リスク管理の主体は誰であるべきか?(追記アリ


リスク学入門1という本を読みましたにゃ。
このシリーズは、法学・経済学・社会学・科学技術の各方面からリスクを考えるものですにゃ。第1巻は総論であり、法学・経済学・社会学・工学の各学者の座談会を冒頭に収録してありますにゃ。
堅実な論調になっていますにゃ。残りの巻も図書館にあるので読むつもり。

リスク学入門 1 リスク学とは何か

リスク学入門 1 リスク学とは何か

冒頭の座談会から気になったところをいくつかメモ代わりにおいておきますにゃ。

リスクの課題過大見積もりと責任の蒸発

  • リスクには自然リスクと人為リスクがあり、人為リスクは多く見積もられる傾向にある

これはよく言われることですよにゃ。典型的なのは予防接種。予防接種にリスクがあるのは確かだけれど、総体としてリスクを減らすことは明らかですにゃ。なのに、予防接種で何か事故があったら大騒ぎですにゃ。
そういえば、このシリーズには医学者・疫学者が参加してにゃーのは少々残念なところにゃんな。

  • リスク制御に自分が参加できる場合は、コントロールできるかのような錯覚をもつ

これは、例えば自動車事故と遺伝子組み換え作物では、明らかに自動車事故のリスクのほうが高いのに、自動車の運転は自分が直接参加できるので、リスクがコントロールできているような錯覚を持つ傾向があるということですにゃ。


また、このことと関連して

  • リスクを負う者が少数で固定されているときは、そのリスクは過大に見積もられる

というのもあるようにゃんね。逆の場合は、「責任の蒸発」という事態となる。


この「責任の蒸発」に関しては、車社会のような多数による責任の蒸発と、インフォームドコンセントのように、情報の非対称による責任の蒸発があるようですにゃ。医師に説明責任があるというのはソノトオリにゃんが、説明されたからといって患者側がそれを理解して適切な選択肢を選べるわけではにゃーもんね。
だからインフォームドコンセントにおいて、実際には責任が蒸発しているのではにゃーかという話もあるということですにゃ。うんうん、情報の非対称性があるところでは、不可避的にでてくる話のように思えますにゃ。

リスク回避と自己責任

  • リスクには、対価計算が可能な【良性のリスク】と対価計算不能の【悪性のリスク】がある

良性のリスクについては、対価計算が可能であるがゆえに保険の対象となるわけですにゃ。で、悪性のリスクについては社会保障で対応するというのがリベラルの発想ということになるかにゃ。悪性のリスクまで自己責任でどうぞ、というのがネオリベにゃんな。特にメリケンでは全てのリスクを個々人がとるということが前提となるので、裁判が日常的であったり、逆にボランティアが盛んだったりするのではにゃーかと思いましたにゃ。
良性のリスクは民間の保険で対応できるということは、良性のリスクを回避するためには一定以上の経済力が必須ということになりますにゃ。つまり貧乏人のリスク回避能力は低いというアタリマエのことが言われているわけですにゃー。


で、北欧型あるいは社会民主主義型(普遍型ともいうらしい)は、良性と悪性を区別せずに、国家共同体でリスクを引き受けるということになりますにゃ。
自由主義社民主義については、機会の平等と結果の平等という、どうにもうさんくさい対立点が喧伝されているのだけれど、

  • 潜在的あるいは顕在的なリスクを誰がどうとるのか、という観点から制度を構築する

というのは非常に重要なのではにゃーかと。

社会投資国家

さらに、エゲレスのブレア政権でブレーンだった、ギデンズの「第三の道」がリスク学の視点から紹介されていますにゃ。一般的な意味での「第三の道」への評価は、wikipedia:第三の道でも参照してもらいたいところですにゃ。一部を引用すると


具体的に行われた政策としては、保守党が重視してきた所得税法人税の軽減などを継承する一方で、より社会の下層に配慮し公正を目指す就労支援や公立校改革などを展開すること、また、弱者を手当て(ネガティブウェルフェア, 依存型福祉)するのではなく、家族形成や就労を含めて「社会参加」の動機づけを持つ者を支援(ポジティブウェルフェア,自立型福祉)すること、そして、公共サービスでのPPP(Public-Private Partnership)による官民連携、さらに、サッチャーによる中央集権政策への反省から地方の自治・自立を促す地方分権スコットランドウェールズ北アイルランド各地方へ地方議会の設置)などがある。また、1999年には、英国では初となる最低賃金法を導入した。


このあたりの記述をリスク学から捉えなおすと
「福祉を弱者への手当てではなく、リスク挑戦への機会と捉える」【社会投資国家】の成立をギデンズは目論んでいるわけですにゃ。
「資金ではなくリスクを共同管理しようというのが福祉国家である。」*1(ギデンズ)。


社会投資国家を実現するための具体的政策としては

  • 1)企業家イニシアチブの支援態勢を通じた雇用創出
  • 2)生涯教育プログラムの充実と自己啓発のための投資への誘導
  • 3)公共事業への私企業の参加
  • 4)教育の標準化と年金のポータブル化による移動可能性(portability)の向上
  • 5)育児休暇、在宅勤務など、家族にやさしい職場づくり
  • 6)NPO、ボランティア、NGOなどによる市民社会の復活

ということらしいんだけど、うーん、この政策からはリスク共同管理というところがあんまり見えてこにゃーような気がする。僕が政策のことをわかってにゃーだけかもしれにゃーのだが。

中間団体とリスク管理

実はこの本と、ドラッカーの「非営利組織の経営」を併読していましたにゃ。例のトリアージ論争でid:sivadが提示してくれた書籍にゃんね。読もう読もうと思いつつずれこんじゃいましたにゃ。

ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営

ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営

メリケンの良心的かつ精神主義的なプラグマティズムとでもいうのかにゃ、徹底して実用的な提言に徹した書籍でしたにゃ。オモチロかった。
はてな村では「御利益系ちょっといい話」が非常に好まれるけれど、そういうネタはドラッカー本には満載にゃんなあ。うまく脚色して書ければ100〜200のブクマは堅いネタがごろごろにゃんな。マジだよ。


で、リスクを共同管理するためには、中間団体を活用するというのは有効な方法ですよにゃ。先ほども触れたけれど、メリケンではあらゆるリスクが自己責任とされるがゆえに、非営利的な中間団体が活躍しているという逆説があるわけですにゃ。
「非営利組織の経営」でも寄付をどう集めるかが再三話題になっていますにゃ。


日本において中間団体を人的・経済的にどう再生させていくかというのは大きな問題でしょうにゃー。日本では会社組織が中間団体として個々人を保護してきたけど、最近の会社組織はそうした社会的機能を放棄しちゃってますからにゃー。残っているのはペンペン草くらいだけど、それも風前の灯火にゃんなあ。日教組も重要な中間団体にゃんが、ああいうのを叩けばいいと思っているお歴々には事欠かにゃーし。
中間団体を潰して個々人のリスク回避能力を低下させ、恫喝して奴隷にするというのがネオリベの常套手段でしたにゃ、ネオリベはもうサヨナラみたいにゃんが、残された不毛の荒野でどっから手を付ければいいかにゃー・・・・


ネットというのは中間団体の部分的なツールにはなりえても、中間団体そのものの代替にはなりえにゃーだろう。そのあたりはドラッカーも言っていますにゃ。その意味では「プロ市民」を毛嫌いしているネット翼賛厨がごろごろしていては先行きが暗そうにゃんねえ。
各々の手の届く範囲で中間団体を育てていくというのが、とりあえず誰にでも可能で現実的なリスク共同管理の一歩ではにゃーかと思う。sivadが動いている、若手科学者の交流団体なんかもうまく発展して真っ当な中間団体になってほしいところですにゃ。


しかし、日本の中間団体の活動費用はどこからもってくればいいだろ?
ベーシック・インカムは財源になりそうにゃんが。

ぽつぽつ考えたこと


例えば、犯罪のリスク、といっても、それは犯罪の被害にあうリスクと、犯罪を起こしてしまうリスクの両方がありえるわけですにゃ。長生きすることもリスクだし、子どもが生まれることもリスク。愉しく生きるためには日々リスクをとっていくしかにゃーんだよね。
犯罪をやらかしてしまうこともリスクと捉えるなら、厳罰主義はリスクを共同管理するという方向とは真逆だということはいえるでしょうにゃ。以前のエントリで、
「厳罰主義はコスト負担を忌避するフリーライダーだ」と発言したけれど、ここでは
「厳罰主義はリスク管理を弱者に押しつけるフリーライダーだ」と言い換えられることになりますにゃ。


リスクを回避する能力というのは、経済力だけでなく、洞察力やコミュニケーション能力、あるいは科学(含社会科学・人文科学)の知識やらといった総合的な力を要求されるものですにゃ。そう考えると、リスク回避能力というのは、アマルティア・センのいう潜在能力capabilityの一環と考えられますにゃ。


あと、リスクの共同管理という発想は、共同体主義communitarianismに対するカウンターにもなるんではにゃーかと。
私見では共同体主義とは【善きものの共有=共通善】を前提とした共同体の構想であり、個人主義自由主義のもつアトミズム的な傾向をなんとかしようという試みにゃんね。共同体の復権というのはわかるんだけど、共通善が気にくわにゃーです。
一方、
リスク管理共同体という発想は【悪しきものの共同管理】ともいえるわけですにゃ。ここでは【共通善】は必要とされてにゃーですね。
後者のほうが成員の思想・信条の自由を保持しつつ、共同体としての機能を維持できるのではにゃーかと思ったりしていますにゃ。


金融工学とか抜かして結局はリスクを他人に押しつけたお偉いさん連中がごろごろいるわけで、リスクの共同管理という考え方に連中が反対するいわれはどこにもにゃーと思う。
多数の者がリスクを引き受けるべき時に、責任の蒸発がおきがちであるけれど、これもリスクを共同で管理することにより問題を回避するのが賢い対処法なのではにゃーかと。現代社会のように複雑で入り組んだシステムでは、責任追及にも限度があるし、情報の非対称性も避けられにゃー。「悪者」を特定したからといって問題が解消するわけでもにゃーしな。
リスクの共同管理という視点から社会システムを構築しなおす、というのは良いデザイン手法の戦略なのではにゃーかと重ねて表明いたしますにゃー。

追記 30日11:07

良いエントリがあがっているので追記


ちょっと景気が良くなった,悪くなったでまるでメモリのスポット価格のように乱高下する新卒採用に一喜一憂し,卒業年度に景気が悪かったという自分ではどうしようもない理由だけで人生のレールからはみ出して『欠陥品』扱いされる日本が,はたして労働者に優しい国と言えるのかどうか.一度レールからはみ出せば再チャレンジすることもできず,本人の努力や能力や成果ではなく生まれた年度だけで決められてしまう仕組みは差別ではないのか.景気が悪いというだけでどれだけ優秀な人間でも『欠陥品』になったり,逆に景気がいいというだけでどれだけ無能な人間でも『幹部候補』扱いされるのは,社会の損失ではないのか.


http://d.hatena.ne.jp/JavaBlack/20081030/p1


これは【悪性のリスク】の典型にゃんな。
いつ、どこに生まれるかそれ自体がリスクになることを放置する社会(つまりは差別主義の社会)って、とどのつまりニンゲンというものを歓迎してにゃー社会なのではにゃーのか?
社会のリスク管理がなってにゃーから、ニンゲンが使い捨てられ、社会の損失にもなるのだにゃ。

*1:私学助成金を削られたら学校に行けないティーンエイジャーがいたら、そのリスクは共同で管理すべきで弱者に押しつけるのは話にならにゃーということ