陰謀論と懐疑の見分け方
前回エントリに反論をいただきました
前回エントリに真摯な反論をいただきましたにゃ。さんきゅーね。
私の判断基準はニセ科学批判やニセ歴史学(歴史修正主義)批判のときに書いたとおりで、それについて曲げるつもりはありません。また、右翼だとか左翼だとか、権力だとか反権力だとかによって色眼鏡をかけて評価を下すこともしたくありません。あくまでそのことが合っているかどうか、批判できるところで批判し、評価できるところで評価しているか、批判できないところでいちゃもんを付けていないか。これを重視しています。
そのため、合理的な根拠に欠ける、または妥当な推論を経ていないものは陰謀論として批判します。この姿勢だけは変えるつもりはありません。なので、地下に眠るM氏の『説明責任を果たさない権力に対し、説明責任を果たしていないという一点をもって「陰謀」よばわりすることは特に問題がないだろう。』については、「一点を持って」の点において絶対に賛同することはできません。説明責任と陰謀論の妥当性は関係のないことであり、説明責任を追及するのに妥当性のない『陰謀論』を持ち出す必要性はないからです。
これだけはどうしても譲れません。
にゃるほど。ニセ科学批判の問題と絡めて考えるのであれば僕もやりやすいにゃ。
では、ここでは今回の検察がどうこう民主党がうんぬんといったところを離れて一般論として考えてみますにゃ。
加藤周一の「理系・自称中立」批判
まず、加藤周一の議論を参照してみますにゃ。
加藤周一セレクション〈1〉科学の方法と文学の擁護 (平凡社ライブラリー)
- 作者: 加藤周一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1999/09/01
- メディア: 単行本
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
第一に、自然科学の方法を社会問題、殊に政治問題に直接に適用しますと、判断の停止に導かれる場合が多い。純粋に科学的にいえばまさにそうなんで、戦争のような複雑な事件が起こったときに、そこで報道されることが、事実か事実でないかということは、実験室でのデータのように簡単に決めることができません。たいていはわからない、不確かです。新聞に報道されたからほんとうであるとは限らない。
それから第二に、たとえ報道されていることが事実だとしても、それは事実の一部であって必要とする情報の全部ではない。だから、限られた情報、つまり、情報の不足、それから情報の信頼性の程度、その二つのことからそもそも正確な推論を重ねて一定の結論に達することができない。科学的には、いいともいえないし、悪いともいえないということになるわけです。
その方法を適用していきますと、ほとんどすべての政治現象は情報の不足を伴いますから、ほとんどすべての政治現象に対して、科学的な立場から、いいとも悪いともいえないということになるでしょう。
しかるに、ある一定の社会のなかで何かが起こっているときに、その市民の一人が、いいとも悪いともいえないということは、現状維持を支持するのと同じ効果を生みます。科学的には中立、つまり、判断の停止ということは、政治的には保守、つまり、現状維持の方に作用する。これは矛盾です。判断の停止が実は現状肯定になるわけですから。それでも現状がよければよろしいけれども、現状が悪い場合に、たとえば戦争のような場合には戦争反対はそこから出てこない。これは厳密に科学的な考え方の習慣が消極的に作用した場合だと思います。
加藤周一セレクション1 科学の方法と文学の擁護 P79〜80
引用者が適時改段
ここでは、政治現象に対して「自然科学的」にも通用するような確かな判断を適用すると、必然的に判断停止となり、それは中立のつもりが現状肯定となる理路がわかりやすく説かれていますにゃ。確定的でなければ判断しないという、ある意味では善意の、しかも自然科学的においては賞賛される態度が、政治的には「自称中立」になってしまうということなのですにゃ。
この批判は重要ですよにゃ。自覚せざる自然科学教がまねく歴史修正主義 - 地下生活者の手遊びの論旨とも関連しますにゃー。
久間氏*1が「自然科学の方法を社会問題、殊に政治問題に直接に適用」する意図があるとは考えていにゃー。検察批判をするなとも言ってにゃーしね。
しかし
「合理的な根拠に欠ける、または妥当な推論を経ていないものは陰謀論として批判します。この姿勢だけは変えるつもりはありません。」ということであるので、「合理的な根拠」「妥当な推論」を問題にせざるをえにゃーのだ。
ここでは
「限られた情報、つまり、情報の不足、それから情報の信頼性の程度、その二つのことからそもそも正確な推論を重ねて一定の結論に達することができない」という言は久間氏にとっては重いぜ。
「科学的には中立、つまり、判断の停止ということは、政治的には保守、つまり、現状維持の方に作用する。これは矛盾です。」「これは厳密に科学的な考え方の習慣が消極的に作用した場合だと思います。」ってことになるからだにゃ。
久間氏の立ち位置は、「合理的な根拠」「妥当な推論」を求めることによって、結果的に加藤周一の批判する「理系・自称中立」の矛盾におちいってにゃーかな?
説明責任を果たさない権力の自業自得
ところで、
- 限られた情報、つまり、情報の不足、それから情報の信頼性の程度、その二つのことからそもそも正確な推論を重ねて一定の結論に達することができない
という理路が、例えば南京事件否定論において、あるいはホロコースト否定論において、そのまま適用され「本当のところはわからない」「どっちもどっち」といったイースト氏のようなダメポストモダン相対主義言説をはびこらせたのは僕も理解していますにゃ。
しかし
学問において専門家集団に共有される判断というのは、体系的な方法的に基づいて、情報を収集し、信頼性を吟味し、推論を重ね、相互に批判しあい、時間をかけて練り上げられてきたものであり、「正確な推論を重ねて一定の結論に達」したものだと考えられるのですにゃ。ここでの「一定の結論」とは、南京事件やホロコーストといわれることはあった、ということにゃんね。
もっといえば、
南京事件まぼろし論・ホロコーストなかった論は、学問の場で具体的に詳細に徹底的に反証され尽くしているということですにゃ。そう、http://hisamatomoki.blog112.fc2.com/blog-entry-435.htmlのコメ欄でid:mujinが強調している「反証」が重要なのだにゃ。
いま現在、僕たちの身の回りに起こっているいろいろな社会的なことについて、「限られた情報、つまり、情報の不足、それから情報の信頼性の程度、その二つのことからそもそも正確な推論を重ねて一定の結論に達することができない」と考えることは妥当であるということは重要ですにゃ。
これ自体は、悪しき相対主義などではにゃーのだ。
そして、「正確な推論を重ねて一定の結論に達することができない」状態のまま、やはり言論活動・言論による批判は行われなければならにゃー。そうでなければ、それはただの現状肯定であり、自称中立の矛盾におちいってしまうのだにゃ。
十分な材料が不足していることを前提に言論を組み立てなければならにゃーのだ。それは健全な批判精神の発露であり、まっとうな懐疑主義であり、自由民主主義にとって必要不可欠な言論なのだにゃ。
想像によって補いながらストーリーを組み立てること自体は批判されるべきでは断じてにゃー。それが陰謀論呼ばわりされるのであれば、リアルタイムで行われる政治的批判はすべて陰謀論になってしまう。
しかも、しかもだにゃ
「情報の不足、それから情報の信頼性の程度」が権力によってコントロールされているとしたらどうかにゃ? 説明責任を果たしていない権力、をリアルタイムで批判しなければならにゃー場合を考えてみるのだにゃ。権力側は自分に都合の悪い情報は出してこにゃーだろうから、権力に都合の悪いところを想像によって補うしか批判が成りたたにゃーんだわ、これが。
つまり、こういうことになる
- 説明責任を果たしていない権力を批判する際には、権力側に都合の悪いところを想像によって補う言論が必要となる
つまり、何でもアリってこと。
「権力側に都合の悪いところを想像によって補う言論」は、権力が説明責任を果たさにゃーことによって必然的にでてくるのよ。
「説明責任と陰謀論の妥当性は関係のないこと」と久間氏はいうけど、説明責任と「権力側に都合の悪いところを想像によって補う言論」とのかかわりは必然なんだよにゃ。
これは説明責任を果たさにゃー権力の自業自得なのだにゃ。
陰謀論とは何か?
リアルタイムでの政治的・社会的言論は想像によって補われざるをえにゃーのだが、具体的に反証された論点をなおもふりかざすのはダメダメだよにゃ。具体的な反証は大事だよにゃ。ちゃんと傾聴しにゃーとな。
歴史修正主義を含む疑似科学の特徴のひとつとして、反証済みの論点を何度も何度も持ち出すというところがありますにゃ。もうね、笑っちゃうくらいおーんなーじことが繰り返されるわけにゃんね。
毎年のように疑似科学新入生が反証済みの論点を繰り返すわけですにゃ。
で、そうした疑似科学新入生の持ち出す手あかのついた論点をひとつひとつ潰していくと、目が覚める賢いヒトもいるし、興味をなくすヒトもいますにゃ。しかし、自分の持ち出す論点がことごとく反証されてもあきらめられにゃーお方ってのは少なからずいて、そういうヒトタチは最後の頼みとして、あらゆる反証を却下できる万能のブラックボックスにすがりますにゃ。認知的不協和を回避して自我を守るためのブラックボックス。
そのブラックボックスの名を陰謀論という。
というわけで
- 具体的な反証を受け付けないもの→陰謀論
- 具体的な反証が提出されていないもの→懐疑
となるのではにゃーかと。
もちろん、懐疑にもいろいろあって、荒唐無稽としかいいようのにゃーものもあるだろうけど、それでも具体的な反証*2がなされてにゃーうちはそうそう馬鹿にするべきではにゃーし、陰謀論よばわりは不当だと考えますにゃ*3。
もしも、反証済みの論点(創造科学とか南京事件まぼろし論とか9.11陰謀論とか)を持ち出してきても、教えられたり本を読んで理解するヒトは陰謀論者とはいえにゃー。
陰謀論者とは、陰謀を表明するヒトではにゃーのだ。陰謀を理由に反証を受け付けにゃーヒトのことなのですにゃ。
と、これでトラバもらった陰謀論と「回転寿司のイクラ」 - 玄倉川の岸辺 への反論にもかえさせていただきますにゃ。
ちょっと付け足しておくと、他人に「権力側に都合の悪いところを想像によって補う言論」を強制しにゃー限り、自分の皿の唐揚げにレモンをかけただけのことでにゃーの?