孔子伝・書評(2

第四章 儒教の批判者


批判とは自他を区別することである。それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、自他の区別がはじめから明らかである場合、批判という行為は生まれない。批判とは、自他を包む全体のうちにあって、自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に外ならない。思想はそのようにして形成される。P175


批判は異質の世界に起るものではない。共通する連帯の中にありながら、その立場を異にし、目的を異にするところに、その自己諒解の独自性の主張として生まれるのである。P176


相似たものほど、最もきびしく区別されなければならない。P179


儒家墨家の)両者は相容れない対立者というよりは、むしろ競争者の立場であった。いわば系統のちがう労働団体のようなものである。そのゆえに相互の批判が必要であった。社会的な対立者の間では、批判による相互的な摂受という関係はありえないのである。P180


墨家儒家の批判者として起った。批判は同じ次元での、自己分裂の運動とみてよい。それは自他を区別しながら、新しい我を形成する作用であるが、しかし果たして、人は真に自他を区別しうるであろうか。他と自己との全き認識ということはありうるのであろうか。それぞれの思想の根源にある究極のものを理解することは、それと同一化することとなるのではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながら自らをあらわすということに終わる。それは歴史的認識を目的とするいまの研究者にとっても、いいうることである。P182


以上、第四章の冒頭のセクションにおいて、批判という営為についての静タンの見識があらわれているところを引用しましたにゃ。いやー、僕なんかがまとめてももったいにゃーので、そのままもってきたんだよにゃ。先日のエントリで、静タンの政治的な見識もこの本のみどころだと書いたけど、まさにこのあたりは見どころではにゃーかと思いますにゃ。安保闘争において、ずいぶんと不毛な「批判」があったことは想像に難くないもんにゃ。特にP182の「それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながら自らをあらわすということに終わる。それは歴史的認識を目的とするいまの研究者にとっても、いいうることである」なんてのは重いにゃー。


さて、ここで言われている儒教の批判者とは、墨家のことですにゃ。
実は墨家老荘思想もその起こりは儒教よりも後であり、儒教に対抗するかたちで発達してきた面があるということですにゃ。特に墨家にそれが著しい。
墨家について乱暴にまとめてみますにゃ。

  • 儒家は巫祝の階層から起ったが、墨家は工匠などの徒隷的な集団を母体として成立したと思われる
  • 両者とも社会の下層にある階級だが、時代の激変により新しい勢力として浮上してきた
  • 墨家の提唱者である墨氏は氏素性もない徒隷の出身である。しばしば他から賤人といわれている
  • 儒家墨家は、表面上の激しい対立にかかわらず、基本的にはあまりかわらない。例えば墨家は兼愛(博愛主義)・非攻(平和主義)を説くが、儒家においてもその教えはあり、方法論のちがいにすぎない
  • むしろ、数百名の機械化部隊を擁して諸侯をおびやかしたのは墨家である。墨家に攻め滅ぼされた有力な氏族もある
  • 墨家とはいわば工人の社会主義的なギルド思想の古代的表現である。強い団結と厳しい結社性、そして実践的な性格をもっていたので非常に有力であった


いやー、いいですにゃー。平和と博愛を標榜する社会主義武装技術者ギルド。個にゃん的にこういうの好きなんだよね。
墨家はどのような理念を奉じていたのか?

  • 墨家の最高理念は 義 であり、それはあらゆる存在と価値の根拠とされる
  • 墨経によれば「義は利なり」。兼愛も交利とされる。つまり互恵・功利が基本的な価値である
  • その信奉する神は、洪水・治水神である 禹 である。禹は治水のために献身する工匠としての聖王である
  • 墨家集団の内部においては、氏族的な秩序ではなく、平等原則が貫かれていた


墨家の理念は、献身と自己投棄を要求するものでしたにゃ。献身と自己投棄というところでは儒家も同じようなところがあり、両者から墨侠、儒侠などの「侠」がでてきたようですにゃ。まあ、儒侠のほうは隠遁的侠者となり、墨侠のほうは武装反体制勢力になるという性格の違いがあるようですけどにゃ。
あと、個にゃん的には墨家進化心理学的に興味深い。


このように似て非なるもの、といってよい儒家墨家にゃんが、静タンが両者の間にある最も大きな違いとしてみていたのは

ここで重要なことは、静タンは孟子の教説もノモス的なものと見なしている点ですにゃ。
以下に引用。


孔子の時代には、この民族のもつゆたかな伝統がなお生きつづけていた。神のことばを伝える聖人たちの教えがあった。そのことばの意味を明らかにすることが、孔子の使命であった。そして孔子はそれを、仁においてみごとに結晶させた。それは心のうちに深く求められたロゴスの世界であった。


しかし墨家孟子の時代には、ようすは一変していた。伝統は滅び、ながい分裂と抗争とが、すべてを荒廃させていた。問題を、人間性の内面のものとして解決することは不可能となっている。また列国の歴史的役割も、すでに終わりに近づいている。いまや天下を、その政治的対象として考えなければならない。明確に客体化しうるような、新しい原理が要求される。
中略
そういう天下的な世界観の秩序の原理を、墨子は法といい、法儀といい、孟子は仁義といい、王道天下と称した。それはまた、ノモスの世界であったといえよう。P198〜199


ノモスとは分配を語源とする公共性の原理といえますにゃ。具体的には道徳や法律のことにゃんね。ノモスの世界には、恣意的なる始源 - 地下生活者の手遊びで述べた「始源」が必要にゃーのですね。ノモスの世界においては、集団の権威を代表するものは王でなくてはならず、しかもそれは先王ではなく現在の王、つまり後王でなくてはならにゃー。性悪説荀子は後王主義を説き、法家の韓非子は王権の絶対性を説きましたにゃ。結局は法家がこのノモス的秩序における最終的な勝利者になることは歴史の示すとおりにゃんね。
そして墨家は、その閉鎖性のゆえにノモス的世界において生き残ることができなかったわけですにゃ。一方、儒家はノモス的世界において変質していく。


静タンによれば、孔子のロゴス的な世界の継承者が荘子であるとのことですにゃ。


孔子において明らかにされたイデア的な世界は、やがて儒墨の徒によって、ノモス的な社会的一般者に転化された。それは集団のもつ規範性に、すべての人が服従しなければならぬ世界である。墨子孟子の学説は、その思想的表現であった。しかしそのような一般者は、その集団の超越性のゆえに、主体的な生の自由に息づくことを許さない。生の衝迫は極度に抑圧される。従ってノモス的な世界の否定は、個の主体性の回復の主張となり、より根源的な生の解放の主張となる。生の哲学、実存の哲学とよばれるものが生まれるのは、おおむねそのような思想的要求からである。荘周の思想が、しばしば生の哲学、実存の哲学とされるのもまた、その意味においてである。P214


荘周は、新しいイデアの探究者であった。そしてノモス的世界にあって、イデアを回復した。P216


先秦の文献においても、「荘子」ほどみごとな思想的文章はない。そしてまた、これほど高踏的で、政治への無関心を示したものはない。占卜の神亀として、死して廟堂の上におかれるよりも、生きて尾を泥中に曳くことを理想とする。徹底的な反社会的な態度であり、生の主張である。このような独善主義、個人主義が、支配者や封建的勢力の思想、ノモス的世界のイデオロギーであるはずがない。それは脱ノモスの思想である。敗北者の思想であり、基本的には敗北の哲学である。P217


自然と権力を同等なものとみなし、自然=権力を拒絶するのが文化である、というピエール・クラストルの「国家に抗する社会」を連想してしまう一節でしたにゃ。