トリアージ問題から妄想してみた(追記アリ)

話もだいぶおさまってきたみたいにゃんね。メモ的に妄言。
大元はこちら


http://d.hatena.ne.jp/steam_heart/20080523/1211570874を読んで、トリアージとはとどのつまり「間引き」であるということがあらためてわかったにゃ。


資源が圧倒的に不足しているので、資源を振り向けても無意味である可能性が高ければ、そこは間引く。間引くなどというと、ただでさえでかい間引く側の心理的負担がさらにでかいから、トリアージという用語を使うという側面もありそうにゃんな。
要するにこれはゼロサムゲームのひとつで、間引きをしにゃーと結果がやせ細るばかりだから間引きが必要だという話だろにゃ。それはそれ。


ただし
もとは経営学の話だったみたいにゃんな。
経営学ってさ、資源を増やすためのガクモンなのでにゃーかしらん。利益をあげて再投資し、資源が増えていくというのが経営の道なんでにゃーの? 経営学はまるでわかんにゃーのだが。


資本主義とか会社経営ってのは、「資源が増えることが無く一定のゼロサムゲーム」ってものを忌避したがるのではにゃーのだろうか? 資本主義のいいところって、不断に資源を増やしていくシステムにあるんでにゃーのかな。現実にパイを増大させる力、ちゅうのが資本主義の説得力なわけで。
言い換えると、間引きが「かわいそう」だからこそ、絶えざる生産力の増大という方向にニンゲンは向かうのではにゃーかと。クラストル風にいえば、自然の否認にゃんな。ニンゲンの営みって、ゼロサムゲームの拒絶にあるのではにゃーのだろうか。


非常時のゼロサムゲームで経営学をやられたら、間引かれるほうはたまったものではにゃーわけだ。戦時だ緊急時だとかいいだせば間引きをしてよいのなら、ナチを引っ張り出したくもなるよにゃ。


さて、不断の生産力増大は自然環境破壊をまねくという話はここではパス。ただし、僕たちの倫理観はどうやら絶えざる成長を前提にしたものなのかもしれにゃーということは考えなければならにゃーことなのかもしれにゃーです。

  • 追記 5月28日 12:32


ruletheworld
ん〜 経営学の授業で合目的的な最適配分を行う為の意思決定について説明するために、例としてトリアージを挙げた、という話を、経営学を非常時のゼロサムゲームでしろという事に読み替えてもいいのですかにゃ〜?


という批判的なブクマコメントがつき、さらにそれにfuku33氏が3つもはてなスターをくっつけているので、反論しておきますにゃ。
合目的的な最適配分を行う為の意思決定について説明するために、例として【非常時のゼロサムゲームを前提にした】トリアージを挙げたのがfuku33氏。したがって、経営学における合目的的な最適配分というものが、非常時のゼロサムゲームに対応する論理で行われるものだと主張しているように読みましたにゃ。読み方としてはごくまっとうだと思うけど、どう?>ruletheworld
それと
本来は再構築を意味するRe-structureが、日本の経営の現場においては人員整理を意味するリストラという言葉として流通しているわけにゃんね。首切りの正当化になってるわけですにゃ。
wikipedia:リストラから引用すると


日本においては、1990年代初頭バブル崩壊以降、デフレ経済の進行に伴ってリストラを行う事例が官民を問わず急速に増加したが、当初は意図的に日本語を英語で言い換えることで経営側の心理的後ろめたさを軽減することを目的にしていた。


こういう前例があるという文脈において、また、まじめにやってもネットカフェ難民から抜け出せにゃー人々が平時にいる社会という文脈において、非常時における間引きを経営学で正当化されたらどうなるのか?
平時の判断であるべき経営において、ゼロサムゲームではなく資源を増やしてみんながハッピーになることを目指すべき経営において、非常時の論理で間引きすることが正当化されることにそのまんまつながりそうだにゃ。僕はガクブルにゃんな。

  • 再追記 5月30日 13:26

ありゃー、fuku33氏がruletheworldのブクマコメにつけたはてなスターが1つになってるにゃー