ホロコーストへのタグ貼り

2008-08-13にも見られるんだけれども、ホロコーストとかアウシュビッツとかって、あまりにも特別視されすぎていにゃーだろうか?*1 [絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」がホロコースト言説に貼り付けられ、そのようなものとしてデータベース化されているのだけれど、ホントにそうなのかにゃ?
例えば、欧州では『ホロコースト産業』についてという告発が行われていますにゃ。引用すると


そして、フィンケルシュタインは、ノーベル平和賞受賞者のユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの名前を出して次のように批判している。


ホロコーストの唯一性という主張から、ザ・ホロコーストは合理的には理解不能だという主張までは、ほんの一跳びだ。ザ・ホロコーストが歴史に前例のないものなら、それは歴史を越えたものであり、したがって歴史によって把握できないものである。まさにザ・ホロコーストは、説明不能であるが故に唯一無二であり、唯一無二であるが故に説明不能なのである。


ピーター・ノヴィックはこれを『ホロコーストの神聖化』と揶揄(やゆ)したが、この神秘化を誰よりもさかんに行なっているのがエリ・ヴィーゼルだ。エリ・ヴィーゼルにとってのザ・ホロコーストは事実上の『神秘』宗教である、というノヴィックの見解は正しい。 〈中略〉


エリ・ヴィーゼルは、通常2万5000ドルの講演料をもらい、運転手付きのリムジンで送り迎えを受けながら、アウシュヴィッツの『真実』という『神秘は沈黙の中にある』と語るのである。この見方では、ザ・ホロコーストを合理的に理解することは、突き詰めていけばザ・ホロコーストを否定することになる。合理性によってザ・ホロコーストの唯一性と神秘性が否定されるからだ。さらに、ザ・ホロコーストをそれ以外の苦しみと比較することも、エリ・ヴィーゼルにとっては『ユダヤ人の歴史に対する全面的裏切り』となる。」


更にフィンケルシュタインは、エリ・ヴィーゼルを批判する。


「『アウシュヴィッツヒロシマは20世紀の“2つのホロコースト”だ』と躊躇(ちゅうちょ)なく発言したイスラエルの元首相シモン・ペレスに対して、エリ・ヴィーゼルは『言ってはならないことを言った』と非難している。


エリ・ヴィーゼルお気に入りの決め文句は、『ホロコーストの普遍性はその唯一性にある』だ。しかし、比較も理解もできない唯一無二のザ・ホロコーストが、どうすれば普遍的な次元を持つというのだろう。


ホロコーストの唯一性をめぐる議論は不毛だ。実際のところ、ホロコーストの唯一性という主張は『知的テロリズム』(ショーモン)を形成するまでになっている。通常の学者がするような比較研究の手法をとるためには、巻頭に1000項目を超える注意書きを載せておかなければ、『ホロコーストの項末化』という非難を避けられない。


ホロコーストの唯一性という主張の根底には、ザ・ホロコーストは唯一無二の悪であるという考えがある。それ以外の苦しみは、どれほど恐ろしいものであっても決して比較にはならない。ホロコーストの唯一性を主張する者は、ほぼ例外なくこうした含意を否定しているが、けっして本音ではない。 〈中略〉」


僕はこの本は未読なんだけれど、リンク先の記述を見る限りではこれは単なる歴史修正主義とかユダヤ人嫌いの本ですまされるようなものではなさそうだにゃ。
少なくともリンク先をよくご覧になってくださいにゃ>みにゃさま


[絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」貼り付けによって、欧米ではホロコーストは産業化したわけにゃんね。一方、日本ではこのタグ貼りによって、「俺達とは関係ねーなあ」という安易で便利な固定化がされてしまったのかにゃ?
聖化と無関心は、いわゆる切断化(便利なコトバにゃんねえ)の結果の別の現れ方でしょうにゃ。


だから、ホロコーストというコトバがでてくると、何かぎょっとする。「いやそんななの関係ねえよ」と反応してしまうわけですにゃ。これってさ、「ホロコースト産業」に踊らされていることにならにゃーか?


id:Apemanにしろid:hokusyuにしろ、ホロコーストに[絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」貼り付けをしてにゃーんだな。道具的理性とか合理性とか啓蒙とかいったものの、ある意味での必然としてホロコーストを捉えているわけですにゃ。そして、この捉え方がホロコーストの言説において要請されるスタンスだということなのではにゃーかと。
歴史におけるあらゆる出来事には、特殊な事情と普遍的な事情がありますにゃ。単なる特別視では、ホロコーストから学びうるものはなにもなくなってしまいますにゃ。それは最も悪質な意味で死者への愚弄だ。


技術的合理性とか道具的理性とか全体最適化とか、そうした思考というものは、ホロコーストと地続きになってしまうのですにゃ。経営学トリアージときてホロコーストってのは、実に当然の流れだと僕も思う。
技術的合理性とか道具的理性とか全体最適化とかがダメだといっているのではにゃーぞ。それらは現実的に必要なものですにゃ。しかし、気をつけなければならにゃーのだと言っている。
ナチはその極限形態を示したけれども、全体最適化のためにある種のヒトを切り捨てるっていうホロコーストの思想はありふれたことですにゃ。


このもめ事への第三者の介入、違和感の表明ってのが、ホロコーストへのある種のタグ貼りの有無にあるのではにゃーかと僕は読んだ次第ですにゃ。
まあ、論じられた残りのもの(政策としてのトリアージ) - 地を這う難破船への僕なりの勝手な補足という意味も込めて。


とにもかくにも「僕=特別」ってのはろくなことにならにゃーですね

追記 09/3/25

「ホロコースト」は使ってはならないか?あるいは日曜歴史家 - 過ぎ去ろうとしない過去に、フィンケルシュタインが批判的に書かれていたので、コメ欄でhokusyuにフィンケルシュタインへの批判が具体的にどのようなものかを尋ねてみましたにゃ。
で、回答をいただいたのでこちらに転載しますにゃー。hokusyuに感謝にゃんね。


具体的に、ホロコーストを悪用して(嘘をついて)利益を得ている人がいるという指摘はいいのですが、補償金分配システムの部分においては、資料の恣意的な引用・読み替えが多いといわれています。
あと、ユダヤ人のホロコーストが唯一無二なものであることや、シンティ・ロマや障害者の虐殺とは違う側面を持っていたことは歴史家にとっては常識的な考えかたであって、その部分でエリ・ヴィーゼルを批判し、しかもそれでお金をもうけてるんだろうというのは悪意がありすぎますね。
ドイツではある批評家から「ホロコースト」で金をもうけるのが悪いっていうなら、それを言うならお前だって「ホロコースト・インダストリー」批判でもうけたんだから同じじゃん!と突っ込まれていました。
これは、「従軍慰安婦」は日本から金をむしりとろうとしている!みたいな右翼の妄言にたいする批判にも通じるところがありますが。


というわけで、フィンケルシュタインの議論には問題があると考えていいのではにゃーかと。
とりあえず、問題のある記述についての補足でしたにゃ。

*1:他にもいろいろ指摘したいのだけれど、ここではその余裕がない