♀は数学が苦手か?

反・反相対主義を標榜する僕なんだけれど、自然科学が一から十までニンゲンの都合で構築されているなどという悪しき相対主義的寝言をいうつもりはにゃーのですね。それどころか、自然科学の基本的なところは客観性をベースにしたものであるとは考えておりますにゃ。
これからご紹介するのは、学問的共同体における客観性とリベラルさというものが相互に高めあうよい関係にあるという例ですにゃ。ちょっといい話。


国連が編集し、日本統計協会が出版している「世界の女性 1995---その実態と統計---」という本(絶版)の第4章 教育と訓練 P205に、囲み記事で「数学における女性---ひとつの検証」というのがありますにゃ。以下はここから引用。引用者が適時改段。


イオニアとしての女性数学者たち


女性の数学者たちは、しばしば教育上の障壁を打破し、すべての女性のための職業上の機会を開く役割を果たして来た。例えば、ソフィア・コバレフスカイア(Sofia Kovalevskaia)は近代において、ヨーロッパで大学レベルでの専門的・学術的生活に全面的にとけ込んだ最初の女性である。彼女は1884年ストックホルム大学の教授陣に加わり、1889年に正教授となった。コバレフスカイアはまた、ロシア帝国科学アカデミーの外国会員に選出された最初の女性である。その際、彼女を会員に選出するために規則が変更された。


すべての分野を通じて、最初に博士号を得たナイジェリアの女性は数学者のグレイス・アレレ・ウィリアムス(Grace Alele Williams)で、1963年にシカゴ大学から博士号を受けた。ホアン・シュアン・シン(Hoang Xuan Sinh)は、1978年に最初にベトナムで科学分野での正教授という稀なタイトルを受けた最初の女性である。すべての分野を通じて、ドイツの大学で教える資格を得た最初の女性は1920年のエミー・ノエター(Emmy Noether)である。


これらの突破口の少なくともいくつかは、男性の数学者たちの女性の同僚に対する態度によって可能となったのであろう。1896年に、ドイツの教授職についての調査は、女性が男性と同じ権利を持って大学に受け入れられるべきかどうかを質問した。数学者たちは全員賛成であったが、物理学者たちはややそれより賛成が少なく、一方、歴史学者たちはほとんど全員反対した。


歴史学者情けね」と考える向きも当然あるでしょうにゃ。しかしちょっと待ってくれ。1896年のことにゃんぜ。ヴィクトリア朝後期にゃんぞ。世界で初めて女性に参政権が認められたのが1893年ニュージーランドダーウィン進化論を支持し、当時もっともリベラルな知識人のひとりであったはずのT.H.ハクスリーが「理性を備え、事実をわきまえた人間で、平均的な黒人が白人と対等だと考える者などいないし、ましてすぐれているなどということはありえない」などと人種差別丸出しのことを公言したのが1871年
この時代に差別的であることを責めるのは、ちいと厳しいものがありそうだにゃ。ニンゲン、時代精神を超えることはなかなかできるものではにゃー。


ここは、歴史学者を責めるより、数学者カコイイ!(物理学者もまあまあカコイイ) と素直に認めたいところですにゃ。
前出の箇所からさらに引用


数学分野における女性の進歩向上


長い間の障壁にもかかわらず、数学分野における女性の地位は比較的良好であったが、これは多分、数学界を構成している一般に認められた客観的基準の故であったのかも知れない。また数学の分野では、政治的、人種的または思想的考慮が数学的判断に介入するのを認めないということを共通の認識とする国際的伝統に誇りを抱いている。しばしばこれらの要素はすべて女性に有利に動いてきた。


世界的に見て、数学における高い業績を達成した男女間の差は、人種間で、または文化圏によって、また歴史的に一定でない。歴史上のデータやいろいろな文化圏のデータが示していることは、性別、文化、人種及び階級間の相互関係があまりにも複雑で単純な一般化を許さないということである。


客観性についての自負があるからこそ、「誰が」ではなく「何を」を評価基準とできたのでしょうにゃ。
自分たちのやっていることに自信があれば、本当に誇りを持っていれば、誰かを差別する必要なんてにゃーんだね。


数学というのは僕は自然科学には分類してにゃー。それは経験科学とはいえにゃーと考えるからですにゃ。数学とは、いってしまえばニンゲンの脳内にある法則を記述して明らかにしていく学問だと考えていますにゃ。*1
そしてそれが同時に「客観的」な性質を持っているという証拠があるのは素直に感動したいところだにゃ。数学者の共同体が、時代的な制約を超えて差別的でなかったという事実は非常に重い客観性の証拠だと思う。


数学者というのは、数学において、純然たる能力差別主義者なんだと考えますにゃ。数学者にとって、性別も人種も思想も関係にゃーんだよ。ただ研究者の能力というか、研究の結果だけが問題になるのですにゃ。僕も能力差別主義は否定できにゃーですね。能力差別主義者は、性差別や人種差別、民族差別、思想における差別、宗教における差別などは能力と無関係であるがゆえに肯定しにゃーだろうと推測的ますにゃ。能力の発現を阻害するような不平等は否定するだろうし、教育や医療における機会均等を重視するだろうとも推測できますにゃ。社会を維持するためには多様な能力が必要であるがゆえに、能力評価が多元的であることは合理的判断といっていいことを考慮すれば、能力差別社会がそれほど抑圧的な社会になるとは思えにゃー。まあ、知的障害者差別にかんしては真剣に考えるべきことになりそうにゃんが。
何にしろ、現代日本の自己責任がどうこう言う連中は、実はぜんぜん能力差別的でにゃーと思うし、能力差別社会なんてものが実現されたこともにゃーとは思うけどにゃ。教育の機会均等がまるで保証されてにゃー社会で、まともな「競争」が行われているはずもなく、本当の能力差別が実現されるはずもにゃー。ニンゲンが差別主義的な生き物であることまでは認めるので、どうせなら能力差別主義社会を実現したいものだと切に思いますにゃ。


おっとっと、話がずれた。
学問に客観といっていいものはあるし、学問に携わるものは、その客観性を目指して、それを誇りにしてほしいものだということですにゃ。
そして、客観性を目指すことは結局は個々の尊厳を守ることにつながるのだと。

*1:エントリは自然科学という分類にしちゃったけど