「神は妄想である」書評(2
検索をしてみると、「神は妄想である」に好意的な批評が多くて驚愕しているんだけれども、もし本書を読んでドーキンスの言い分のおかしさに気づかずに「ドーキンスマンセー」という態度をとるニンゲンがいたら(懐疑主義者などと自称する者にも本書を絶賛するものがいるけれど)、僕はこうアドバイスしたいにゃ。
「チミには批判精神も論理性も根本的に欠如していることだけは自覚しておいてね」
さて今回は「神は妄想である」における基本的な詐術を指摘しますにゃ。
第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由 の結論部をちょいと見てみましょうにゃ。P236
もし、この章での議論が受け入れられれば、宗教の事実上の根拠----神がいるという仮説----はもちこたえることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。これが、本書のこれまでのところの結論である。
ほほー、なんかすごそうだにゃ。
で、この第4章で何が議論されているのか? ここで出されている論拠は、主に進化生物学と人間原理だにゃ。これは第3章 神の存在を支持する論証 P120で紹介されている「神学的な論証、あるいは設計(デザイン)をもちだす目的論的論証(世界の事物、ことに生物は目的をもって設計されたかにみえるという論証:引用者注)」への反論として、もっとも有効と思われるのがダーウィン的な進化生物学だからですにゃ。
うん、
生物は神が作ったとしか思えないほど複雑精妙だから神はいるんだ、という議論に対してダーウィニズムが有効であるというのはよくわかりますにゃ。僕自身もダーウィニズムは基本的に正しいと思っているしにゃ。
だけどさー
この議論で「神というもの、すべての神」「超自然的なものすべて」が否定されているわけにゃーだろ? 進化論とアニミズムって特に矛盾しにゃーぞ。
まあ、ここはドーキンスに思いっきり甘く接してみるとしましょうにゃ。最初はついつい「神というもの、すべての神」「超自然的なものすべて」を攻撃するとか大風呂敷を広げたけど、結局はキリスト教しか攻撃できてにゃーのだ。その点ではドーキンスにも問題があるが、しかし全ての宗教の教義をいちいち具体的に批判することは事実上不可能だと。
と、ここまで甘くしても、やっぱりダメダメなんですにゃ。
なぜなら、理神論モデルの神*1は、進化生物学では否定できにゃーんだ。
人間原理にいたっては、むしろ理神論の神と相性がいいだろにゃ。神が基本的な物理定数を定めたのだ、ということができるからにゃ。
この理屈で否定できるのは、いわゆる疑似科学の典型である創造科学の神、インテリジェントデザイナーとしての神、聖書逐語解釈の神*2ですにゃ。
つまりさ、ドーキンスが「神はほぼまちがいなく存在しない」とか抜かしているけれども、ここで否定できている神は疑似科学ビリーバーの信じる神でしかにゃーんだ。ドーキンスの否定したのは、おお、にゃんとチンケな神であることか!
ここでドーキンスのやったことは何か?
- 科学で疑似科学を否定しただけなのに、それを神の否定にすりかえた
チンケな詐術にゃんよ。
こうした神概念の恣意的な使い分けこそが、「神は妄想である」を基調をなすペテン論法といっていいだろにゃ。別の例をあげるにゃ。
第2章 神がいるという仮説 P79〜
ハクスリーとは逆に、私は神の存在が、他のあらゆる仮説と同じ科学的な仮説だと言うつもりである。
中略
神の存在あるいは非存在はこの宇宙についての科学的事実であり、実践的に解明することはできないとしても、原理的に知ることができる。
中略
たとえ神の存在がある程度の確実さをもって証明あるいは反証できないとしても、入手できる証拠と推論によって、五分五分どころではない、蓋然性の推定値が得られるかもしれない。
それでは、蓋然性にすぺくらむがあるという考えを本格的に取り上げ、それに沿って、神の存在についての人間の判断を、存在確立100%から0%のどこになるか、検討してみよう。このスペクトルは連続的なものであるが、以下のような七つの段階を設けることが可能だ。
1)強力な有神論者。神は100%の蓋然性で存在する。C.G.ユングの言葉によれば『私は信じているのではなく、知っているのだ。』
2)非常に高い蓋然性だが、100%ではない。事実上の有神論者。『正確に知ることはできないが、私は神を強く信じており、神がそこにいるという想定のもとで日々を暮らしている。』
3)50%より高いが、非常に高くはない。厳密には不可知論者だが、有神論に傾いている。『非常に確率は乏しいのだが、私は神を信じたいと思う。』
4)ちょうど50%。完全な不可知論者。『神の存在と非存在はどちらもまったく同等にありうる。』
5)50%以下だが、それほど低くはない。厳密には不可知論者だが、無神論に傾いている。『神が存在するかどうかはわからないが、私はどちらかといえば懐疑的である。』
6)非常に低い蓋然性だが、ゼロではない。事実上の無神論者。『正確に知ることはできないが、神は非常にありえないことだと考えており、神が存在しないという想定のもとで日々を暮らしている。』
確かに晩年のユングはインタビューにおいて「神を信じますか」と問われ「信じているのではなく知っているのだ」と答えていますにゃ。
しかしね
ユングの「知っている」神というのは、自然科学仮説としての神などでは断じてにゃーんだ。ユングの「知っている」神というのは、人類の心的構造のなかに普遍的に見られる存在のことだにゃ。
ここではユングがたまたま不当にも引き合いに出されているのだけれど、そもそも信仰者が信じているのは「自然科学仮説としての神」なのかにゃ? もちろん、多くの信仰者が信じているのは、ユングが「知っている」神概念とは異なるものだろうけれども、「自然科学仮説としての神」などというチンケなものでもにゃーだろ。
自然にも歴史にも拘束されにゃー超越的存在こそが神なのではにゃーのか?
「自然科学仮説としての神」というチンケなシロモノを信奉しているのは、創造科学という疑似科学を信奉するオツムテンテンなのではにゃーのか?
まあいいや、ここでまたドーキンスに大幅に譲歩して、「自然科学仮説としての神概念」とかいうチンケなものを問題にしてみるとしますにゃ。P85より引用
神を証明することも反証することもできないという理由だけで、神の存在する蓋然性が五十%だと想定すべき理由もない。のちに見るように、事実はその反対(神が存在する確率は極めて低いという意味:引用者注)なのである。
だからさー
その論法は創造科学ビリーバーの信奉する神には通用しても、理神論の神にはまったく通用しにゃーんだよ。極端な話、今の宇宙に神がいないことを証明したとしても、それは理神論の神を否定したことにならにゃーんだ。
それに、この蓋然性論法では他のタイプの神概念にも歯がたたにゃーだろう。例えば、某掲示板で僕が思いついた「純粋な確率的事象に介入する神」とか、イスラムの原子論的神学における「世界を不断に更新し続ける神」とか、あるいは否定神学の神とか。
まとめるにゃ
ドーキンスは「神というもの、すべての神」「超自然的なものすべて」を攻撃するとハッタリを効かせたが、実際に有効な神概念の批判ができたのは、創造科学ビリーバーの奉ずるチンケな神、自然科学仮説としての神の中でももっとも矮小な神に対してでしかなかったにゃ。つまり、その有効性は疑似科学批判の枠内でしかなかったはずだにゃ。
だが、ドーキンスは、疑似科学批判をもって宗教全体、神概念全体を批判したような詐術を用いているわけにゃんな。
第3章において、いろいろな神の存在証明を根拠がにゃーとドーキンスは切って捨てているけれど、これも特定のタイプの神についてしか有効性のにゃーものいいですにゃ。
今日の結論ね
- 神概念の恣意的で悪質で程度の低いスリカエが「神は妄想である」の基本詐術である
さらに続きますにゃ