よき魔法とよき魔法がもたらすもの

なんで孔子を論ずる上で魔法の話がでてくるかなんだけど。
もうきづいているお方もいるだろうけれど、例えばこういうことですにゃ。
『論語 衛霊公篇』の書き下し文と現代語訳:1から引用


子曰く、無為にして治むる者はそれ舜か。夫れ(それ)何をか為さんや。己を恭々(うやうや)しくして正しく南面せるのみ。


[口語訳]先生が言われた。『何もせずに上手く天下を統治したものは舜だけであろうか。あの人はいったい何をしたのだろうか?ただ自分の身を慎んでへりくだり、帝位に就いていたというだけなのだ。』


[解説]孔子が伝説の聖王である舜の政治について言及した章で、舜は『無為の為政者』として自分の身と心を修めるだけで徳治政治を実現していたという。儒教は、刑罰を嫌って道徳を勧める教えなので、理想的な政体というのは何も法律を作らず何も処罰しない政府(朝廷)ということになる。伝説的な帝王である舜が、人民が自発的に法(倫理)を守りたくなるような人格者であったということを伝えるエピソードであろう。舜は、自らは何も命令(強制)せずに『修己治人』の理想の境地を体現した伝説上の人物と言える。

伝説の聖王は最高の魔法使いなのですにゃ。ここではすでに呪文すら必要なく、「自分の身と心を修めるだけで徳治政治を実現していた」。この極めて高度に洗練された「よき」魔法を孔子は「礼」といったのですにゃ。
「怪力乱心を語らず」などというエピソードから、孔子は合理主義者として解釈されることもあるのだけれど、合理主義者としての孔子像には問題が多いと思いますにゃ。儒教とはもともと呪術的祭祀をとりしきる集団であり、孔子は巫女の私生児であったと白川静の「孔子伝」にあるようですにゃ*1


なんら強制を伴わずに他者を動かすことのできる魔法として、呪文のほかに「人徳」というものがありますよにゃ(まあ、呪文も人徳がなければ成功率が低くなるけど)。何も言わずに他者を動かすことのできる人物というのは確かに実在しますにゃ。その形式面を「礼」、その実質を「仁」などとこの「よき魔法」を整備して、国家を運営する基本原理とするという呪術ベースの政(まつりごと)を孔子は目指した。よき魔法の原理をその統治原理とする政治が孔子の理想の政治なのですにゃ。


と、ここまで書いてきて、「よき魔法の原理をその統治原理とする政治」というのは、いわゆる政治的に保守派の基本的志向なのではにゃーかという気がしてきたにゃ。
日本の天皇制、メリケンの市民宗教、イスラム国家などなど、みなそれなりにあてはまりそうな気がするにゃ。
また、この志向性をベースにすると、黄金時代の捏造という、いわば歴史修正主義的な操作が必要になってくるようにも思えますにゃ。
このネタはまたゆっくりやろう。

*1:ごめん、読んでにゃーのだ。呪術を語るのであれば必読文献であることは重々承知しているのだけど