「表現の自由」が必要とし、受容すべきもの


表現の自由にヒモを付けるな」と主張している人たちが、何人かいるのだけれど、何をいっているのかホントにわっかんにゃーので、そのあたりの疑義を表明しつつ公共圏論に接続していきますにゃ。

チラシの裏」にヒモはつかない

チラシの裏」という言い方がありますにゃ。「チラシに裏に何を書こうが勝手にしておくれ」ということですよにゃ。この場合、チラシの裏に書かれた差別主義的言動もワイセツ文書も下品な絵も、そのまま他者の目にはふれずにゴミ箱行きになるのであれば、どんなことを書いてもよいということですにゃ。
ま、当然のことにゃんね。
表現の自由」というものが、「チラシの裏」に何を書いてもよい自由を意味するのであれば、それはアタリマエもいいところだということになりますにゃ。それは、内心の自由とほぼイコールであり、そもそも制限のしようがにゃー話だ。


もちろん、表現の自由というのは、チラシの裏に何でも書いてよい、という自由のことではありませんにゃ。

とあるとおり、表現の自由とはゴミ箱行きになるチラシの裏に好きなことを書いてよい自由とは異なるわけですにゃ。つまりここでは、表現されたものを他者の目に触れさせる行為を含んでいるわけですにゃ。実際に、表現の自由が争点となったいくつかの訴訟においては、表現されたものをどのように相手に届けたのかが問題となっているわけですにゃ。典型として、wikipedia:立川反戦ビラ配布事件なんかがありますにゃ。


表現の自由が「チラシの裏に何を書いてもよい自由」ではにゃー以上、そこではどうしても「他者」が必要とされているのですにゃ。
つまり

チラシの裏に落書きする自由のことをいってるのでにゃーのなら、「表現の自由にヒモをつけるな」という言明の意味するところが、僕にはマジにわかんにゃーのだ。考えれば考えるほどわっかんにゃーの。
誰か説明してください。

表現の自由 その公共性ともろさについて」より

このあたりのことを書いている憲法学者の手による本から、少し引用してみますにゃ。

表現の自由―その公共性ともろさについて

表現の自由―その公共性ともろさについて


私は私の財産を原則として自由に処分することができる。それと同様に、私は原則として、自分の言いたいことを言うことができる。しかし、これは私の個人としての発言にとどまり、他の誰にも私の意見に同意するよう強制することはできない。この意味では、表現の自由も私的な自由である。


では、なぜこの表現活動が民主政において不可欠なのだろうか。なぜ各個人の勝手な発言が、国民の意思形成に貢献する「市民」としての「自由」の行使と見なされる必要があるのだろうか。


実際には、政治的言論活動は私的な意見表明だけのためにおこなわれているわけではない。むしろ政治活動の「政治性」は、それが自己の考えの一方的表明ではなく、他者に対して自己の考えに同意するよう働きかける点に存在する。市民的自由とはしたがって、他者に対する働きかけ、影響力行使の自由ということができよう。


すべての表現活動が自覚的にこのような要求を掲げているわけではない。しかし、潜在的には、自己の考えを表明するものは他者にその妥当性についての承認を求めているはずであるし、いずれにせよ「市民」としての政治的活動においては、他者への働きかけという契機は顕著である。この働きかけによって意見の共有という現象が生じ、このような働きかけの連鎖の中で国民の意思も形成される。こう考えれば、民主政にとっての「市民的自由」の重要性を理解することができよう。


しかしだとすると、もうひとつ別の問題が発生する。このように他者に働きかける活動に「自由」を与えてよいのだろうか。憲法上保障された人権が私的な自由であるとすると、このように必然的に他者を巻き込む活動はもはやその保障範囲を越えているのではないか。


P26 引用者が適時改段  強調も引用者


ここでは政治的言論活動について書かれているけれど、芸術における表現活動のことが当てはまらにゃーってこともにゃーよな。「潜在的には、自己の考えを表明するものは他者にその妥当性についての承認を求めているはず」ってのはどんな表現においても当てはまることですにゃ。芸術表現の場合は「意見」に限定されにゃーというだけの話ですにゃ。
まあそもそもゲージツやブンガクの政治性というものを考え、さらに表現の自由という言葉の射程を考慮すれば、上記引用が芸術的表現も含んでいるものだとみなして問題はにゃーだろう。


そしてにゃるほど、表現の自由とは「他者に対する働きかけ、影響力行使の自由」という「市民的自由」であることに対して異論はにゃー。前回紹介したローチの「表現の自由を脅やかすもの」においても、表現の自由が「影響力」をめぐるパワーゲームであることを肯定していましたにゃ*1

理性の公的な使用

前回エントリの最後に、「言論の自由表現の自由の基盤が、僕たちの無力にあるという逆説。この逆説から公共圏が導かれる。」と書きましたにゃ。ちょっとカントを参照してみますにゃ*2


『啓蒙とは何か』において、カントは理性の私的使用と公的使用を区別している(Kant 1783)。理性の私的使用とは、公民としての立場で、あるいは公職者は公職の立場で自らの理性を使用することである。教会の伝道者が、教区の信者たちを前にして自らの理性を使用するのは、教会の会衆がいくら大勢であっても所詮は内輪の集まりに過ぎないから私的使用である。これに対し、理性の公的使用とは、学者として読者世界の全公衆の前で自らの理性を使用することである。換言すれば、世界市民的社会の一員として自らの理性を使用した場合にのみ、公的使用となる。


http://philolaw.hp.infoseek.co.jp/achievement/articles2001b.html


これは、毛利透の「表現の自由」でも書かれている(P13)論点なんだけれど、カントのいう「理性の公的使用」と「理性の私的使用」というのは通常のそれとは逆転しておりますにゃ。公職の立場で理性を使用することが「私的使用」で、公衆の前で「全公共体の一員として」「自らの人格において」「学者として」全公衆の前で発言することを「公的使用」といっているのですにゃ。
ポジショントークは理性の私的使用であり、無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる発言こそが理性の公的使用であるとカントはいっているわけですにゃ*3


一見すると無力な自由、権力行使とは縁のにゃー自由こそが公共的意義を有するという逆説的なことが語られているのですにゃ。

  • 僕たちは権力を持たないとき、銃を持たないとき、他者に何ごとも強制しないとき、理性を公的に使用することができる

これを、権力を持たにゃーときにこそ僕たちは自由であり、自由なときにのみ理性を公的に使用することができると言い換えることもできるでしょうにゃ。そして、芸術の意義とは、徹底したその無力に由来する自由なのではにゃーのか? 無力なひとつの個人(あるいは小集団)が「世界の全公衆の前で自らの理性を使用すること」しか芸術家のすることってにゃーよね。だからこそ芸術家の存在は社会的に意義深いものとなるのではにゃーだろうか? ちまちまブログ書いたり掲示板でコメント書いて公開することだって悪くにゃーと思うぞ、理性を公的に使用している限りにおいてね。

表現の自由をなぜ保護しなければならないのか

さて、権力を持たないという自由を手にしたとき、僕たちは自らの人格において発言を行いますにゃ。そのとき何が起こるのか?
発言をすることで僕たちは他者に働きかけ、関係をつくり、巻き込みんでいきますにゃ。人と人との関係は、現実的な力を持ちえる。まさに、「権力の究極の源泉は意見である」とポランニーが言った事態が起きてくるのですにゃ。ここで生まれる「権力」は、民主政において「正当な権力」といえるのですにゃ。


公共の議論の中で生じる公論こそが、暴力を制御することができる。公共圏とは所与の場所ではない。それは、自由から生じる「権力」に支えられ、その「権力」により暴力を制御できたときのみ存在する。


表現の自由 P42


理性の公的な使用とは、僕たちが権力を持たないときにのみありえるものでしたにゃ。僕や君がブログ記事を書いても、ブクマコメントをつけても、何の得にもならにゃーし、目的を直ちに達成できるはずもにゃー。


人々の前でしゃべることによって自己の目的が直接達成されることは、ありえない。だからこそ、人権として保障する必要性が高い。


同 P44

表現の自由という逆説

表現の自由とは、いくつもの逆説をその内部にもつモノなのかもしれにゃー。
他者を必要として他者を巻きこむ私的自由であり、自らの無力を基盤にした正当なる「権力」への道程であり、その「権力」とは誰にも強制しないときにのみありえる「権力」であり、発言者に直接の見返りがないからこそ保護されるべき人権であり、他者というヒモが必然的についているのにヒモをつけるなといわれる自由であり・・・・・


・・・・そして在特会のような排外主義という最悪のポジショントーク、理性(?)の私的使用が表現の自由を錦の御旗にして行われる、という逆説。


15:15分ごろ、在特会のデモが、私たちがビラマキ&抗議のアピールをしていた地点の側を通過しました。私たちは総勢30名ほどで、「排外主義は戦争への道」などと書いたプラカードをそれぞれ掲げて、「犯罪左翼を博多湾に叩き込めぇ」というご当地バージョンの凝ったセリフを繰り返す在特会のデモに対して無言で抗議しました。こちらが黙っていればいるほど、私達に罵声を浴びせる在特会のデモの「痛々しさ」が痛感されるようでした。デモには随分若い人達の参加も目につきました。デモの隊列から私達にあらゆる罵声を浴びせる彼ら彼女ら、特に若い参加者の表情は、私たちにはややショッキングなものでした。私たちの仲間からは「あの若者たちはなぜあれほどの憎悪を抱えているのだろうか?」という慨嘆の声が漏れていました。まるで、自らを圧迫する経済社会状況の不安に耐え切れなくなった人間が、その原因となる「外敵」を見出したことで制御不能の興奮状態に達し、身体ごとの断末魔を上げる…あれは少なくともそんな光景を予感させる声と表情でした。


7・20 排外主義によく効く表現行動! [福岡] お礼とご報告


現にある差別構造をそのままなぞって差別者のポジションから憎悪を垂れ流す在特会のごとき幼稚な言説は、無論のこと理性の私的使用の典型といえますにゃ。無力に基盤をおくのではなく、チンケな権力に固執する言説であるともいえますにゃ。
マルキド・サドの書いたものはだいぶ昔に読んだけれども、あれが理性の私的使用だとはぜんぜん思わにゃーですね。まさに「自らの人格において」書かれたものだということは当然に認めますにゃ。レイプレイはやっとらんので知らんけど。


差別的、とされるものであっても、理性が公的に使用されているものも私的に使用されているものもあるのでしょうにゃ。そして、公的使用と私的使用はひとつの作品の中に混在しているでしょうにゃー。にゃるほど、「表象は読み解かれなければならない」。
ただし
差別とは必ず理性の私的使用となるので、表現の自由にとっては敵でしょうにゃ。
表現の自由を大事にするのであれば、差別という表現の自由の敵との戦いへのコミットは当然のことだと思うんだけどにゃ。理性の私的使用にかまけていたら、表現の自由が脅かされ、表現そのものもナマクラになるとしか思えにゃーのだが。

道は二つに一つ

人類社会全体を俯瞰しつつ自由と抑圧の関係について考察した書籍から、自由のもつ逆説について、レヴィ=ストロースの言葉を引いてみますにゃ。

はるかなる視線〈2〉

はるかなる視線〈2〉


個人の自由の条件であり保証である私的な領域(プライバシー)の権利は、社会生活にとって望ましいさまざまな目標にすぎないいわゆる権利と混同される。これらの目標を掲げるだけでは、権利は生まれない。社会には、これらの目標を自動的に達成する能力がないからである。社会は為政者に対して、個人それぞれにプライバシーを認めることを要求できる。プライバシーをどのように規定するにしても、禁止条項があれば足りるのだ。


しかし自由の行使に労働の権利がどれほど不可欠であるにしても、道は二つに一つ、ことばのうえだけの根拠のない自由の確認か、あるいは、社会が提供し得る労働を受け入れる義務を暗黙の交換条件とする自由である。


後者では、公共の価値を全面的に受け入れる決意があるか、さもなければ、拘束措置が想定される。拘束措置があるとすれば、自由を拠りどころとしている権利の名において自由を否定することになり、決意が想定されているとすれば、否定的に規定される自由からは生まれない精神的資質----モンテスキューのいう<徳性>*4は立法措置で決められるものではない----にすべてをかけることになる。


法が自主権の行使を保証しているにしても、自主権そのものは、法に基づくのではなく風俗習慣に基づく具体的な内容があってはじめて存在する。


はるかなる視線2 P421〜422「自由についての考察」より 引用者が適時改段


ここでは労働の権利として例示されているけれども、表現の自由(権利)についてもあてはまると考えますにゃ。生存権は自明であるとして、そこから直接に労働の権利が導かれるとしても、労働とは他者を必要とし社会を前提とするものですにゃ。ちょうど、内心の自由から直接に表現の自由が導かれるとしても、表現とは他者を必要とし社会を前提としているように。


だから書き直してみますにゃ。
内心の自由の行使に表現の自由がどれほど不可欠であるにしても、道は二つに一つ、ことばのうえだけの根拠のない自由の確認か、あるいは、社会が提供し得る表現のあり方を受け入れる義務を暗黙の交換条件とする自由である。」


表現の自由にヒモをつけるな、という言説は「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」だとしか僕には思えにゃー。前から何度か言っているけれど、自由主義社会において、公権力に対して「表現の自由にヒモをつけるな」と要求するのはよーくわかりますにゃ。しかし、他者、社会を相手にして「表現の自由にヒモをつけるな」ってのは、まさに「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」、つまりタワゴトなんでにゃーのか?
これでは、現実に表現の自由を守ることの役にはまるでたたにゃーだろうに。


だから、「後者」を選択せざるをえにゃーのだ。
「後者では、公共の価値を全面的に受け入れる決意があるか、さもなければ、拘束措置が想定される。拘束措置があるとすれば、自由を拠りどころとしている権利の名において自由を否定することになり」
sk-44との議論を興味深く拝見していたけれど、佐藤亜紀の言論はこの立場なのではにゃーかと勝手に思っていますにゃ。


そして
「決意が想定されているとすれば、否定的に規定される自由からは生まれない精神的資質にすべてをかけることになる。」
僕はここにチップをかけますにゃ。理性の公的使用と公共圏に。sk-44も、僕とはちょっと異なる理路かもしれにゃーが、ここにチップを賭けているのはわかりますにゃ。


自由主義がフリーライドを容認する体制だと仮定して、だとしても何も賭けずに「表現の自由にヒモをつけるな」などと「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」をしているだけのお歴々が、表現の自由を守るために自分は意味のあることをしているのだと妄想することは、笑止千万億兆京垓って感じ。お前ら、表現の自由を食いつぶしているだけじゃんか、と。

*1:まあ、特に自然科学の科学者共同体においては、「事実」というシンプルな価値が直接的に影響力を持つというゲームだったわけだが。社会においては、何が価値か、というところからゲームを始めることになる

*2:引用先の論文も公共圏論として参照していただけるとうれしい

*3:「無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる発言」は自然科学の科学者共同体で求められるものではないと思う。自然科学において発言は人格においてなされることを期待されない。事実検証が前提であるときに、人格は問題ではない>id:takanorikido

*4:「自分の国の法を愛し、自分の国の法への愛ゆえに行動する」ことをモンテスキューは「行い正しい人」と言っている。また「自由とは自分のしたいことをすることではなく、自分がしたいと思わなければならないことができることであり、したいと思ってはならないことをしなくてもよいことである」とも言っている。sk-44はこの意味で自由なんだろうね