理性は万人の狂気である

反・反科学であり、かつ反・反相対主義という立ち位置の僕は、同時に反・反宗教でもありますにゃ。macska dot org » 米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望というエントリについてちょっと考えてみたいと思いますにゃ。
リンク先エントリから引用


ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象ーー理性の審判を受け付けないものーーとなってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。


「理性こそ世界のあらゆる問題に対する答え」
この理性至上主義が理性信仰、理性崇拝でなくてなんなのでしょうかにゃ?*1
僕は理性至上主義を侮蔑している。
もちろん、理性そのものを僕は否定しにゃーし、否定できるわけにゃー。しかし、理性至上主義とは悪しき理性の捉え方であり、最悪のカルトとなりえる。
このエントリは、理性至上主義への憎悪に満ちた反論ですにゃ。


まず、手元の「現代思想を読む事典」講談社現代親書P212から引用


非理性的なもの、因襲的なものへの従属から脱して、精神の最高能力である理性を育み、その光に照らして世界を考察し、個人的ならびに社会的生活を組織していく必要があるとする近代の啓蒙的な考え方を、総称して合理主義(rationalism)という。


中略


真理は合理的なものでなければならないという合理主義の理念は、すべての知に対して、それが理性的・論理的に充分に基礎づけられていることを、そして、あらゆるとき、あらゆるところで、あらゆるひとに妥当するような普遍性をそなえていることを要請する。またそれは、歴史的な現実の場面では、歴史は普遍的な理性秩序に向かって一義的に発展していくという考え(理性の目的論、<進歩>の思想)となる。


こうした合理主義の理念に対する異論は、現代では反理性(非合理性)の立場からでなく、むしろ理性/非理性という二項対立を成りたたしめている近代的な思考の地平そのものに対する批判的視点のかたちをとって現われてきている。それは、超歴史的な性格をもった唯一的・全体的な「大文字の理性」をもう一度事実的なもののうちへと置き戻し、それ自体を歴史的なものとして捉えかえそうという立場である。


たとえば、理性そのものが非理性的に機能する(あるいは野蛮へと転化する)歴史的な局面に注目したり、《知の究極的な基礎づけ》という理念の破綻を指摘したり、近代的理性を道具的理性や科学的合理性として規定したうえでそれに批判的理性や生活世界的な合理性を対置したり、《別の合理性》の可能性を探求したりというふうに、現代の合理性論は総じて、理性的なもののうちに内在する《影》を問題にしながら、理性的なものの複数化をめざしてきた。


まず、言っておかなくてはならにゃーのは、「理性そのものが非理性的に機能する(あるいは野蛮へと転化する)歴史的な局面に注目したり、《知の究極的な基礎づけ》という理念の破綻を指摘したり、近代的理性を道具的理性や科学的合理性として規定したうえでそれに批判的理性や生活世界的な合理性を対置したり、《別の合理性》の可能性を探求したり」といった動きは、ソーカルあたりにつるし上げられたポストモダンとやらの営為ではにゃーということ。
例えば、理性そのものが野蛮へと転化する、というのはナチスの研究においてユダヤ人哲学者アドルノとホルクハイマーの見解だにゃ。親族や友人知人を大勢ナチに殺された大哲学者の思索の結晶といっていいにゃ。こういう血を吐くような論考があるというのに、お気楽に理性理性とのたまわるのはホロコーストの死者への侮辱なのではにゃーだろうか? しかも、理性の名をかたって他者を抹殺しようというのは、二重の意味で死者への侮辱だにゃ。


アドルノの考えについて、ちょっとリンクして引用しておきますにゃ。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/great/adorno.htmより


「なぜ人類が真に人間的な状態に歩み行く代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでゆくのか?」と『啓蒙の弁証法』の序文で掲げられている問いは彼の問題意識をよく表しているだろう。彼は理性の破壊状況を概観し、現実を総体として理性で把握しようとする希望を幻想と否定した。「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という彼の有名な言明には、殺戮の「野蛮さ」ではなくそのプロセスに体現されている「合理性」、合理性と野蛮の結託を徹底的に批判するという彼の態度があらわれる。

このエントリではアドルノの思想について突っ込む余裕はとてもにゃーです。アドルノに興味を持たれた向きはsekibang 1.0の記事一覧から「アドルノ」で検索してご覧いただければと思いますにゃ。もちろん、アドルノの著作を読むのが一番なんだけど。


ここではとりあえず、理性には影がある、暗黒面があるのだということを、ニンゲンは死体の山を積み上げてやっとわかったのだということを確認しておきますにゃ。


さて、macskaのブログから引用を続けますにゃ


こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。


ブクマコメントを見る限り、どうもこの辺の記述がもっとも理解され難かったように思えますにゃ。疑似科学批判批判とオーバーラップさせたコメもあったし。
ちゅうわけで、僕としてはこの辺の議論をさらに引っかき回してみるにゃ。


宗教多元主義モデルに対する批判的考察――「排他主義」と「包括主義」の再考を読んでみてほしいのですにゃ。
読んでもらうことを前提に、ものすごく乱暴にまとめてみると

  • 宗教の神学には三類型がある

1)排他主義→「教会の他に救いなし」といったキリスト教絶対主義。教会中心、聖書直解の傾向がある。バルトも排他主義といわれる。
2)包括主義→キリストの救いが普遍であるがゆえに、他の不完全な宗教でも救いはありえる。キリスト教は他宗教より上位におかれる
3)多元主義キリスト教の優越性という観念を批判する。諸宗教の中には固有の真理契機があるが、いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。一般的にリベラルな立場において採用される。

  • 多元主義は一見するとリベラルかつ中立に見えるが、その実、西欧中心に各宗教を序列づける「優越的置換主義」がついてまわる。
  • 進歩主義的な立場から道徳を宗教の上位に立てた日本の哲学者井上哲次郎の試みは、優越的置換主義の反西欧的な類型である。
  • 包括主義は、いずれの宗教も、自分たちの宗教言語や思考の枠組みの中でしか、他の宗教との関係を位置づけることはできないこと(通約不可能性)を端的に教えている。したがって、他宗教を理解する際の基本形として包括主義を評価すべきであろう。
  • 排他主義とは意図的な反近代であり、実はナチスへの抵抗勢力になりえたことを看過してはならない。近代性の拒絶は抵抗の拠点となりえる。

結論として


包括主義と排他主義が有する意義ついて触れたが、もちろん、そのままで何の問題もないわけではない。注意すべき最大の課題は、自らの立場を無批判に正当化したり、絶対視してしまう罠からどのように逃れ出ることができるか、という点にある。信じるものに対して強い確信をもちながらも、同時に自らを絶対視しないために必要なのは「他者」の視線である。
ここで他者とは、単に自分以外の存在というだけでなく、本来自分の意のままにならない予測不可能・制御不可能な存在であると言える。神学的に言えば、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に〈他者性〉の起源でもある。それゆえ、神や人の〈他者性〉を顧慮しない者は、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性――偶像崇拝の危険性――を絶えず内包している。すなわち、他者の〈他者性〉を受け入れることのできない者は、他者を自己に従属させようとするのである。このような緊張の中で、氾濫する相対性に平衡をもたらし得る価値規範を我々は模索しなければならない。それゆえ、他者認識を曖昧にする優越的置換主義を前提とした多元主義モデルを、宗教間対話の最終ゴールとすることはできないのである。


キリスト教帝国主義の道具として植民地の搾取をしていたという歴史的事実がありますにゃ。だから、西欧中心主義について非常に敏感なのでしょうにゃ。多元主義というリベラルな立場は、実は他者性を曖昧にして西欧中心的な価値を呼び込んでしまうこと、包括主義は通約不可能性を意識するがゆえに他者の尊重につながること、排他主義が抵抗の拠点となりえること、などの逆説がここにはありますにゃ。


さて、ここで話をもどしてみましょうにゃ。
先ほどの「宗教の神学」の議論を追っていれば、

  • 理性中心主義は、カモフラージュされた搾取的な西欧中心主義

ということに気づくのではにゃーだろうか?


まず、理性中心主義はもっとも穏当で平和的であっても、「他者認識を曖昧にする優越的置換主義を前提とした」ものになるのではにゃーのか? にゃんといっても、理性とは万人に与えられたものということになっているんだにゃ。
そしてここから排他主義の度合いがますにつれて(つまり理性中心主義から理性至上主義となるにつれて)、救いのにゃーことになっていく。
というのも、理性は万人に与えられたものということになっているが故に、通約不可能性というものが意識されにゃー。通約不可能性の了解というのは、「お互いに話が通じなくても仕方ありませんよね」ということだにゃ。しかし、理性至上主義者にとっては通約不可能性を了承するわけにはいかにゃーだろ。


「《知の究極的な基礎づけ》という理念の破綻」と先ほど引用した「現代思想を読む事典」にありましたにゃ。ゴータマやイエスソクラテスなどを除いたほとんどのニンゲンは、例えばガキに「なぜ?」と問われ続けてその全てに答えきることはできにゃーはずだ。僕たちの思考は、必ずどこかで停止する。
思考停止に開き直ろうというのではにゃーぞ。必ず思考がどこかで停止してしまうという現実を直視しなければならにゃーと言っているのだにゃ。つまり、通約不可能性を認め、それを前提にしなければならにゃー。
自分の思考停止ラインを知るというのは、他者とのコミュニケーションにおいて必須なのではにゃーだろうか。信仰者というのは、自らの思考停止ラインについて自覚的なのではにゃーのか? こういう信仰者のほうが、理性至上主義者よりもよほど話がしやすくにゃーか?
日本の哲学者井上哲次郎は、進歩的なつもりで道徳を宗教にうえに置いたにゃ。しかしそれはファシズムの道具にしかならなかったにゃ。


「抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。」というmacskaの言い分は理解できるにゃ。メリケンの内部において、あるいは世界において、マイノリティは多様な文化の中で生きていますにゃ。宗教と文化を明確にわけることはできにゃーし、誇りを持って生きるためには信仰が果たす役割は大きい。理性至上主義が否定するのは、そうしたマイノリティのプライドだにゃ。


理性至上主義はヤバいんだにゃ。
神という他者性の契機がなく、通約不可能性という観念がにゃーから他者が存在しにゃー。だから、自分に近いほど価値あるものだというふうに自分からの距離でしか相手の価値をはかれにゃー。そして、自分から遠くにいるのは、他者ではなくてただの出来損ないだにゃ。
長くなっちゃったので、つづきはまた。

*1:手元の、ドーキンス「神は妄想である」日本語版を今見た限りでは該当の個所は見つからなかったけど、ドーキンスがそうした発言をしたというmacskaの言明を信頼した上でいろいろと述べますにゃ。まあ「神は妄想である」であらゆる神を否定するとか抜かしているのだから、それだけでも充分に理性至上主義といっていいけどにゃ