問題は疑似科学ですらない

ずれた論点と悪意ある混同(追記あり) - 地下生活者の手遊び疑似科学を憎んでバカを憎まず - モジモジ君のブログ。みたいな。という反論エントリをいただきましたにゃ*1
件のエントリのコメント欄で、mojimoji氏はスルーの様子、とか書いてごめんなさい。早計でした。>mojimoji
それはそれとして、再反論。

と先のエントリで書いたんだけど、ここがmojimojiに理解されてにゃーのではにゃーだろうか。僕が(多分NATROMも)直接的に問題にしているのは、疑似科学でも代替医療でもなく、医療ネグレクトという他者危害だにゃ。
疑似科学批判なんてものは趣味の問題で、それ自体にはまるで正当性なんてものはにゃーと前エントリでもしつこくいっているはずですにゃ。疑似科学批判に正当性があるとしたら、それは他者危害の排除にかかわったところなんだにゃ。馬鹿をこきおろすだけの疑似科学批判なんて、安全圏から他者を非難する愚劣な行為だろ。


実は、もともとのNATROMのエントリには前ふりがありますにゃ。
2008-02-29
これを受けて僕があげたのが
公私二元論とこども - 地下生活者の手遊び

愚行権とセットになるもの - 地下生活者の手遊び


ここら辺を前提として

  • 論点1

僕たちは、他者に危害を加えない限り、愚行権がある。馬鹿をする権利がある。愚劣でいる権利がある。馬鹿や愚劣を禁止する行為こそホロコーストである。ナチは愚劣さとか馬鹿を消去しようとした。それは啓蒙の暴力であった。

  • 論点2

近代社会の原則は公私2元論にある。愚行権は私的領域においてのみ成り立つ。人権の成立過程を鑑みれば親権は非常に基本的な権利であるといえる一方、親権は子供の人権によって相対化されるともいえる。虐待において親権の相対化が必要となる。子供の人権によって、親の愚行は制限される。

  • 論点3

医療ネグレクトを話題にするのであれば、エホバの証人の輸血拒否についても耐えうるような議論でなければ話にならない。


また、
科学と呪術;「野生の思考」より - 地下生活者の手遊び
ニンゲンとは魔法が使える生き物である - 地下生活者の手遊び
疑似宗教と堕落した神話 - 地下生活者の手遊び
などにおいて、ニンゲンは呪術的思考・宗教的思考をベースにしていると論じていますにゃ(ごめんね、いろいろ読ませて)。まあ、呪術については他のエントリでもいろいろ書いているけど。
このあたりから

  • 論点4

ニンゲンは誰しも呪術思考からは逃れえない。言い換えれば、みんなそれぞれ馬鹿。科学者は、その専門分野においてはかろうじて馬鹿を逃れえる。科学(ガクモン)は限定的に馬鹿を逃れることのできるありがたいツール。もちろん、専門分野を離れれば科学者も馬鹿。


では、具体的な反論にはいりますにゃ。


まず、「どんな言葉もこの母親の考えを変えることはできないだろうが、周囲の人たちや、あるいは将来ホメオパシーにはまる予備軍の人に言葉が届けばそれでよい」というスタンス。「十字軍」の記事が「バカであるその人を目的とするようにバカにしろ」と結論しているのは、この部分への批判の意味を込めたものです。


論点1より、件の母親は馬鹿でいる権利があるにゃ。だから、その意味では母親の考えを変える必要すらにゃー。また、目的がどうあれ「バカにしろ」に正当性はにゃー。まあ、趣味でやる分には、それが啓蒙の暴力であることを自覚するのなら好きにすればいいけど。
また、実際にビリーバーさんがその考えを変えることは、それが重大なものほど期待できなくなってきますにゃ。認知的不協和ってやつが働いちゃうんだよにゃ。


NATROM氏の記事を読む限り、母親の悲劇に対する視線はまったくありませんね。そのような目線を持っているならば、あのような書き方にはならないと思います。


えー?
NATROMは


なぜこの母親がホメオパシーにはまったのか、おそらく、ブログのタイトルの「自分探しの旅」というところにヒントがあるように思うが、そこから考えるべきなのだろう。

といっているんだけどにゃ。
実際に母親のブログの該当箇所からでは母親について突っ込んだことはわかんにゃーだろうに。母親の心情については想像でしか語りえにゃー。わかんにゃーことは言うべきではにゃーだろう。
それに、mojimojiも先のエントリでNATROMのこの記述に対し


この記述に、どこか合理的な根拠がありますかね?見当たりませんけど。にもかかわらず、どうして蛇足のようにこのような記述がなされるのか。

と批判的に述べているではにゃーか。


どちらが重要か、という問題ではありません。この事例は、二つの悲劇を含んでいるのであり、両方を視野におくべき、ということです。単に趣味の問題と片付ける人もいるでしょうが、僕はそう思いません。疑似科学を憎むがゆえに、そういうことが見えなくなっているのだ、と考えています。NATROM氏にしてそうなのか、と。──まして、一部ブクマコメントにおいておや、です。


先も延べたとおり、母親については語る情報がにゃーから触れてにゃーだけだと思いますにゃ。だから、「疑似科学を憎むがゆえに、そういうことが見えなくなっているのだ、と考えています」ってのはどうなんだろね?
また、他者の心情を忖度してもしょうがにゃーのだが、NATROMは疑似科学を「憎んで」などいにゃーと思うけど。むしろ、楽しませてもらってるんでにゃーの? 彼が「憎んで」いるのは虐待だとエントリから読み取れにゃーかな?

NATROMは「しんじゃうよー!いたいよー!もうだめだー!口があかないよー!しゃべれないよー!」と異議申し立てをしている子供の側にいるとしか思えにゃーのだが。


 この一文に即して言うなら、子どもの側にいることを批判しているわけです。そもそも、子どもと母親は対立しているのではありません。子どもは異議申し立てではなく、母親がなんとかしてくれると信頼して訴えているのでしょう。ただ、母親がバカであるがゆえに悲劇の状況に陥っている。にもかかわらず、殊更に「子どもの側に立っ」ているなら、それは錯誤です。──これもまた、疑似科学を憎むがゆえの錯誤だろうと、僕は思います。


今回のmojimojiの反論で、いちばんナニなところがここだと思う。

まず、論点2より、虐待においては親権・愚行権は制限されるにゃ。ここで悲劇の加害者の側にたつ暇があったら、悲劇の被害者の側にたてよ。具体的な待ったなしの虐待の現場において、優先すべきは被害者の側にたつこと。それに、何度も書くけど、母親の側にたつための情報が不足だろ、この事例では。
それに、これも何度も書くけど、「疑似科学を憎むがゆえの錯誤」ではなく、虐待を憎むがゆえと考えるほうが素直な読みだと思うんだけど。


また、論点3より、mojimojiのこのロジックでは重大な医療ネグレクトの虐待、例えば輸血拒否には対応できにゃーだろ。輸血すれば助かるガキが親に向かって、「僕は死にたくない」と訴えることを「子どもは異議申し立てではなく、母親がなんとかしてくれると信頼して訴えているのでしょう」と解釈するのは好きにすればいいにゃ。しかしここで「「子どもの側に立っ」ているなら、それは錯誤です」とチミは言えるのかい? NATROMの2月29日のエントリによれば、

指針によると、15歳未満は輸血するものの、18歳以上では患者本人が、15歳以上18歳未満では患者と親の双方が輸血を拒んだ場合は輸血しないとした。最高裁判例に基づき、宗教上の輸血拒否を患者の自己決定権として尊重した。


ただ、18〜19歳の患者でも、医療について適切な判断ができないと複数の医師が評価した場合には、輸血すると定めた。


15歳未満への輸血について、大戸教授は記者会見で「子供は親の所有物ではない。社会が守るべき存在だ」と社会の責任を強調した。


と、複数の医学会が子供の側に立つことを表明しているけど、これは錯誤なのかい?


論点1〜3によって、子供の側に立つことを選択するにあたって、実は疑似科学なんてものは関係にゃーのだよ。相手がシューキョーでも個人的信念でも革命闘争でも同じこと。この問題は、愚行権・親権への介入・私的領域・子供の人権・虐待、などのタームで語られるべき事柄なのですにゃ。疑似科学は背景以上のものではにゃーだろう。まあ、重要な背景ではあるけどにゃ。


後半の、医学は権力である、といった話に異論はにゃーです。機会があればそのネタは僕もエントリに書きたいと思っていますにゃ*2


結論部についてだけど、ビリーバーさんを上から目線で説得する必要なんてにゃーだろうというのが僕の立場。論点4により馬鹿はお互い様なんだしさ。賢いヒトなどという例外を一般化してはいけにゃーよ。
馬鹿のためにいらにゃーコストがかかるだろうとは思うにゃ。
しかし、愚行のコストこそが自由主義のコストなんだよ。

*1:トラバはきてないんだけど、どうもトラバ送り損ね(受け取り損ね)が多いように思いますにゃ。なんとかしてくれ>はてな

*2:実は、科学の権力性とか、疑似科学批判論壇の教条性とかが、僕がブログを始めた動機のひとつ