アートなんて死んだら?
先日のエントリへのトラバに応答しますにゃ。
こんな記事でてた。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081028/1225163214
俺はこういうのはアート概念濫用の例だと考えます。
なぜなら判断対象がアートとして作られたものではないから。
作家の意図まで切り離したら、もうなんでもアートですわ。それならもう「アート」って言わなくてよくね?単なる「面白いもの、目を引くもの」でいいじゃん。道端に落ちてた変な形の石と一緒。
ある行動をアートとして見るのは個人の勝手だが、その行動がアートとして成立するかどうかは話が別だと、俺は考えます。
まず、アート概念の解体をアートが志向しているということがありますにゃ。現代美術というのは自己言及どころか自己破壊的なところのある運動ですにゃ。
次に、アートが称揚される社会的な文脈というものがありますにゃ。
「表現の自由という政治的なものを、無害な芸術の中に囲い込みたいという権力の欲求として、美術館という特区で餌を与えられているのが従来のアートなのだあ!」
といったら少々煽りかにゃ?
表現の自由というのはどんなことをしてでも使い倒すべきものだと僕は考えますにゃ。
- 【社会的には】アートだの芸術だのが、表現の自由に奉仕すべき
と僕は考える。
個々のアーティストは、表現の自由を自分のアートに奉仕させればいいんだけどね。
そもそも
「なぜなら判断対象がアートとして作られたものではないから。」
という判断基準をもってきたら、アウトサイダー・アートがアートでなくなっちまうのではにゃーのかね?
また
「道端に落ちてた変な形の石と一緒。」
とか否定したら、利休の仕事はアートではなくなっちまうのではにゃーのかね?
アートの聖性ってのは、表現の自由という政治性と切り離すことはできにゃーのよ。
美学というのは、この政治性を後追いでそれらしく翻訳していけばいいものだと考えますにゃ。
アート概念そのものに、自らを濫用させ蕩尽させる志向性が組み込まれているのではにゃーのかな。美術館の中で餌を与えられて生き延びるのか、街へ出て濫用され蕩尽されてしまうのか。
僕はアートには破滅して欲しいんだにゃ。