「表現の自由を脅すもの」書評

表現の自由を脅すもの (角川選書)

表現の自由を脅すもの (角川選書)

公共的批判の原理

id:takanorikidoから読むようにすすめられた本。現在は絶版のようだけど、図書館で借りましたにゃ。いろいろと興味深かったし、あとあと絡んでくる論点も多そうなので、先に紹介しておきますにゃ。
まず、この書籍で目指されている方向性は、科学における学問共同体をモデルにした公共圏構築なのだと考えられますにゃ。ローチ(筆者)のいう「自由科学の社会、批判的社会」とは「お互いの誤りを探す人々の共同体(P105)」なのですにゃ。
「こうした懐疑論的倫理の台頭とその最後的勝利ということは、一体何がそんなに重要なのであろうか。その答えはこうである。懐疑哲学者の分厚い書物のページに隠されているものに、一つのラディカルな社会原理がある。それは公共的批判の原理である。」(P75)
そして、ローチはそうした原理を体現するものを「自由科学」と名づけていますにゃ。

可謬主義とその帰結

筆者はまず「我々はひとり残らず、何時でも間違いうるという考えを、我々すべてが真剣に受け取るべきだ(P74)」と、いわゆる可謬主義*1の立場を全面的におし出しますにゃ。そしてそれは「ドグマではない。むしろそれは、一つの知的スタイル、態度または倫理である。」
ここから導かれるのは

  • 誠実な批判というものには常に正当性がある(P75)

という原理であり、換言すると

  • なんぴとといえど、最終的発言権は持たない(P76)

となりますにゃ。


こうした「批判的社会=お互いの誤りを探す人々の共同体」は人々の多様性をエンジンとして「生産的な対立」を可能としますにゃ。「科学の長所の一つは、科学者たちに偏見のないことを要求するのではなく、ただいろんな科学者がいろんな偏見を持つことを要求することにある*2


さて、一見するとこれは実にアナーキーな話にゃんな。反知的権威主義が徹底しているのはよいのですにゃ。批判を封じるのではなく奨励するというのも非常によろしい。しかし、いかなる批判もタブーにはならず、最終的発言権は誰にもなく、各人がいろんな偏見を戦わせるのでは、ぜんぜん秩序というものがなさそうに思えますにゃ。行動の指標とすべきものがなく、社会的に共有すべきものも見つからにゃーように思えますにゃ。
ところが、科学というものは人類の歴史上、もっとも成功した試みのひとつといえますにゃ。なんでこんなハチャメチャ(死語)にアナーキーな試みが成功しているのか? 実はそこには非常に強い拘束もあるのですにゃ。

知識の自由はない

  • ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それが批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限りである(P78)
  • ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる(P79)

つまり

  • 信仰と言論の自由を絶対に擁護するが、しかしそれは、知識の自由を絶対に否定する


「聖書は一語一句正しく、進化論は間違っている」
「水は人間の言葉が分かる」
南京事件などはなかった」
これらの主張を否定することがいかに「人の心を傷つける」ものであっても、事実は事実、知識は知識ですにゃ。
「進化論は私たちの心を傷つけるから、学校で教えるのは禁止すべき。それがだめなら、少なくとも、聖書の創造論も学校で教えられなければならない」
という主張がどれだけ心の底からでてきたものであっても、批判に堪えているものだけが確立された知識といえるのであって、創造論を学校で教えるわけにはいかにゃーということになりますにゃ。どれだけ心が傷つけられようとも、「知識の自由」は否定されているのですにゃ。

  • 正しい原理、しかも自由科学と矛盾しない唯一のものは、「傷つけようという、ただそれだけの目的のために、苦痛を与えてはならない」である。これに反して、間違った原理、しかも正しい原理に次第次第に取って代わろうとしているのは、「苦痛を生じさせてはならない」である。(P193)


ある命題が「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して」耐えられにゃーとき、その知識は、周辺化され、黙殺されることは仕方がにゃー。批判に堪えられにゃーその命題が差別的なものであったりしたら、冷笑され侮蔑され、結果的に排除の憂き目をみても仕方にゃーだろう。
しかし
逆にいえば、もし「差別的」とされる命題であっても、「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して」耐えることができれば、それは差別的だろうと人の心を傷つけようと、確立された知識として認められるということになりますにゃ。無論、それは暫定的なものにすぎにゃーのだけれど。

表現の自由を脅かす人道主義

現時点で表現の自由に対する挑戦として著者のローチは、ファンダメンタリストからの挑戦、人道主義からの挑戦をあげていますにゃ。特に、人道主義からの「苦痛を生じさせてはならない」というテーゼが表現の自由に対する深刻な脅威となっていると論じていますにゃ。
「傷つけられた人々」に対して、ローチは以下のように言いますにゃ。
「気持ちが傷つけられたという以外に、何か被害があったか。君たちあるいは他の人たちが暴力や野蛮な行為で脅されているのか。それはないだって。それでは、君たちの気持ちが傷つけられたということは恥ずかしいことだが、しかしそれは全くの不運だった。それに挫けず生きていくことだ。」(P204)
ここを読んで「いや、差別や抑圧で死ぬって」と小声でツッコミをいれていましたにゃ。社会的に排除されて命を絶つということは珍しいことではにゃー。


以下、少々長くなるけれど、明らかにヘイトスピーチに触れた部分を要約しますにゃ。


エモリ大学において「差別的嫌がらせ」は以下のように定義されている。
「何らかの人またはグループに向けられた(言葉、文書、写真によるか、でなければ物理的な)行為で、・・・・・人を傷つけ、貶め、脅かし、敵対視する環境を作り出す目的を持つもの、でなければそうした結果が十分に予想されるもの」


エモリ大学学長は宣言する
「我々の意図するところは、自由な言論を抑制することではなく、それをより現実化することだ」


しかし、気を動転させるような批判を人々が免れているところでのみ科学をなしうるという前提はおかしい。多くの研究者や理論家達は実際に憎み合っている。科学の歴史は、手痛い批判やつらい思いに満ち満ちている。それを避けることはできない。


また、こうした攻撃のもつオーウェル的性格に注目しよう。人を動転させるような言論や思想を圧殺すればするほど、皆、もっと自由になる。だから、もっとも自由な知的体制とは、批判を最大限タブー視する体制だということになる。

P220

感想

というのは非常によいレトリックではにゃーかと思われますにゃ。
ローチは、権力ゲームとしての知識争奪戦を認めていますにゃ。そしてそれは正しいだろ。知識を獲得するためのゲームが権力闘争であるとしても、そのルールが万人に開かれたものであり、常に暫定的なものであるのならばOKにゃんな。
その時点で認められている知識が気にくわなければ、自分もそのルールにのっとってゲームに参加すればいいだけの話にゃんからね。それが差別的だとか傷つけられたとか、はたまた非道徳的だとか反日だとかいうクレームで知識を歪めることはおっぺけぺーね。


また、それが知識なのであれば、周縁化どころか淘汰しうるものにゃんね。実際に、科学の世界ではいろいろな概念が淘汰済みですにゃ。まあ、水伝でも南京事件まぼろし論でもいいのだけれど、周縁化というのはメインストリームにおける淘汰という言い方もできるわけで。絶滅を意味する言葉として「淘汰」を使っているわけではにゃー。


今回は議論に必要と思われるところをつまみ食いしたけれども、とりあげたのはもちろんホンの一部。事例の取り上げ方も豊富であるし確かに読んで損のにゃー本だと思いますので、オススメしておきますにゃ。
公共圏における「知識」の取り扱いとしては、ローチのいっていることに特に異論はにゃーですね。


ただし
後半の、人道主義への論難に対してはいろいろと文句がありますにゃ。


例えば
「我々の意図するところは、自由な言論を抑制することではなく、それをより現実化することだ」
という大学側の主張に対して
「気を動転させるような批判を人々が免れているところでのみ科学をなしうるという前提はおかしい。多くの研究者や理論家達は実際に憎み合っている。」
というローチの反論は、反論になっていにゃーように思えますにゃ。大学側が「ヘイトスピーチを排して自由な言論を現実化する」といっているのに対し、「憎しみがあっても科学は可能だよ」は反論になってにゃー。これでは「言論=科学」になってしまいますにゃ。科学における議論はあくまで言論の一形態であるはずなのに、科学の作法が言論全体に押しつけられてしまっていますにゃ。


他にも


自由科学の偉大な社会的進歩の一つは、人種や種族が観点を持っているという考えを排したことにある。君が明確にしたいと思うどの人種的、民族的グループの内部においても、観点はいろいろあって同じであるよりも、むしろ遥かに違っている。人の肌の色や出自を知っているからといって、それでその人の「観点」が分かることは一切ないし、それでその人の、科学のゲームの参加者としての信用が増すとか減るとかいうこともない。特定の個人的権威というものは認められない。特定の人種的権威も認められない。


P229

なんていうところもおかしい。
例えば、「神話」という論点をもってくれば、「種族」が特有の観点を持っているということは明らかですにゃ。また、特定のグループが内部に多様性をもっているということと、そのグループが独自の観点を持っているということは何ら矛盾しにゃー。
そしてまたここで「科学のゲームの参加者としての信用」などという基準がはいってきていますにゃ。論点とか観点とかいったものが、自然科学的にのみ捉えられるものとはとても思えにゃーのだが。


どうも、「意見」とか「価値」、あるいは「立場」が問題となる場面において、「知識」や「事実」を取り扱う理屈があてはめられているように思えますにゃ。普遍性にばかり目が行き、固有性が十分に考慮されていにゃーのでは? 他にも何箇所か、そうしたいささか「自然科学的マッチョ」風の議論が見られますにゃ。

結論

というわけで、公共の議論において「知識」をどう扱うかということにおいてはローチの議論を支持しますにゃ。すなわち

しかし、「意見」の取り扱いについてはいろいろと疑問が残るんだよにゃ。
とはいえ、「意見」の取り扱いについても

  • なんぴとといえど、最終的発言権は持たない

については支持いたしますにゃ。


ローチの論調においては、被差別マイノリティに対してもいかなる特別の配慮もする必要はなさそうな感じですにゃ。しかし「なんぴとといえど、最終的発言権は持たない」という前提が確立しているのであれば、逆に被差別マイノリティに対する配慮ができるのではにゃーのか?
「あなたたち被差別者・被抑圧者の感情と意見に、しかるべき配慮をします。
 あなたたちの経験や意見は傾聴されるべきものです。
 ただし、あなたたちに最終的発言権や決定権があるわけではありません。」
と、これでよいのではにゃーだろうか?

私的メモ

レイプレイ問題に関連して、何人かの性犯罪被害者の声が上がっていたけれども、僕の見るところではこうした人たちは誰も弱者としての「最終的発言権」や特権を主張しているわけではなかった。弱者特権を主張していたのはむしろ・・・


「知識」は僕たちの外側にあるもの。「意見」は内側にあるもの。僕たちの外側にあるものが誰かを傷つけても当然のことともいえる。しかし、僕たちの内側からでてきたもので他者を踏みにじるのは、避けられないことであるとしても権利だといえるか?


ところで、「表現」を僕たちの内側からでてくるもの、とは単純にいえない。もちろん、表現は僕たちの外にあるものではないのだが。表現者は媒介か。


「権力の究極の源泉は意見である」とポランニーは言った。そして意見の基盤となるのが知識だろう。マスケット銃が権力の源泉であれば、人間社会はいまだ奴隷制だ。


自分の行動がひとりの人間を社会的に抹殺してしまうかもしれないので、かえって「この人痴漢です」と言いづらいというもっともな意見を聞いた。権力を持ったとき、僕たちは自由をうしなってしまうものなのではないだろうか? 銃を手にするものに自由はない。


言論の自由表現の自由の基盤が、僕たちの無力にあるという逆説。
この逆説から公共圏が導かれる。

*1:本文中では懐疑主義と書かれているが、可謬主義のほうが適当だと考える。ハーバーマスもその公共圏論において可謬主義を採用している

*2:哲学者・科学史家 デーヴィッド・L・ハルの言葉