宗教と身体化された認知

昨日のつづきですにゃ
昨日は理性至上主義批判だったけど、今日は「宗教的なるものの否定は可能なのか」というお話ですにゃ。

M.エリアーデ「オカルティズム・魔術・文化流行」P77〜78より 引用者が適時改段


二十年代初頭以来、文芸批評家たちは小説、戯曲、詩の作品の中で、死の神話学や地理学を解読することに成功してきた。宗教史家はさらに進んで、日常生活の多くのしぐさや活動が、死の様式や地平と象徴的に連関していることを示すことができる。あらゆる闇への侵入、あらゆる光の乱入は、死との出会いを表す。同様のことは、登山、飛行、潜水などのあらゆる経験にも、あるいは長旅、未知なる国の発見、異邦人との有意義な出会い、といったものについてさえ言えるのである。


これらの経験のいずれをとっても、それは神話や民間伝承によって知られるような想像の世界から、あるいは自らの夢や空想から、ひとつの風景、表象、出来事を喚び起こし、再現するのである。このような経験の象徴的意味にわれわれがほとんど気づいていないことは、改めて付け加えるまでもない。重要なことは、たとえ無意識のうちにであれ、これらの象徴的意味がわれわれの生活の中で決定的な役割を演じている、ということである。


このことは次のような事実からも確認される。すなわち、われわれはこのような想像の世界から片時も離れることができない。働いていようが、考えていようが、くつろいでいようが、楽しんでいようが、眠っていようが、夢をみていようが、あるいは眠ろうとして眠れずにいる時でさえ、決してそこから離れることはできないのである。


「象徴的意味がわれわれの生活の中で決定的な役割を演じている」という人間観は、合理主義的な人間観と対峙するものだにゃ。エリアーデというのはハッタリをかますような学者ではにゃーのだが、宗教学とか人類学などの思考になれていにゃー向きにはすぐさま納得しがたいかもしれにゃーね。
ちゅうわけでそこでただ突っ立ってないで、考えなさい(前篇) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~をご覧くださいにゃ。とてもオモチロイ記事なので、中編・後編も是非併せて読んでいただきたく思いますにゃ。
以下、リンク先より引用


こうした心の新しいモデルを描くのにもっともよく使われる用語が「身体化された認知」(embodied cognition)である。その考えの支持者は、それこそが人の心の能力を促進し理解するための全く新しい糸口を切り開くと信じている。ある教育者はこれを児童教育の新しいパラダイムだと見ており、ある人は読んだり書いたり暗唱したりする上で動いたり真似たりすることを勧めている。リハビリ医療の専門家は、発作や脳損傷によって奪われた能力を回復させるのを助けるのにこうした発見をひそかに用いている。しかしながら、もっとも大きな影響が神経科学そのものの分野において生じており、身体化された認知がこれまで心の伝統的な考え方を成り立たせてきた古臭い区別を─脳と体の間だけでなく、知覚と思考、思考と行為、理性と本能との間の区別さえをも─脅かしている。


「これは画期的な着想だ」とショーン・ギャラガー(セントラルフロリダ大学認知科学プログラムのディレクター)は言います。「身体化された視点では、あなたが認知について説明する上で脳の中を見るだけでは十分ではないのです。どんな場合でも、主に脳の中で起こっていることは、何が体に起こっているかそしてその体がその環境でどう位置しているのかに全体的として関連しているのです」


中略


チューリッヒ大学の人工知能研究室のディレクターであるロルフ・ファイファーは語る。「もしコンピュータにチェスをするのを教えたいか、サーチエンジンを設計したいなら、古いモデルで大丈夫である。しかし、現実の知性を理解したいなら、体に対処しなければなりません」

「私たちは脳だけでなく体ででも考えているのです。」という「身体化された認知」という視点は*1、楽器の演奏家とか職人にとっては「何アタリマエでコンコンチキなこといってんの?」としか言いようのにゃーことだと思うにゃ。彼らは手で考える人種だにゃ。


ここで、「現実の知性を理解したいなら、体に対処しなければなりません」といった箇所に注目したいにゃん。というのも、宗教、特に神秘主義的宗教こそが身体に対処した思考を積み重ねてきた知の体系なのですにゃ。例えば、禅やヨガの修業においては呼吸法が重視されることはよく知られていますにゃ。
そもそも、人体をミクロコスモス、世界をマクロコスモスととらえ、ミクロコスモスとマクロコスモスが照応するという考え方は、諸民族の神話にもいろいろな宗教にも、あるいは占星術などのオカルトにも広く見られるわけで、宗教・呪術・神話に共通するいわば超越的思考の根本的な原理のひとつといっていいものですにゃ*2
この超越性という観念、ドーキンスらが批判してやまない超越的なるものという観念は、「身体化された認知」から導かれうると僕は思いますにゃ。


身体を考えるというのは、つまり性を考えるということであり、身体というものを徹底的に考え抜いてきたのは、宗教とフェミニズムなのではにゃーかしらん*3
まあ、現代思想とか現代哲学においても身体性というのは大きなトピックみたいで、身体論はいろいろと書かれているようですにゃ。そして身体論においては、ほとんど身体の象徴性についても言及されているようにゃんね。


「身体化された認知」という視点は、宗教に新たな光をあてることになるのではにゃーだろうか? 認知系のガクモンを中心として、医学、生理学、心理学、宗教学、人類学などの学際的な宗教知の研究が望ましいと僕は考えますにゃ。宗教は簡単に否定できるようなシロモノではにゃーんだよ。
さらに続けますにゃ

*1:これはニンゲンとは魔法が使える生き物である - 地下生活者の手遊びで引用したお辞儀の複雑さにも関連した話にゃんな

*2:万物照応 - 地下生活者の手遊びとも関連

*3:ちなみに僕は、反・反フェミニズムでもある