まあこの辺は行ったり来たりですよにゃ。

ユングをひっぱりだす

では「プレコックス【勘】」についてあらためて考えてみますにゃ。
そもそも勘というのは言語化しがたい能力なので、いろいろ突っ込みづらいことこのうえにゃーんだよね。どうせだから暴走して、ここではユングに即してイイカゲンにいきますにゃー。


ユングは「タイプ論」において、ニンゲンの心的機能を「思考ー感情」という合理的機能と「感覚ー直観」という非合理的機能とにわけて論じていますにゃ。思考が合理的であるのは自明として、感情が合理的機能であるというところにユングの洞察力があらわれていますにゃ。詳しく論じる余裕はにゃーのだけど、感情がそもそも合理的な機能であることは進化心理学の知見から明らかだと考えていいのではにゃーだろうか。


さて、「感覚ー直感直観」という非合理的機能 ir-rational function にゃんが、これは知覚 perception にかかわる機能ですにゃ。一方、「思考ー感情」という合理的機能 rational function は知覚機能によって取り入れられた内容を判断 judgement するものとされますにゃ。
つまり、
「感覚ー直観」という非合理的機能は受動的な知覚機能であるということになりますにゃ。
このあたりを念頭において、以下のユングの記述をお読みくださいにゃ。

合理・非合理についてのユングの見解


非合理的


私はこの概念を理性に反するという意味ではなく、理性の外にある・すなわち理性では説明できない・という意味で用いる。たとえば地球には月が一つあるとか、塩素は元素の一つであるとか、水は摂氏四度のときに最も密度が高くなるといった基本的事実がこれに含まれる。さらには偶然も、時には後になってその理性的な因果関係が立証されることもあるといえ非合理的である。


非合理性は存在の一要因をなしており、確かに理性的説明を複雑化することによってこれを向こうへ向こうへと追いつめていくことはできるが、しかしそうしてみても結局のところその説明が複雑になって理性的思考の理解力を超えてしまい、そのため世界全体を理性の法則で覆いつくしてしまう前に理性的思考の限界に達してしまう。


現実に存在する客体(すなわち単なる想定された客体ではない)を合理的に説明しつくすなどということはユートピアないし理想である。想定された客体だけが合理的に説明しつくすことができる、というのはこれには思考のもつ理性によって想定された以上のものは初めから入っていないからである。
経験科学も合理的に限定された客体を想定する、というのは偶然的なものを意図的に排除することによって現実の客体をまるごとでなく、つねに合理的観察の目をひく部分だけを取り上げるからである。
それゆえ、方向づけをもった機能としての思考は合理的であり、感情も同様である。


中略


直観も感覚も出来事をそのまま絶対的に知覚することを得意とする心的機能である。それゆえこれらはその本質上まったくの偶然性やあらゆる可能性に対して備えていなければならず、そのためには合理的な方向づけをまったく持たないでいなければならない。このため私はこれらを思考や感情とは対立する非合理的機能と名づける。思考と感情は理性法則とぴったり一致したときに完全なものとなる。


たしかに非合理的なものそれ自体はけっして科学の対象になりえないが、しかし臨床心理学にとっては非合理的な要素を正しく評価することは大きな意義をもっている。というのは、臨床心理学は絶対に合理的には解決できず、非合理的な処理を・すなわち理性法則には合致しない方法を・必要とする問題を数多く提起するからである。いかなる葛藤にも理性的に収拾する可能性が存在するにちがいないという期待ないし信念がありすぎると、非合理的な性格をもった真の解決が妨げられることになりかねない。


タイプ論 P477〜478 引用者が適時改段


合理とか非合理とかを考えるにあたって、いろいろと参考になりそうな記述なので長々と引用しましたにゃ。
通俗的な反科学の言い草に「科学では大事なことはわからない」などというものがあるけれども、そのあたりのところを精緻にいっている文章ですよにゃ。もちろん、まともな科学者とか疑似科学批判者が、科学で何でもわかるなんて言っているわけはにゃーのだが、それにしても「いかなる葛藤にも理性的に収拾する可能性が存在するにちがいないという期待ないし信念がありすぎると、非合理的な性格をもった真の解決が妨げられることになりかねない」とか言われると抵抗がある向きもあるんでにゃーかな。僕はぜんぜん抵抗がにゃーんだよね。根がオカルトなんだろ。
合理性というのは目の粗い網のようなものだと僕は考えていますにゃ。網の目を細かくしていく努力は必要にゃんが、どこまでいっても網は網であり、いろいろとダダ漏れであるということは肝に銘じておかにゃーといけにゃー。
また
最終段落で「臨床心理学」と書いてある部分を「政治」「社会的問題」などと入れ替えるとこれはこれで説得力のある文にならにゃーかな? 
それと、理性の外にある基本的事実を非合理とするユングの定義は本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去あたりの話とも絡みそうにゃんね*1

感覚と直観

と、話をもどしますにゃ。
ユングによれば「感覚ー直観」の非合理的機能は志向性を持たにゃーことがその特徴ということになりますにゃ。これを言い換えると、全体的なものだということですにゃー。まあこれは当然で、志向性がなければ分析して判断することはできませんからにゃー。
その全体的性格は、直観機能において著しいものですにゃ。


直観においてはどんな内容もでき上がった全体として表されるが、われわれはさしあたってその内容がどのように生じたのか示すことも発見することもできない。


中略


直観の内容は感覚のそれと同様に「すでに与えられている」という性格をもっており、感情内容や思考内容の「派生したもの」「作り出されたもの」という性格とは対立している。


中略


直観は鮮やかな感覚印象に直面している子供や未開人に神話的イメージ・理念の前段階・の知覚を伝える。直観は感覚と補償関係にあり、感覚と同様に合理的機能としての思考や感情を生みだす母胎となる。直観は非合理的機能であるが、直観の多くは後になって諸要素に解体でき、したがってその成立過程も理性法則によって解明されうるものである。


タイプ論 P475〜476


では感覚についてはどういっているのか?


感覚とは何よりもまず五感による感覚、すなわち感覚器官や「身体感覚」(運動感覚や脈拍感覚など)による知覚である。


中略


五感による感覚とすなわち具象的感覚と、抽象的感覚とは区別されなければならない*2


中略


たとえば花の具象的感覚は単に花そのものだけでなく、茎や葉やそれが生えている場所などの知覚をも伝える。これはまた花を見て受ける快感や不快感とか、これと同時に生じる匂いの知覚とか、植物学的分類などに関する思考内容ともたちまち混ざり合ってしまう。これに対し抽象的感覚は花の際立った感性的特徴・たとえばその輝くばかりに赤い色・を即座に意識の唯一のまたは主要な内容にまで高め、上述した一切の混入から切り離すのである。


タイプ論 P458〜459

まとめ

別の箇所では、直観は無意識的だが感覚は意識的だとも言っていますにゃ。
よって

  • 感覚も直観も所与のものであり、かつ全体的なものである
  • 感覚は意識的で肉体を介する知覚であり、官能的なものが基本的な対象。言語化は困難
  • 直観は無意識的で肉体を介しない知覚であり、イメージや理念が基本的な対象。後付けで言語化は可能

というわけで、ユングに拠ればプレコックス感という判断は訓練された感覚機能のなせるわざということになるのではにゃーかと。思考機能や直観機能が優越したタイプの医師であれば、このプレコックス感に抵抗を示すのはアタリマエかもしれにゃー。
官能的な感覚与件であり、かつ言語化困難なものとして、プレコックス感に臭いが関与していてもオモチロイのではにゃーかと。


あと、幼児や未開人は感覚が思考や感情を圧倒しているとユングは言っていますにゃ。いわゆる未開人の「野生の思考」は感覚与件に基づいた思考だとレヴィ=ストロースが言っていることと対応させると興味深い。ユングの方が「思考」の定義が狭いからこういう齟齬がおきるんだろうにゃ。


関連エントリ
自由の哲学の陥穽をユング心理学で確認する - 地下生活者の手遊び

*1:僕自身はあくまで合理的にジンケンを価値づけていきたいけどにゃ。僕の能力を超えていそうだからやるとしてもゆっくりとやっていくにゃー

*2:思考において具体的思考・抽象的思考があるように、感情・感覚・直感直観においても具体的なものと抽象的なものがあるというのがユングの見解