「神は妄想である」書評(3

前回のエントリでは、ドーキンス疑似科学批判を「超自然的なもの」一般批判にすり替えているという幼稚な詐術を指摘しましたにゃ。さらに今回も別の形での幼稚で反知性的なスリカエを指摘したく思いますにゃ。
第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より


原理主義的な宗教は、おびただしい数の、無辜の、善意で熱意のある若者の心を荒廃させることに専心している。非原理主義的で「分別のある」宗教は、そんなことをしていないかもしれない。しかし、そうした宗教にしても、子供たちがきわめて幼いときから「疑うことのない無条件の信仰が美徳である」と教えることによって、原理主義者に好都合な世界をつくっているのである。P419


穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443


「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448


これまでドーキンスは超自然的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことは創造科学=メリケンの馬鹿クリへの対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

  • 穏健で中庸なものが、過激主義がはびこるような風土を作り上げる

だって?
ドーキンスは心底からの侮蔑に値すると確信しましたにゃ。


このロジックが通用するのなら、もう何でもアリ。

  • 穏健で中庸な自由主義共産主義に通じるからダメ。
  • 穏健で中庸な保守主義は反動復古につながるからダメ。
  • 穏健で中庸な科学研究は核兵器や公害につながるからダメ。
  • 穏健で中庸な環境運動は文明否定につながるからダメ。

これどころか

  • 穏健な親バカは過保護につながるからダメ
  • 穏健な親子の距離の取り方はネグレクトにつながるからダメ

などなどのありとあらゆるクソ馬鹿屁理屈がすべて正当化されるのがドーキンスのこの理屈ですにゃ。


どんな考え方や運動にも、過激派はいますにゃ。過激派の存在を理由に「穏健で中庸な」動きを否定するというウルトラ白痴論法を使えば、ありとあらゆる思想や運動を否定することが人口無能的に可能。自分の気にくわないものだけを恣意的に否定するウルトラ白痴論法以外の何ものでもにゃーわけだ。PTAがエロ本追放運動をする理屈、国防婦人会が非国民を探す理屈、マッカーシーがリベラルを排斥する理屈、文化大革命で富裕層や知識人が粛正された理屈と同じ論法だにゃ。
しかも
ドーキンスが宗教一般を否定するためのロジックは、「神は妄想である」という書籍全体を通じてこれだけでしかにゃーのだ。


しかも、進化論裁判において、多くの聖職者や宗教学者創造論を公立学校の科学教育に持ち込むことに反対しているという事実がありますにゃ。このような聖職者が大勢いるという事実があるのに、中庸で穏健な宗教教育がそのまま過激な原理主義に通じているかのように書くのは、都合の悪い事実にひたすら目をつぶる悪質なプロパガンダでなくてなんなのでしょうにゃ?
ドーキンスは知的誠実さという概念を理解できなくなってしまったのでしょうかにゃ? 恥という感覚を忘れてしまったのでしょうかにゃ? この白痴的駄本を高く評価したニンゲンひとりひとりに聞きたいくらいだにゃ、「君は字が読めるのかい?」



では次に

  • 無神論に対する不当なえこひいき

を挙げてみましょうにゃ。
第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」 


結局、スターリン無神論者で、ヒトラーはおそらくそうではなかった。しかし、たとえそうだったとしても、スターリンヒトラーをめぐるこの議論の、肝心の要点は非常に単純である。すなわち、個々の無神論者は悪事をなすかもしれないが、彼らは無神論者の名において悪事をなすわけではない、ということだ。P405〜406


明白に無神論者であった虐殺者として、毛沢東ポルポトを挙げても問題にゃーだろう。ヒトラーはともかく、スターリン毛沢東ポルポトは、間違いなく無神論の名において虐殺を行っていたという明白な歴史的事実にまでドーキンスは目をつぶっているにゃ。もう歴史修正主義者といってもいいかも。
共産主義大義という名目で虐殺を行っていたというのに、それは無神論ではないとでもいうつもりなんだろうか? マルクスにおいてもレーニンにおいても、共産主義の宗教に対する倫理的優越性というものは、無神論を根拠にしていたはずにゃんが。


無神論の名のもとで行われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。P406


ぷ。
この書評を書いている動機となったmacska dot org » 米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望に、思いっきり以下のようにあるぜ。


「新しい無神論者」の代表的論客として先に名前を挙げたヒッチェンスとハリスは、ともにネオコン的な「テロとの戦争」に全面的に賛同しており、アルカイダとは無縁だったはずのイラクでの戦争すらーーおそらくイラク人がイスラム教徒であるというだけの理由でーー支持している。ハリスはさらに、イスラム過激派を懲らしめるために中東で核兵器を使うことすら著書で主張している。


どうも見たはずなのに今は見つけられにゃーのだが、
無神論者が寺社や教会、仏像などを破壊することなど考えられない」とかいった発言も確かあったけどにゃ。これについても。ロシア革命で教会が破壊されたことは有名なはずにゃんがな。共産主義者による対宗教への対応を参照のこと。


宗教、特にキリスト教が行ってきた世界的な虐殺や収奪のかずかずを否定するつもりはまったくにゃーのだが、少なくとも20世紀については共産主義の名のもとに虐殺された人数のほうがはるかに多いのではにゃーのか?
「敵」の攻撃には血道をあげるけど、「味方」の失点は見ないふりってんだから、つくづく党派的言動にゃんなあ。この「党派的言動」ってのは、結論が先にあるときになされるものですにゃ。言い替えれば、事実より願望が優先という、疑似科学ビリーバーによくある言動にゃんね。


しかし、このような不公平な態度はこの本の基本的な態度だにゃ。
例えば、第2章 神がいるという仮説


私は、グールドが『千歳の岩』(邦題:神と科学は共存できるか 引用者注)で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を断じて信じない。P90


ふむふむ、自分に都合のワリイ話については、「信じない」ですませるわけね。


こんなたとえ話をもちだしてみよう。何らかの驚くべき一連の状況によって、イエスは本当に生物学的な父親を欠いていたことを示すDNAの証拠を法考古学者が発見したと想像してみてほしい。何らかの宗派を擁護する護教家が、肩をすくめながら、次のような台詞にちょっとでも似たようなことを言うなどということが考えられるだろうか?
「知ったことか。科学的な証拠は神学上の疑問とはまったく何の関係もない。教導権がちがうよ。 われわれに関心があるのは究極的な疑問と道徳的価値観だけなのだ。DNAもほかのどんな科学的証拠も、この問題にはどんな形にせよ、何の意味ももちえない。」
冗談ではない。科学的証拠が出てくれば、どんなものであれ飛びついて、声高に吹聴することは絶対に確実だ。P92〜93


グールドの発言は本気だと信じない、ですませ、信仰者の態度は自分のイメージにすぎにゃーモノを「絶対に確実だ」と妄想を広言するわけにゃんなあ。
科学と言うモノを多少なりとも理解した信仰者であれば、自分の信仰の基盤を科学的なものにはおかにゃーよ。なぜなら、科学は結局仮説以上のものではなく、それは未来において覆される可能性が常にあるからだにゃ。科学理論は常に一時的なものだといってもいいだろにゃ。僕がキリスト教の信仰者だとしたら、イエスに父親がいなかったと科学的に証明されたという報に無関心ではいられにゃーだろうけれど、それをもって直ちに信仰が科学的に証明されたとは決して言わにゃーだろう。信仰という永遠的なるものが、科学によって最終的に証明されるなどという発想は、そもそも信仰より科学を上位においた科学主義的な発想であることなど、ちょっとでもものを考えればわかることなのだにゃ。
ドーキンスの想定している信仰とか宗教って、チンケで馬鹿なんだよね。こういうのを藁人形論法っていうんだっけ?


では今日の論点をまとめるにゃ

  • 無神論のしでかしたことは華麗にスルー
  • 脳内でチンケな信仰者の行動をシミュレートして「絶対に確実だ」などとご発言
  • 都合の悪い発言は「信じない」

揚げ句の果てに

  • 過激な原理主義に通じる、とかいう白痴ファッショ論法で穏健な宗教を否定

ドーキンスのあまりの不誠実さと幼稚ぶりに、書評がいやになってきたにゃ。